「応える」が問われる
険しい自民再生への道
「自民党はすでに死んでいる」ー。週刊誌ではない。自民党の機関紙「自由民主」の見出しに驚いた。漫画家やくみつるさんの寄稿文だ。
「しっかりしろ自民党」と題するコーナー。やくさんは「長年の失政のツケを払わされて汲々(きゅうきゅう)としている民主党を自民党に攻める資格はない」と手厳しく、「もはや野党としても蘇生(そせい)の見込みがない」と容赦ない。
1月の党大会では「運動会にスーツ姿、魚市場に革靴」という女性党員の言葉に「その通り」とうなずいた。「そんな格好で出向くようでは国民の共感は得られません」と続く。子どもの運動会にスーツ姿で現れる政治家は「場違い感」を振りまいている。
野党に転落した自民党の谷垣禎一総裁は「歩く。聞く。応える。」を掲げる。地域を歩き、住民の声を聞き、党再生のヒントを探す。名付けて「なまごえプロジェクト」。
政権を持っていれば企業も業界団体も寄ってきた。「支持基盤は固い」という思い込みに安住し、街で暮らし、働く人たちの悩みや要望、批判に耳を傾けてこなかったのではないか。その揚げ句に「共感」を失った。足元を見つめ直そうー。「誠実さ」で知られる谷垣氏らしい発想だ。
やくさんに寄稿を依頼した担当者も「辛口は予想していたが、どんな批判も聞く姿勢を示した」と説明する。政治の「原点」に立ち返る姿勢は間違っていないと思う。
ただ課題はその先にある。「歩く。聞く」と「応える」は次元の違うものだ。政策決定権のない野党が国民にどう「応える」のか。そこが見えないと共感は取り戻せない。
「一部の人間が利益を分配し、内輪の権力闘争に明け暮れる、そんな党とは決別する」。谷垣氏は党大会で宣言したが、その先は「未来を信じ、正論を語りましよう」と呼び掛けただけだった。国会で鳩山政権の資金問題を追及しても「自民党にその資格はあるのか」と問い返される。「実は内心、相当気にしている」と谷垣氏が正直に認める通り、党の支持率は低調なままだ。
自民党結党前に長い野党暮らしを経験している中曽根康弘元首相に心得を聞いた。「着実に政策を錬磨して現政権に対抗すべき政策を国会論戦を通じて明確にするしかない」と「王道」を説き、「野党には初期・中期・後期があり、今は初期の初年度」とも指摘した。
国民の声をすくい上げ、今の政権よりも魅力ある政策を打ち出す。それが「応える」だ。だが「後期」までには時間がかかるし、党内対立が深刻になることもあるだろう。試練を乗り越えて生き返れるのか。道は険しい。
(静新平成22年2月13日「政考政読」)
【自由民主平成22年2月9日号(しっかりしろ自民党・下)】
「自民党はすでに死んでいる」
野党としても蘇生の見込みなし
漫画家 やくみつる
正月気分も抜け切らぬ、まだ松の取れる前であったか、自民党の機関紙編集御担当氏より電話が入った。なんでも「自民党、シッカリしろ」といったエールの一文を願いたい由。
「あのー、書かせていただくに吝(やぶさか)かではないんですが、あのー、私、赤旗日曜版にも連載を持っているんですが…:」
だが、むしろ日頃自民党を支持されている方々以外からも広く言葉をいただきたいと編集氏。繰り返し「自民党、シッカリしろ!」と、あたかも自らを鼓舞させるかのように仰(おつしゃ)る。
「あのー、そういうことであれば、あのー……」とお引き受けすることにした。ちなみに「あのー」が多いのは、吝かでないと言ったものの、やはり幾許(いくばく)かの心の迷いがある表れで、これは谷垣禎一総裁の先の予算委員会質問と同じ現象ですね。現在の自民党に民主党を追及する資格があるのだろうか、というそもそも論的逡巡(しゅんじゅん)が「あのー」の多用につながっていると見ましたがね。
で、そもそもと申した手前言ってしまうと、「シッカリしろ」という言葉は、はたして今の自民党にかけるべき文言であろうか。かなりバテている登山隊員とか、意識を失いかけている傷病者に呼びかける言葉であって、もう息がないかもしれない相手に対しては、まず脈があるのか、心臓に耳を押し当てて確認を急がねばならない。言わば自民党はそんな容体なのではないかと察しますがね。
もちろん、大きく減らしたとはいってもまだ大勢の国会議員を有しているし、その中には幾多の有用な人材がおられることは承知している。人が亡くなっても、同時にすべての臓器が死んでしまうわけではありませんから。ならば一刻も早く、それらまだ使える臓器を摘出し、然(しか)るべき先へ移植しなければならない。だからといって、今の民主党を臓器移植を待っている患者さんに例えるつもりはありませんよ。あちらはあちらで部分的な臓器の移植でどうなるとも思えませんしね。
例えが些(いささ)か不適当な方向へ向かったかもしれません。要はもう、大変お気の毒ですが、お亡くなりになってるんじゃないでしょうか。平成21年8月30日、午後8時00分。先の総選挙の投票終了時点で、波瀾(はらん)の生涯を閉じられた。享年55(満54歳)の、本来ならばまだじゅうぶん働ける年齢での臨終でした。
ところが、こんなこと言うと「何を失敬な!」と気色ばむ方がおられるでしょうね。まだ死んでしまったことに気付いていない彷復(さまよ)える霊魂でしょうか。ならばさらに言葉を継ぎます。
「亡くなった」とあえて宣告したのは、与党としては勿論(もちろん)、もはや野党としても蘇生の見込みがないと診断したからです。先日の前原誠司国交大臣じゃないですが、長年の失政のツケを払わされて汲々としている民主党を自民党に攻める資格はないと。これに対し町村信孝元官房長官は、「その論理は拙劣」と返しましたが、はたしてそうでしょうか。では今後もこのまま現与党を追及し続け、風向きが変わりでもすれば、再び自民党政権をとでもお考えか?あえてまた失政の時代に戻れというのはずいぶんと都合のよい要求というもんです。たまさか民主党に政権担当能力がなく(実際、現状そんな気がしてきた)、それを返上せざるを得ない日がきても、そんなことを二大政党による健全な政権交代とは言わないでしょうし、誰も望んじゃいない。
ですが、幸いなことにというべきか、シブトいことにというべきか、政党は単体の生命体ではありません。そんな特性を意識してかせずか、谷垣総裁が良いことを仰いました。曰(いわ)く「みんなでやろうぜ」ー。これは自民党内部にではなく、むしろ民主党に向けて発するべき言葉ではないか。有用な臓器を活用すべく、合体して双方の病巣を切除。民主自民党(民民党?)として蘇生してくれた方が、ナンボましなことかと思いますが、如何ー。
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