2024年9月29日日曜日

沼津・第二中学校区  「考える会」意見集約難しく 全21委員の見解併記 (東部総局・尾藤旭) 

 

 沼津・第二中学校区

 「考える会」意見集約難しく 全21委員の見解併記



 沼津市の第二中学校区の小中学校再編について地域住民や保護者らが意見交換する「学校の未来を考える会」(委員長・武井敦史静岡大教授)は27日、最終会合を市役所で開いた。依然委員間の隔たりは大きく、全21人の意見を列挙し、11に上る再編案も記した資料を付ける総花的な意見書とすることになった。意見書を住民や保護者に説明後、来年初頭にも市教委が再編万針を決定する。

 考える会は2021年の統合白紙を経て、昨年10月にスタート。今年6月に四つの再編案を示したが、その後さまざまな組み合わせを検討し計11に増えた。中には、二中校区の3小節学校を統合し、学区外の児童生徒も通える小中一貫の「小規模特認校」とする案も加えられた。

 最終会合では、作業部会でまとめた11案を併記した上で論点を整理する「議論のまとめ」案が示されたが、望月照五副委員長が委員15人の賛同を得たとして別の4案に再度絞り込むよう「改定案」を示し、武井委員長に採用を迫つた。

 武井委員長が拒否すると、その後、賛同した15人の間に認識に差異があることや、拒否した委員の存在も浮き彫りになった。その上で当初のまとめ案を退け、全委員の意見を冒頭に示し、これまでの全資料を付す「参考資料的な意見書」(武井委員長)として市教委に提出することにした。

 市教委は10月末から11月初めにかけて住民や保護者への説明会を開催。2024年度中の教育委員会で最終的な再編案を決定する。

 

 記者の目

 対立やめ前向きな議論を

 紆余(うよ)曲折を経た沼津市の第二中校区の再編間題は意見の隔たりが埋まらず、ほぼ集約できない形での意見書となった。取材では、一定程度集約の余地がある意見の違いを、一部委員が持論を押し通そうと委員問の分断を広げたように見えた。

 急速な少子化は沼津のような中核都市の中心部でも進む。静岡市や浜松市では、既に十数年前から中心部の伝統校の統合に着手。沼津市教委の対応は、遅きに失した感が否めない。少子化の原因は、親世代が既に少子化世代に入った"少親化"。小中学生の親世代である3040代の沼津市の人口はわずか10年で23%減少。出生率が多少向上しても、少子化は加速度的に進むだろう。子どもの減少幅を減らすには、親世代の住民増加が必要だ。対立が深まる中で、彼らがこの学区に住みたいと思うだろうか。

 市教委がどのような方針を示しても、全員の納得は得られないところまで対立は広がってしまつた。それでも学校再編は不可欠な以上、市教委は逃げずに方針を示すべきだ。転佳民も対立ではなく、女性の考えや多様な意見を尊重し、前向きな議論を進めてほしい。対立の解消こそが、親世代の住民と子どもたちを増やすことにつながる。

(東部総局・尾藤旭) 


240929沼津の城研究発表会初日新聞取材記事プラス版as

三枚橋城の模型沼津で展示開始 画家・荻生さん制作  【石川宏】【毎日新聞令和6年9月29日(日)静岡版】

 


 


三枚橋城の模型沼津で展示開始

 画家・荻生さん制作

 かつて沼津市にあり、江戸時代初期に廃城となった三枚橋城の模型を画家で元沼津文化協会理事長の荻生昌平さん(90)が作り、同市大手町のギャラリーほさかで展示を始めた。101日まで。

 三枚橋城は武田氏が戦国時代に築城。江戸時代初期に一時は大久保氏の居城となったが、1614年に廃城となり、城跡は田畑になった。廃城の約160年後には跡地に沼津城が築城されている。

