沼津に生きる後藤新平 田辺鶴遊
江原素六と駿東病院
昨年五月、麻布学園創立者としても知られる元幕臣の江原素六(一八四二~一九二二)生誕一八〇周年式典が、沼津で開催され、江原素六伝を創作。その過程で訪ねたのが、千本浜近くの乗運寺。明治十五年三月十一同に板垣退助の演説会が開かれた。沼津兵学校開校や、士族授産の活動等を経て、土地の名士となった素六が"前座”を務め、雄弁に舌を巻いた板垣は、素六を連れ東海各地を遊説。四月六日の板垣遭難事件に素六は遭遇した。この時が、新軍と素六の出会いなのか定かではないが、素六も後に中央政界へと進み、新平も関わる「鉄道青年会」は、素六が明治四十年に立ち上げた。
江原素六記念館でもある沼津市明治史料館に、長与専斉(一八三八~一九〇二)から素六宛ての書簡が遣されている。
明治十四年、間歇熱が流行していた静岡県内を巡視した長与内務省衛生局長は、四月十七日、駿東病院を視察し、病院名の揮毫にも応じた。その際、院内に残されていた蘭医書など国宝紐の書物を、東大に寄贈するよう江原駿東郡長に進言していた。
駿東病院は、沼津兵学校の病院に端を発し、旧幕府開成所教授だった杉田玄端(げんたん)(一八一八~八九)を頭取に、市中の病人も診る沼津病院として明治二年八月に設置された。しかし、廢藩置県で静岡藩は消滅し、兵学校も廃止。徳川家中の多く
が沼津を去る中、玄端は、あくまで済生救民の志を捨てず、徳川家に嘆願し病院を借り受け、自力で運営を始めた。後に会社病院となったが、経営は悪化。明治十二年十一月、初代駿車郡長になった素穴が、地域医療の重要性を考え、駿東病院として存続させた。
学士院長沼津へ、長与専斎の関わり 経営回復には、最先端の西洋医学を学んだ医学士を招聘せねばと探し求めたが、医学部が東大のみだった当時、学士は極端に少なかった。その頃、沼津の有力者、長倉民が東大に入院。素六は早速お見舞いに駆けつけた。かつて戊辰験争を戦い、新政府のお尋ね者となった素六を匿ったのが、長倉家
だった。長倉計吉(一八五一~一九二八)は後に、素六が被選拳権を得るための納税の面倒など、沼津から第一回帝国議会に送り出す力にもなっている。ここで出会った長倉氏の担当医が、本邦初の医学士・室賀緑郎(一八五一~一九三八)。室賀は、東大医学部総理心得を兼務していた長与内務省大書記官の推薦を貰い、駿東病院長になった。
近代医療を全国に普及するには、東大医学部卒業生を全国に配属する必要があるが、自ら進んで地方動務を願い出る者は少なく、そこで内務省は、卒業後の地方赴任という制約と引き換えに優遇第を案じ、これは長与専斎が導入した。学士院長は評判となり、駿東病院の経営は一時改善をみた。
海水浴と沼津、後藤新平とのつながり
専斎の遠縁の安藤正胤(一八四七~一九二六)は、専斎が設立した鎌倉海浜院を参考に、故郷の静浦(今は沼津市)に、明治二十六年、海浜院と保養館という病院・宿泊施設を建て、長与又郎(一八七八~一九四一)は翌年、ここで転地療養をした。正胤は、御用邸近くの島郵に学習院遊泳場も誘致。静浦は日本三大海水裕場の一つに数えられた。正胤の葬儀には石黒忠悳(一八四五~一九四一)も参列している。明治十八年、胃腸の悪かった教育者・問富喜十郎(一八五〇~九五)が、室賀院長の勧めで、沼津初の海水浴を体験。そもそも、安政三年に海水浴を紹介した蘭書を訳した林洞海(一八一三~九五)は、沼津病院で副頭取を務めていた。
後藤新平鉄道院総裁が創案の丹那隧道により、東海道線の輸送力は強化。東京からの所要時間も短縮された。明治史料館の木口亮学芸員は、「昭和九年開通の丹那ンネルが、明治以来の保養地、伊豆の玄関口としての沼津の価値をさらに高めるに到ったのでは」という。現在、沼津には七つの海水浴場浴場があるそうだが、平成二十九年の環境省全国海水浴場水質検査では、ベストの内、三つまでもが沼津の海水浴場とか。医師・後藤新平が推奨した海水浴は、政治家・後藤新平が推進した事業により、今では、沼津観光の目玉となっている。
日本初の小学校という沼津兵学校附属小学校が前身で、江原素六が設立、校長を務めた沼津中学校からは、昭和の文豪・芹沢光治良(一八九六~一九九三)が出た。外交官で代議士も務めた市河彦太郎(一八九六~一九四六)は一級上の幼馴染み。祖父はかつての名主で資産家の市河彦七。駿東病院を資金面で支えた。彦太郎の妻・かよ子は、見裕輔(一八八五~一丸七三)の姉・廣田敏子の娘で加藤シヅエの妹に当たり、「彦
