講談でよみがえる江原翁
田辺鶴遊師が生涯を伝える
5月19日は江原素六翁の命日。沼津の発展のため多くの功績を残した江原翁は、今も市民によって顕彰されている。昨年は生誕180周年・没後100周年を記念して、沼津駅北口に像が建てられた。
関係地を訪ねて創作
昨年の式典や万年青大学で口演
そんな江原翁の功績を講談によって伝える人がいる。静岡市出身の講談師、田辺鶴遊さんだ。昨年の記念式典で創作講談「江原素六伝」を口演。今年はじめには沼津市の高齢者学級「万年青(おもと)大学新春公開講座」でも行った。
田辺さんは8歳の時、「ヒゲの講談師」として知られた田辺一鶴に入門。幼少期から高座に立った。2015年に真打ちに昇進し田辺鶴遊を襲名。古典から創作まで幅広く演じている。
2020年から江原翁について調べ始め、沼津にも足を運んでは江原素六先生顕彰会の土屋新一会長に、ゆかりの地を全て案内してもらった。
「『講談師、見てきたような嘘をつき』と言いますが、私は『見てきた上で嘘をつき』たいと思っているわけです」と田辺さん。明快な口調と絶妙な間合いによる名調子で、時折ハリセンを鳴らしながら、聴き手を飽きさせることなく話を繰り広げた。
公開講座では約1時間かけて素六翁の生涯をたどった、その粗筋を紹介する。
【少年時代】天保13年(1842)正月29日、武蔵野国角筈(現在の東京都新宿区)五十人町。その名のごとく、幕臣がひしめき合って暮らしていた場所で、江原源吾・ろくの間に生まれた子どもは鋳三郎と名付けられた。後の江原素六だ。
江原家は、三河国にあった江原村の名士で、祖先は駿河で竹千代(幼い頃の徳川家康)の警護にも当たっていた。しかし、その後の当主は三河国の一向一揆に加担して家康に反旗を翻したため、戻った際には、足軽よりも、さらに下の身分である「黒鍬組」とされた。
豊臣秀吉の命令で家康が江戸へ入国すると、江原家も江戸へ。
鋳三郎が生まれた頃、江原家の石高は14石。8人家族に下男下女がいて家計は火の車。そこで、当時は歯ブラシの代わりとされた「房楊枝」を内職で作り、素六もこれを手伝い、売って歩いた。
出来の良し悪しがあるから、良いものを外側に、悪いのを真ん中に束ねて売るものだったが、そこで鋳三郎は、出来によって分けて3種類の束を作り、値段を変えて売るようにした。
「すると、これが受けて、ご贔屓(ひいき)ができ、江原家の家計を助けるまでになった。実に利発な子どもでございます」
母親のろくが、鋳三郎を寺子屋に通わせたいと言ったが、源吾は3歳の時、二親と死に別れて江原家の養子となり、学問を知らずに当主になった。
そんな父のことを素六は後に、「父は生涯で手紙一枚書いたこともない人。しかし、人を頼ろう、人に甘えようというところがなかった。だから尊敬しています」と話したと言い、これが教育者としての原点になっている。
300石取りの伯父が入塾金を出してくれ、寺子屋に入った鋳三郎は、すぐに漢籍漢文の素読ができるようになり、論語を一冊覚えた。ここで「めきめきと頭角を現して」、幕府のエリートを養成する「昌平坂学問所」への入塾が許された。
文武の「武」については、斎藤弥九郎の練兵館道場に入門し、瞬く間に免許皆伝の腕前に。西洋の砲術も身に着けた。
【幕臣時代】幕末の日本は「風雲急を告げ」、黒船がやって来て開国をすることに。ハリスが下田から横浜に移ると、警護の役に当たる横浜警備隊が結成され、鋳三郎は、その一員として抜擢された。よい給料をもらえるようになり、「江原家は内職しなくてもよくなった」。
さらに幕府の講武所で教授方に就任。
「なんと、この時、鋳三郎が二十歳の若さで、まさに幕末新進気鋭の幕臣として名乗り出たわけであります」
1865年(慶應元)、江戸幕府が長州を征伐しようと出陣し、鋳三郎は陸軍の歩兵隊、撤兵隊(さっぺいたい)の中隊長に任ぜられ上方へと出陣。しかし、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、徳川家の命運が尽きる。
この時、大坂城にいた徳川慶喜が家臣を置いて江戸に逃げ帰ったのは有名な話。
そこで徳川家の兵隊を江戸まで連れて帰る、その役目を担ったのが江原中隊長だった。陸路と海路とで幕府の軍勢を連れ帰った。
この功績によって撤兵隊の大隊長に昇進。
「石高で言えば千石から二千石のお奉行クラス、かつては黒鍬で14石だった子どもが大出世。この時なんと27歳」 江戸中で評判が広まったが、この頃、江戸が無血開城となり、徳川幕府800万石は、70万石となって駿河の国へ移住しなければならないことに。
鋳三郎は無血開城に賛同する考えだったが、成り行きで薩長の新政府と対立し、戦をすることになってしまった。
鋳三郎の部下を、そそのかして木更津に連れて行き、薩長に対する軍勢を上げようとしたのが福田八郎衛門。鋳三郎の上司だったが、鋳三郎が出世したことを、いまいましく思っていた。
「厄介なのは人間の嫉妬でございます」