 史料がほぼ残っていない中、荻生さんは天守閣は幅6(11)で三層と推測し、実物の60分の1にあたる高さ45㌢の模型を紙と木で作った。

 荻生さんは「言葉で伝わらないものが視覚的に理解できると考え模型を作った。沼津に城があったと知ることで誇りを抱いてほしい」と話しだ。 【石川宏】【毎日新聞令和6929日(日)静岡版】



原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年9月29日(日)仏滅 曹洞宗道元禅師忌」「信賞必罰」旧歴8月27日

 



2024年9月25日水曜日

240925赤池紙芝居枠紹介おまけ付as

240925雑古庵ヘボ都々逸「斎藤知事 再出馬?」as

原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年9月25日(水)赤口 彼岸明け」「傍若無人」旧歴8月23日

 



健康に生活できる「お達者年齢」  男性80.1女性843歳  【静新令和6年(2024年)9月25日(水曜日)】

 沼津市 男:78・5 歳 女:83・7歳



健康に生活できる「お達者年齢」

 男性80.1女性843

 県はこのほど、生まれてから健康に生活できる期間を示す「お達者年齢」を初めてまとめ、2022年は男性が801年、女性が84.3年だったと発表した。市町別では、男性が菊川市の818年で1位、女性が湖西市の865年でトップとなった。

 県は12年度から、65歳を起点とした平均自立期間を独自に算出し、全国に先駆けて「お達者度」として公表していた。19年度から国が「お達者年齢」をまとめるようになったため、本年度から県もお達者年齢の公表に切り替えた。

 お達者年齢は要介護度2未満の状態を「健康」と定義し、年代別の死亡率、介護認定割合、全国の平均寿命などのデータに基づいて算出している。

 2位以下は男性が湖西市、川根本町、島田市、袋井市の順。女性は森町、伊豆市、島田市、小山町、牧之原市と続いた。一方、伊豆地域の沿岸部でお達者年齢が短い傾向が明らかになった。県は上位の市町の取り組みとして、出張健康相談や高齢者の社会参加促進などを挙げた。

 県は21年のお達者年齢も併せて公表。男性が805年、女性が84・7年で、市町別では男性1位が菊川市819年、女性1位が森町870年だった。

【静新令和6(2024)925(水曜日)

 


2024年9月18日水曜日

JR沼津駅南口 商店街再開発 【静新令和6年9月18日(水)朝刊】

 


再開発事業と地区計画を承認し、市に答申した。

 JR沼津駅南口 商店街再開発も

 JR沼津駅南口(沼津市)の大手町と仲見世の両商店街で計画されている再開発事業について、市都市計画審議会は17日、再開発事業と地区計画を承認し、市に答申した。再開発に向けた動きが加速する。

 事業計画はマルサン書居旧仲見世店周辺の約4千平方㍍が施行区域。このうち、道路部分を除く約2800平方㍍の敷地に地上25階建て、延べ床面積28500平方㍍の建物を整備し、店舗や176戸の住居を計画する。【静新令和6918日(水)朝刊】


240917雑古庵ヘボ雑句「熱海富士十日目黒星」若元春関によりきでas

能学サロン「能と源氏物語」入門講座のお知らせ

 






沼津市 北東部 共働きに需要  【静新令和6年9月18日(水)朝刊】

 


 沼津市 北東部 共働きに需要

 住宅地は13%減、商業地は11%減といずれも下落したが、下げ幅は縮小した。人口減少などで土地売買の総件数は減っている。

 供給が限られるJR沼津駅周辺は、投資家らによる需要が高く、米山町や新宿町などで17万~23万円の取引があった。国道246号や国道1号、東名高速沼津インターへのアクセスが良い市北東部は、共働き世帯から一定の需要があり、大岡が11万~12万円。岡宮の分譲地は12万~13万円で推移する。商藁地は、昨夏の大雨で床上・床下浸水があつた平町の引き合いが鈍化した。

【静新令和6年918()朝刊】


原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年9月18日(水)大安 二十八宿:軫」「本家本元」旧歴8月16日


 