太郎と新平さんは親戚になる」と、郷土史研究の集まり、沼津史談会の長谷川徽さんが教えてくれた。「後藤新平はしょっちゅう沼津に来て国技館で演説をした。次郎三郎に会いに行くというのは、沼津で遊ぶという意味だったんだよ」と、思いがけず、興味をそそられる証言まで飛び出した。
一関出身の駿東病院院長、 佐々木次郎三郎
明治三十年八月十一日、室賀氏の後任病院長に就任したのが、件の佐身木次郎三郎(一八六九~一九四六)。ドイツ人医師・スクリバ(Julius Karl Scriba)一八四~一九〇五)は、後に相馬事件の病状鑑定を裁判所から嘱託されたが、次郞三郎は、このスクリバ教擾の助手を務め、地方病院への勧誘もちらほら。その中で、「沼津へ来んか」と声をかけたのが、外科教授の宇野朗(ほがら)(一八五〇~一九二九)だうた。朗は、三島の医家に生まれ、江戸へ出て杉田玄端に入門。玄端の駿河移住の際も随行、玄端の塾生として沼津病院で学んだ後、東京医学校へ。明治二十二年にドイツ留学。翌年、ベルリンで開催の第十回万国医学会に出席。ここでは、留学したばかりの新平と同席新平は、国際会議に臨む政府の姿勢への抗議文を西園寺公望(一八九~一四九◯)宛てに認めたが、朗も名を連ねている。朗の誘いを受け、次郎三郎が相談をした相手がまた、後藤新平。留学から帰国後、内務省衛生局長と出世をしていた。次郞三郎は明治二年、一関藩槍術指南の上野家に誕生。次郎三郎という欲張った名前は、上野家伝統の名。新平の故郷水沢とは、目と鼻の先。一関県発足以降は同じ県で、次郎三郎にとって新平は、同郷の憧れ。学生時代は講道館で嘉納治五郎(一八六〇~一九三八)に柔道を習い、まだ清水で存命だった次郎長(一八二〇~九三)に会いに行くな、新平に似た豪胆さがあった。十一の年、親戚筋の御典医佐々木家の養子に。一関の本藩、仙台藩では、医家の家督は、「実子でも役立たぬ者は廃嫡、他人でも器量によっては養子に」と命じ、医師の技量低下を防いだ。一関は、初代藩主・田村建顕(たつあき)(一六五六~一七〇八)の学問奨励のおかげか、数多の学者を輩出。「民問備荒録」を著し、金国の民を救った建部清庵(たてべせいあん)(一七一二~八二)に、門弟の大槻玄沢(げんたく)(一七五七~一八二七)。玄沢門下の佐々木仲沢(ちゅうたく)(一七九◯~一八四六)には、高野長英(一八◯四
~五◯)がライバル心を燃やした。清庵の五男は、交流のあった杉田玄白(一七三三~一八一七)の養子になった杉田伯元(一七六三~一八三三)。その孫が、杉田玄端。玄端は清庵の曽孫にあたる。つまりは、清庵の済民救済の志が玄端に受け継がれていたからこそ、沼津に病院が存続し続ける事が出来たのかもしれない。藩主に重んじられた清庵は、田村家居館近くに屋敷を拝領。この屋敷は後に、佐々木家九代目当主に下し置かれたから、十二代目の次郎三郎は、玄沢らの通った、この清庵屋敷で成長した。長与専斎は後に次郎三郎に、「屋敷の保存こそ後進への務め」と戒めている。
新平は、「佐々木君、静岡は東京にも近い天恵国。医業は経済の根本が不確実だが、極貧層の少ない沼津は安心。しかし給与は歩合がよい、貯蓄も相当出来るからドイツへ留学し東京で開業しろ、わしが太鼓を叩いてやるから成功疑いなしだ」と沼津行きを後押し、次郎三郎着任後すぐの明治三十年九月二十二日、山梨県に続き静岡県の赤痢病視察をした新平は帰京の途上、去る九日の暴風雨で破損をしていた沼津旧城内の駿東郡会堂で、悪疫予防の講演を、駿東郡各町村長・警察署長・赤十字社員ら百余名を前に行い、正確にして快活大なる演説が聴衆に感動を与えたという。江原素六を支援した長倉計責(一八五一~一九二八)は片浜村長として、新平に赤痢の現状報告をした。午後九時散会と新聞は伝えているから、その夜は次郎三郎が接待したのかもしれない。その後も新平は、幾度も駿東病院を訪れて、細かく指導。専斎に倣ってか、 明治三十年、新平も病院名の筆を執り、欅の厚い板の看板は、正門に掲げられた。 若き病院長・次郎三郎は、病床拡大、入院料設定、看護婦養成等病院改革に着手。