故建川駐ソ大使「命のビザ」発見
第2次大戦ユダヤ難民遺族米で保管
第2次大戦中の1941年3月に、当時の駐ソ連大使、故建川美次(1880~1945年)がナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民に発給した「命のビザ(査証)」の写しを、米東部ニュージャージー州在住の難民の遺族が保管していることが14日分かった。
建川による渡航証明書の存在は知られていたが、ビザが確認されるのは極めて珍しい。ビザは日本の外務省が現地での発給を禁じた翌日に出され、ほぼ最後の1枚とみられる。難民に同情的だったとされる建川の判断が影響したもようだ。
難民は当時17歳だった女性リスシェル・コトラーさん(1923~2015年)。遺族が共同通信に故人の証言や当時の資料を明らかにした。
それによると41年3月8日夜、リスシェルさんは単独でモスクワの日本大使館を訪問。同館前にいた多数の難民は入館を許されなかったが、英語で「約束がある」と守衛に言うと通された。館内では「絹の着物のような服」を着た男性が面会し「日本に行きたい」と伝えると「かなり考えた後」ビザに署名、発給されたという。
リスシェルさんの五男アーロンさん(56)は「守衛は母を難民と思わなかったのだろう」と説明。
「母は何百回もこの話をして建川に感謝していた」と語る。リスシェルさんはこの後、敦賀(福井県)、神戸、上海などを経て47年に米国に入国。義父、夫と共にニュージャージー州レークウッドに正統派ユダヤ教の大学を設立、発展させた。
外交官の故根井三郎(1902~92年)が発給したビザの話を最近知ったアーロンさんが、ユダヤ難民問題の著書があるライターの北出明さんに連絡、経緯が明らかになった。
北出さんは「命のビザ」は「杉原千畝や根井が有名だが、ほかにも多数が人道的に動いたことを知ってほしい」と語る。
アーロンさんが理事長の大学は正統派ユダヤ教の世界的拠点となり、レークウッドは大学町として急発展した。「ビザがなければ町もなかった」とアーロンさんは話して
いる。(レークウッド共同)
☆建川美次 1880年新潟市生まれ。陸軍士官学校を経て日露戦争に従軍、偵察活動で功績を上げ、ベストセラー小説「敵印横断三百里」のモデルとされる。陸軍中将の後、1940~42年、駐ソ連大使。41年4月に日ソ中立条約署名。同年3月7日、松岡洋右外相から難民へのビザ発給を禁じる通達を受けるが、その後も渡航証明の形で書類を出した。数百人の難民がビザか渡航証明を受けたとみられる。(レークウッド共同)
【静新令和2年(2020年)7月15日(水曜日)朝刊】
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