「千本松原」 浜悠人
先日、私は千本浜道から右に曲がり海岸駐車場への入り口付近、以前は駐在所があったが今はなく、左側の公衆トイレの手前に一つの歌碑(俗謡)を見付けた。私にとっては珍しい、新たな発見なので次に紹介する。
沼津千本松原 一、千本松原小松原甲州街道は塩の道 塩っ切り鮪もエササノサ 富士川べりを エササノサ 河鹿がカラカラ 鳴いたとさ こぼれ塩なめ 鳴いたとさ 二、千本松原 小松原 子育地蔵さん 松の中 赤いくびだれ そばだんご 松葉のかんざし かあかあし 口まめからすが 鳴いたとさ おひよりとんびも 鳴いたとさ 三、千本松原 小松原 三枚橋は 浜づたい 勝手おぼえし 抜け道を沼津の平作 星たより夜あかしみゝずく 鳴いたとさ およね見かけて 鳴いたとさ 四、千本松原 小松原 三味線堀は ひきがたり 六代松や お首さん なむなむ長谷の 観音堂 片手おがみに せわしなく一丁田きあろが 鳴いたとさ 五、千本松原 小松原 富士は東海 いわし雲 かけた十里の 松の網 大漁まねぎは 大瀬まいり まつりばやしの 鉦太鼓 西浦かもめも 鳴いたとさ 昭和五十春 菊舎人
一番の「甲州街道塩の道」とは『沼津市誌』によれば、「戦国時代、今川氏は塩を甲斐に輸して甲人の意を満したり。其の時、狩野川の河口なる沼津港に着船し、それより千本松原の林中を運搬して、富士川の河岸に送り、而して川を船にて上り甲州に運ぴたり」とある。 三番は歌舞伎の「伊賀越道中双六沼津の段」に出て来る平作地蔵の話で、平作地蔵は平町の沼津警察署の裏、黒瀬橋の裾にある。
筋書は荒木又右衛門が義弟和田志津馬の助太刀をして伊賀上野で敵、沢井股五郎を討つという筋で雲助の平作が娘婿の志津馬のため命を捨てて敵の行方を聞き出す沼津の段が有名である。
四番の六代松は東間門にあり、六代は平維盛の息子で祖父は重盛、曽祖父は清盛にあたり、鎌倉へ護送の途中、千本松原で処刑されようと゜した折、文覚上人の命乞いによって一旦は赦免された。その後、処刑され従者斉藤六範房が六代の首を携えて千本松原の松の根元に埋めた。この松を六代松と称し、東間門共同墓地内にある。
「お首さん」は千本浜の首塚で現在、本光寺に隣接してあり、戦国時代の天正八年(1580)、小田原北条氏と甲州武田氏が千本浜で合戦。激戦となり、その時の死者の首が葬られている。 鳴き声では一番は河鹿(かじか、蛙)、二番は烏(からす)と鳶(とんび)、三番で木菟(みみずく)、四番は蛙(きあろ)、五番は鴎(かもめ)と配され心憎いばかりである。
最後に「菊舎人」とあるが多分、下河原にあった「割烹菊屋」のご主人ではなかろうかと推察した。粋な方だなと思った次第だ。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和5年6月2日(火)号 寄稿文】
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