部下達を心配して木更津へ行った鋳三郎は、「我々に最後、武士としての死に場所を与えてください」と懇願され、意に反して市川・船橋戦争を戦うことになった。
この戦いで鋳三郎は鉄砲で打たれ、弾が脚を貫通したが、「命からがら」の状態で助けられる。船橋の山野村で、庄屋らにかくまわれながら1月程、潜伏生活を送った。
何とか四谷の実家に帰って来ると、榎本武揚から、蝦夷地に向かう艦隊に加わるよう誘われる。旧幕府艦隊を連れて脱走するというものだったが、鋳三郎は、これを断った。
【何度も変えた名前】この頃の鋳三郎は、いわゆる「おたずねもの」。何度も名前を変えながら逃げ、「江原三介」「小野三介」などと名乗っていた。
やがて無禄で移住する徳川の家臣達に紛れ、船で静岡に向かおうとしたが、悪天候のため途中で避難することになり沼津にたどりついた。この時は「水野泡三郎」と名乗り、庄屋などにかくまわれて身を隠していた。
この頃、無罪放免の身となったが、これには新政府での勝海舟の「鶴の一声」があった。かつて、鋳三郎と学問を共にした阿部邦之助が、勝に取り計らうよう頼んだのだという。やがて静岡藩の小参事となり、ここで「江原素六」を名乗ることになる。
素六という名前の由来には色々な説がある。転々とする自分の人生を「双六」になぞらえたのかもしれない。双六のさいの目は「六」の裏側が「一」。しかし一よりも「素」から始めるのがよい、としたのではないか。
母親の名前「ろく」を使うとともに、子どもの頃から漢籍の素読が好きだったことから素六と名付けたのででは、と「田辺鶴遊説」
【兵学校の創立】 静岡藩徳川家では兵学校を作ることとになったが、静岡には古い考えの元老中達がいるし、16代の徳川家達(いえさと)が継いだばかりで、「新政府に目を付けられてはいけない」。
そこで沼津が選ばれ、兵学校が開設されることになったのが明治元年のこと。
「徳川の家臣だけでなく、土地の人にも学問を教えたいと沼津兵学校附属小学校も作り、これが我が国第-号の小学校」となった。
阿部邦之助は、江戸城無血開城の時、秘かに11万両を運び出し、これが設立の資金になったとも言われている。兵学校の生徒は無償とし、逆に徳川家のために学ぶのだからと月に4両を出すことにした。
【産業の創出】
幕末の頃には多くの人が外国に留学し、素六にも新政府から太政官としてアメリカに留学させるとう話があった。
「沼津に江原を置いておいたら新政府が危ない、と思ったんでしょうね」
素六はサンフランシスコで大規模農業を学ぶと、わずか半年で帰ってきて、機械や本を大量に輸入した。
沼津には士族達が無禄で移住してきたから、この人達が農業ができるようにと考えたのだ。
しかし、素六が帰って来た頃には廃藩置県で静岡藩も徳川家もなく、兵学校も東京の陸軍学校に吸収合併されることになって、「泣く泣く生徒達を見送ることになった」。
素六も、陸軍大佐にするから東京に出てくるようにと言われたが、「無禄で移住した仲間を裏切ることはできない。沼津の人達と一緒になって、ここを発展させる」と言って、西熊堂に土地を買い(注・現明治史料館所在地)、東京から年老いた両親を呼び寄せ、結婚して所帯を持った。
それから数々の学校を作り、駿東郡長にもなり、沼津教会で洗礼を受けてキリスト教徒としても活動するようになった。
【国会議員として】1890年(明治23)には、「自由民権運動の活動叶って、第1回帝国議会が開かれることになり」、素六は皆から選挙に出てほしいと請われた。
しかし、15円の税金を納めなければ選挙には出られない。
「士族授産のため、いろんな会社を興しては潰したり、借金も随分作って、江原家は火の車」
そこで沼津の人達が15円を用意し、「皆さんの思いを集めて」選挙に出ることができた。
「なんと、この時807票、当時は制限のかかった選挙、第1回の帝国議会に晴れて江原素六が議席を得ることとなりました」
元々地元の人が使っていた愛鷹山は、当時、政府の御用林になっていたが、これを払い下げるための運動も行った。
その後も当選を重ねたが、「沼津が私の家です。東京には私の書庫があるだけです」と、東京との行き来を続けた。その際、一等車には乗らず、「三等車に乗って皆さんと、いろんな話をしながら行ったそうですね」。
若い人達の前でもユーモア溢れる演説をし、1922年(大正11)5月19日、亡くなる当日も「鉄道青年会」の若い人達の前でユーモアたっぷりに講演。夜、脳溢血で倒れた。この時81歳。
「その生涯、まさに若い人達と共にあったわけでありまして、今日、愛鷹山のあの丘の上から、この沼津の町の発展を見守っていらっしゃるに相違ございません」
エピソードは、まだまだあるとしながらも、田辺さんはこの日の講談を締めくくった。
今後も機会があれば、沼津で江原翁について大いに語りたいと言うが、実によく出来た話で一聴の価値は十分だ。
【沼朝2023年(令和5年)5月14日(日曜日)】
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