2024年9月17日火曜日

2024年度 中部東ブロック・ユネスコ活動研究会IN沼津「平和講演会」案内

 



令和6年度 山王さん御祭礼 (御鎮座928年) 御案内

 






旧県社日枝神社

明治六年(一八七三)に郷社となり、大正十五年(一九二六)十一月二十五日、県社に列せられた。車返神詞ともいわれ、以前山王社といった。大岡庄は当時関白藤原師通(もろみち)の領地であった。嘉保二年(一〇九五)源義綱が叡山の僧円応法師を殺害した事件があった。僧侶たちは師通に訴えたがいれられず、かえって神人が武士に殺されたので、師通は僧侶らの呪咀(じゅそ)により山王の崇(たたり)をうけ、三十八歳で死去した。これがため堀河天皇の康和元年(一○九九)十一月に師通夫人の誓願によって、近江国滋賀郡日吉神社の分祀を請い、大岡庄の内八町八反を寄進してここに祀ったといわれている。それ以来、各時代を通じて領主の崇敬が篤く、大岡庄の総鎮守であった。祭神は大山咋命(おおやまぐいのみこと)で、相殿は大歳神・大己貴(おおなむじ)神である。毎年九月二十四日を例祭日としている。この神は冶水をつかさどり、また造酒の神としても崇敬されている。

社宝として、国の重要文化財に指定された山王霊験絵巻一巻(『文化財篇』参照)、沼津城主大久保忠左が奉納した助宗の槍、菅公真蹟・藤原為兼筆一幅・大釜(源頼朝が富士の巻狩に使用した遺物で、直径三尺余の大釜であったが、殿損して今はその辺片を残すのみ)・今川氏や北条氏関係の古文書類などがある。(「沼津市誌下」152・153頁 昭和33年11月15日発行)







240917ぬましんSG「明治史料館第21回館蔵資料展」as

240916雑古庵ヘボ都々逸「熱海富士九日目白星」大栄翔押し出すas

原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年9月17日(火)仏滅 十五夜」「牛飲馬食」旧歴8月16日

 



2024年9月12日木曜日

240912三枚橋城天守閣模型と忍者と槍もち武士人形as

沼津の城 研究発表会 令和6年9月27日~29日 ギャラリーほさか・アートスペース

 









枚橋築城 

 天正五年の夏、勝頼は家臣の高坂源五郎に命じて、沼津に三枚橋城を築かせた。

天正六年八月、徳川勢はにわかに急進し、府中をこえて由比・蒲原にまで進出した。この時は深く敵地へ入ることをおそれて、付近の民家や田畑をあらしただけで引揚げたが、翌九月には勝頼軍が大井川をこえて東遠に報復してきた。この争いのうちに、後北条氏が長年の敵である上杉謙信死後の上杉民と和睦し、これに伴い、家康のあっせんで織田信長とも提携し、従来の武田勝頼との提携を破棄するという挙に出た。こうして孤立させられた勝頼は、急いで上杉景勝と和して後顧の憂をなくした上で、駿河の沼津に出兵した。時に天正七年(一五七九)九月十三日のことであった。

三枚橋城は先に述べたとおり、高坂源五郎の手によって築城された。これには異説もあるが、その当時の城としてどの程度の規模をもっていたのか明らかでない。ただこの時、勝頼の軍勢一万六千余がここに出動し、伊豆の三島にまで出陣してきた氏政軍と対陣した時、勝頼は城が完成していないので、土屋右衛門に命じて急ぎ工事を終らせた。

 その土屋は千本山成鳴寺(乗運寺)の僧大誉(増誉)に帰依していたので、築城の終ったあとの木材を大誉に与え、勝頼も十五貫の土地を寄進した。成鳴寺は千本松原を復興した増誉長円上人を開祖とした寺であるという説話がある。この両軍は、次に引用する「北条五代記」(巻の七の「駿河海にて船軍の事」)の記述のように、激戦を交えた。

