2021年9月10日金曜日

御成橋など沼津の歴史の一端 ストリートギャラリーで資料展(令和3年9月10日 沼朝記事)

 

 御成橋など沼津の歴史の一端

 ストリートギャラリーで資料展

 「狩野川リパーサイド・ストーリー」と題した資料展が1014日まで、大手町の沼津信用金庫本店ストリートギャラリーで開かれている。

 第18回となる明治史料館の館蔵資料展でもあり、沼津の歴史の一端が紹介されている。

 新型コロナウイルス感染拡大のため、狩野川の花火大会は2年続けて中止となり、人が集う機会も失われている。そんな中、同史料館職員は「平穏な日常が戻り、川沿いが再びにぎわいを見せることを願うとともに、見る人の気持ちが明るくなるように」と、今回の展示について話し、狩野川にまつわる沼津の歴史を様々な面から紹介している。

 江戸時代より前、天城山は「狩野の山」と呼ばれ、そこを源として流れてくることから「狩野川」と名付けられたとされている。江戸時代初期の沼津古城(三枚橋城)外堀の一部は、狩野川とつながっていた。

 その頃、軍事的理由から幕府は架橋を禁止していたため、川を挟んでの往来には渡し舟や川越人足によるものだった。現在もその名が残る「我入道の渡し」のほか、「市場の渡し」「黒瀬の渡し」があったとされている。

 明治時代になると、地方にも架橋の許可が出るようになり、1876(明治9)年には、狩野川最初の橋である「港橋」が、市場の渡しがあった場所=現在の御成橋の位置=に架けられた。展示では当時の設計図も見られる。

 1912(45)728日に、「御成橋」が開通したものの、明治天皇の崩御と重なったため、渡り初め式はなく、4日後に大正となった81日、ひっそりと名札が掲げられ「御成橋」と改称された。その名は、御用邸を訪れる皇族方が通っていたことに由来する。

 2代目となる現在の御成橋は、1937(昭和12)年に開通し、この時は多くの市民らによって、盛大な渡り初めが行われた。

 説明文には「御成橋は、その歴史や景観、形からも沼津を象徴する橋といえます」とある。

 市内には、狩野川に架かる橋が7本あるが、展示では「黒瀬橋」「永代橋」「三園橋」についても紹介している。

 出展された数多くの写真には、川の周辺で営まれてきた市民の生活の様子が、いきいきと映し出されている。

 狩野川で初めて花火が打ち上げられたのは、1876年に行われた「港橋」の開橋式。花火は「煙火」とも言われ、納涼を祝う「川開き」の催し物として、沼津の年中行事のひとつとなった。

 1932(昭和7)年以降、「川開き煙火大会」は市の主催行事となり、5年にわたって開催されたとの記録がある。戦時中は花火の打ち上げが中止されたが、46(昭和21)年には戦災からの復興を記念した「沼津復興祭」で狩野川の花火が復活。

 現在まで続いている「沼津夏まつり・狩野川花火大会」は1948(昭和23)8月、観光協会再発足後、初の事業として開催された。中心市街地で開催される花火大会は、全国的にも珍しいという。

 日本画家の志賀旦山氏(故人)が描いた「狩野川の花火」の絵は、絵葉書になったものが同史料館に残されているが、拡大されて色鮮やかな絵画として見られる。


 鑑賞に訪れていた市内に住む60歳代の女性は、友人から紹介されて来たと言い、「コロナ禍で思うように美術館や博物館などに行けない中、街中で、こうした展示が見られることはありがたい」と頬を緩ませた。

 女性は20年間程、沼津を離れていたこともあって、改めて沼津の歴史や文化に興味を持ち、知るほどに感嘆することが多くあると言う。また昭和の時代の写真を見ると、「若い頃のことが懐かしく思い出される」と話した。

 同様の思いを持つ八が、思わず足を止める展示となった。 夜10時までライトアップされて見ることができる。

【沼朝2021(令和3)9月10(金曜日)

 

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