評判を聞き県外からも患者が押し寄せ、「駿東病院長に診てもらえば死んでも本望」、ついには、日本屈指の大病院と呼ばれるまでに。次郎三郎は医師会を束ね、花柳の巷も賑わした。駿東郡役所に勤務後、台湾で新平の秘書になった増田次郎(一八六八~一九五一)は自伝で、「外科の名人で血を見ぬとご飯がおいしくないという偉い人」と次郎三郎を評している、明治四十一年十月、新平との約束通りドイツ留学へ。沼津駅では八百人が見送った。沼津大火の報せを聞き四年九ヶ月後に帰国しだが、東京で開業する事無く沼津にとどまり、地元患者の信頼と期待に応えたいと、私立となった駿東病院の経営はもとより、医師会に推され市会議員に当選。市立伝染病院の設置など、沼津の発展にも寄与した。
駿東病院の終焉
大正十一年十二月三日の静岡新報は、新平が鶴見商務局長と産業自治講演会に出席と報じ、満場破るるばかりの拍手に迎えられた後藤子爵は、「予は昔、沼津に来たが実に思い出多き土地である」と振り返った。会場の沼津国技館は、板垣が講演した乗運寺の向かいで、今は寺の駐車場になっている。また大正十三年二月十八日、新平は沼津御用邸に両陛下の御機嫌をうかがった後、伊豆に数日間滞在。下野した直後、疲れた体を癒やしたのかもしれない。昭和四年一月には、沼津とは程近い伊豆長岡の大和館に逗留。さすがの新平も寄る年波か、浴場で滑り骨を痛めた。心配した周囲が、東京から医者を呼ぶという話になったが、「わざわざ東京から呼ばずとも、沼津に佐々木次郎三郎という名医が居る」と新平。往診に来た次郎三郎が、「私ももう還暦です、後継者をみつけ隠居を・・・・.」「馬鹿、そんなことがあるか」と、七十二歳の新平が一喝。しかしそれから三ヶ月、新平は帰らぬ人となった。
昭和十二年十二月、『夕刊いちのせき』の連載で、一関夜間中学在校生の激励のため新平の逸話を語った次郎三郎は、「自己の運命を開拓する誠意と力量さえあれば、先輩は決して捨て置かぬものである」と結んだ。昭和十五年七月、建部清庵の墓のある祥雲寺に、地元医師会が建立した清庵顕彰碑
は次郎三郎が選文。裏側には、医師会長の名前より先に次郎三郎の名が刻まれてあり、遠い土地で成功した先輩として、故郷でも尊敬を集めていた事がわかる。
昭和二十年六月、医員の多くが応召され、病院の後継者も見つからず、自らも病を抱えた次郎三郎は駿東病院を閉院。新平の後押しで沼津に着任以来、およそ五十年の年月が流れていた、その際、病院裏の私邸の倉庫に記念に保管された物は、専斎直筆の病院名の扁額や、明治初年のメスなどの外科機械、これは杉川玄端が沼津に赴任した際、徳川慶喜から拝領したバリ製オランダ渡りの逸品で、次郎三郎は閉院まで愛用していた新平直筆の「駿東業院」の看板も含まれていたが、同年七月十七日の沼津大空襲では、借しいかな新平の看板のみが焼失したという。それから間もなくの、昭和二十一年三月十三日、七十八歳を一期として、市内添地町の仮住まいにてこの世を去った次郎三郎の遺骨は、沼津上香貫の霊山寺と、生まれ故郷一関の瑞川寺に分骨された。東北新幹線を眼下に見る次郎三郎の墓の隣には、十三回忌に、佐々木次郎三郎博士顕彰碑が建てられた。その碑文には、後藤新平の名がありありと刻まれている。肝胆相照らした新平と次郎三郎の二人。故郷岩手の地で今もなお、肩を組み、語り合っているかのようであった。
本稿執箪にあたり各地でお世話になった皆さん中村淑子先生(後藤新平記念館)伏見岳人先生(東北大学)木口亮先生(沼津史明治史料館)渡邊大輔さん・山崎崇徳さん(沼津市役所)尾和富美代館長・井上やす子さん(沼津市立図書館)匂坂信吾会長・長谷川徹副会長(沼津史談会)劔持直樹副主任(沼津史芹沢光治良記念館)土屋新一会長(江原素六先生顕彰会)小川四郎理事・千葉登喜代さん(清庵の里)尾形宏子さん(一関市立図書館)相馬美貴子主幹(一関市博物館)小岩素彦住職(一関市・長泉芋)佐藤晄僖・紘子ご夫妻(世嬉の一酒造)須藤直樹代表(開発管理技術研究所)
(別冊「環」28「後藤新平―衛生の道」328頁~336頁 2023年3月31日発行 編集発行人藤原良雄 発行所藤原書店)
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