見しは昔。北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内高国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭・長久保・戸倉・志師浜、此四ヶ城はするかの国中たりといへ共、先年今川義元時代、氏綱切て取しより以来、氏直領国となる。義元、駐玄時代此するか領を取返さんと遺恨やんことなしといへ共、ついに叶はず。扱又沼津の浦つゝき、香資・志下・真籠・志師浜.江浦.田飛.口野、此等の浦里もするか領、氏直持也。-志師浜には大石越後守在城。此の城の後にわしすと云高山あり。勝頼するかへ出陣の時は、わしつ山に物見の番所有りて人志かと住し、浮島か原を見わたせは、勝頼の陣場の様子目の下に取かことし。されはするか浦に氏直兵船かけをくへき湊なきゆへ、伊豆重須の湊に兵船ことごとくかけをく。沼津よりは二里へたたれぬ。梶原備前守子息兵部太夫かしらとし、清水越前守・富長左兵衛慰・山角治郎少尉・松下三郎左衛門慰・山本信濃守なと云船大将、此重須浦に居住す。氏直伊豆の国にをいて、軍舟を十艘作り給ひぬ。是をあたけと名付たり。一方に艘二十五丁、両方合五十丁立の兵船也。常にひとりきくる鉄砲にて、十五間前に板を立て、玉のぬけぬ程にむくの木板をりて、舟の左右艪舳先をかこひ、下に水手五十人、上の矢倉に侍五十人有りて、矢さまより弓鉄砲はなつ様に作りたり。舳さぎに大鉄炮を仕付をきたり。然に天正八年の巻勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三島にはたを立たゝかひ有。重須の兵船、駿河海へ働をなすへき由、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮島か原、諸勢は沼津千本の絵原より古原迄、寸地のすきまたく真砂の上、海きはまて陣取。然に十艘の舟にかけをきたる大鉄炮をはなしかくる。敵こらへす皆ことごとく退敗し、へいへいたる真砂地白妙に見えたり。扱又敵の諸勢浜へ来て砂をほり、上共中に有て鉄炮を数百挺かけをき、舟を待所に十艘の舟汀をつたひごき行。陸と舟との鋲炮いくさ、雨のことく舟にあたるといへ共、兼ての川意板垣とをる事なし。敵船は消水のみなとにかけをくといへ共、小韻ゆへ終に出あはす。日暮ぬれば伊豆へ帰海す。然所に勝頼下知として、三月十五日の夜いまた明さるに、敵船三艘蔽須のみなとへ来て鉄炮をはなつ。すは敵船こそ来りたれと、舟を出す。敵船は艪二十丁立にて小船なり。此舟をおひ行所に、沼津川へも入すして.勝頼の陣場浮島か原下へこき行所に、又沼津川より舟二艘出し合五艘に成ぬ。浜辺に付てこき行を十艘の舟をひかくる。此五艘の舟沖へこき出ては又浮島か原下へこき帰る。勝頼は船いくさ見物として浜へおり下り、旗馬志るし見えたり。諸勢浜へ打出、塩水の中腰たけに入て弓鉄炮をはなつ。十艘の船あつまりて評定していはく。敵船清水沼津へもにけゆかす。叉勝頼の旗本、浮島か原の前海に来る事、勝頼下知として舟いくさ見物と志られたり。すへて味方の舩二艘は沢辺の前後に有りて、八艘の船は沖より敵船を取まはしうつとらんと、智略をみくらすといへとも、小船にてはやけれ、をひつぎかたく、広き海中に算を見たしをひめくる。勝頼五艘の船共にくるを見て、はらわたをたつ。其節持出たるはた馬志るし・甲冑、ことくく其仕場居にて焼すて、木陣に帰り絵ひぬ。臼も慕ぬれは、十艘の舟伊豆へ帰海す。

この海戦のあと千本付近に激戦があり、多数の死傷者が出て、その結果後世干本松原に首塚ができた。そのころ徳川家康の軍が背後に迫り、用宗・府中・由比・倉沢の武田方諸城を攻めて放火したことが、沼津の武田陣に伝わり、武田軍の将士の士気は急速に弱まり主力は甲府へ退いた。沼津の三枚橋城には氏政の軍がたびたび押寄せた。天正八年(一五八〇)九月の戦いには、高坂源五郎の足軽大将小幡山城守が奮戦したことを聞き、勝頼は感状と太刀を与えて激賞している(甲陽軍鑑)。翌九年十二月、戸倉城の城主笠原新六郎が主君北条を裏切って三枚橋城の高坂源五郎に降服した。この二城は狩野川をはさんで、わずかな距雌のところにあったから、小せり合いは常に絶えなかった。北条氏直が新六郎をあざけったことを遺恨に思っていたのを、源五郎が巧みに誘ったというのであるが、一説には攻略して降参させたのだともいわれている。天正十年に入り、武田の属域となった戸倉城と、その向城として北条方がつくった大平城との問に、小規模な戦闘があいかわらず就いた。ところがこの年正月、織田信長は勝頼討伐を決意し、家康に出動の命令を下した。家康はこれに応じ、同年二月府中に入り、さらに江尻城にいた武田の臣穴山梅雪に降服をすすめた。勝頼の将来に危惧を感じていた穴山は、自己の主城である甲斐下山城に帰ることを条件として江尻を放棄した。この結果が他の武田方に波及し、持舟城の朝比奈は久能城に逃げ、久能城の今福呂和も降伏した。田中城の守将も戦わないで城を棄てる有様で、その中心ともいうべき府中城の守将までが三月二日に域を放棄してからは、蒲原城・興津城・三枚橋城も同様となった。三枚橋城の高坂源五郎は、甲州の実状はどうかと守兵をつれて帰国したところ、勝頼や長坂釣閑斎に疑われて甲州からも追われたという。こうして徳川家康は松平康親を派遣して沼津の三枚橋城を守らせた。時に天正十年三月七日であった。三月十一日に武田勝頼は徳川勢のために天目山に破れて自刀し、武田氏はついに滅亡したが、これによって駿河一帯は徳川家康の支配下に属したのである。この年六月二日に、織田信長は本能寺の変で明智光秀のために落命した。

(「沼津市誌上巻 391394頁 」昭和36330日発行)

 

 沼津城祉(三枚橋城址)大手町

 沼津城は古く三枚橋城と呼ばれ、一説には北条早雲が今川氏のために築いたといわれているが、「甲陽軍鑑」「北条五代記」「真田三代記」などによると、沼津に武田勝頼が築城したとしるされている。これは北条氏に対する鎮域として築かれたものらしい。

武田の部将高坂源五郎昌宣が城主として守衛の役につき、武田氏滅亡後は徳川氏の所有になり、家康は松平康親をして守備させ、その子康重が継いだが、豊臣秀吉は小田原征伐ののち、その家臣中村一氏に駿河を守らせ、一氏は弟一栄を当域に配置した。徳川の天下となり慶長六年、大久保治右衛門忠佐が城主となり、同十八年(一六一三)忠佐の死後世継がなかったため、沼津城は廃城となり、百六十余年問空白となった。

安永六年(一七七七)に至り水野忠友が三河より移封され、沼津城を修築して城主となった。明治に至り徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は上総の菊間に移り、城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、その廃校の結果、明治五年に城は県で競売に付し解体され、同二十二年(一八八九)東海道線開通に伴い南北に縦貫道路が設けられた。その後沼津は二回の大火に遭遇し、城の堀は埋められ、さらに昭和二十年の空襲により、その面影を何一つ見ることができぬまでに変貌してしまった。

(「沼津市誌下巻 551頁」昭和331115日発行)

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240911雑古庵ヘボ雑句「熱海富士四日目黒星」大関琴櫻に完敗as

原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年9月12日(木)大安 水路記念日」「意気消沈」旧歴8月10日