沼津の町並を学ぶ
座学と市街地の旧跡を見て回る
鉄道と大火と空襲と
沼津のまちを変えた3つの要因
一第16回しずおか町並みゼミin沼津」(静岡の風景伊豆石文化探究会主催)が先月29日と今月1日の2日間にわたって開かれ、県東部と中部地域から35人が参加した初日は大手町会館大ホールでの座学の後、市街地の城下町の跡や石蔵などを見て回った。
座学では4人の講師が、それぞれのテーマで講話。その中で、県ヘリテージセンターSHECセンター長で名城大学理工学部と常葉大学法学部で講師を務める塩見寛さんは、「沼津の街の歴史的変遷及び現在」と題して話し、座学後の街中まち歩きのため、沼津の街の歴史的な変遷について解説した。
塩見さんは沼津市に転居して5年目だと言い、「歴史的な町並みなどに興味があって
研究しているが、沼津は歴史的なものがないから好きになれなかった」ことから話し始めた。
そして「『沼津は城下町だった』と子ども達に言っても分からない」と、歩いていても過去の歴史が感じられないことを指摘。元々、沼津は港町で、そこから宿場町、城下町へと変遷したことを説明した。
続けて、「沼津は魅力がないと思ったが、色々と見たり、調べたりしていて最近、面白さがふつふつと湧いてきた」と話した。
塩見さんは、沼津が狩野川の川湊(かわみなと)として発達したのが町の始まりで、その後、三枚橋城、沼津城が造られたことを説明。しかし、明治6年に沼津城が廃城になると、現在に至るまで城下町の痕跡が感じられないようになってしまった。
塩見さんによれば、「なぜ、感じられなくなったか」については3つの理由が考えられると言う。
1つ目は明治22年に沼津駅が出来たこと。塩見さんは「どこに沼津駅が出来たのか。それが沼津のまちに大きな影響を与えた」との見方を示した。
2つ目。沼津の中心市街地は大正2年と同15年の2度の大火によって広い面積を焼失し、その後のまちづくりで幅の広い道路が整備されるなど「町が変えられてきた」。
さらに、3つ目の昭和20年の沼津大空襲で市街地が焼け野原となり、復興都市計画によって町が造り替えられた。
塩見さんは幕末の沼津城周辺図や、明治20年代の市街地地図などから、その後の地図の写真をスクリーンに投影。明治20年代までの市街地地図には城下町の様子が見て取れるが、東海道線の開通と沼津駅の開設に伴い状況は変わる。
塩見さんは「城下町の真北に駅を造ってしまった。この駅が、もう少し西の町屋の方に造られていたら、城下町の形は残されたと考えられる」とした。
大正時代の2度の大火と沼津大空襲を経た後は、東海道と沼津城の気配が感じられない地図になった。また、現在の大手町の中央公園は沼津城の本丸があった場所だが、「本丸公園と言わずに中央公園と呼んでいる」ことを指摘。
結論として「鉄道と大火、大空襲の3つが沼津を変えていった」とした。
休憩を挟み、参加者は2つのグループに分かれ、時計周りと反時計周りで定められたコースを歩く「街中まち歩き」に出発。
1グループは大手町会館を南下して中央公園に至り、同公園からあゆみ橋の袂から川廓通りへ。途中に石垣があり、「これが城下町だったことの証」との説明を受けた。沼津城の石垣が残されている場所だという。
川廓通りでは同通りが旧東海道だということ、城の出入り口が郭と言われていたことが通りの名前の由来になっていること、さらに、東急ホテル(現・沼津リバーサイドホテル)を建設する時に出てきた三枚橋城の石垣の石がホテルの出入り口に置かれていることを学んだ。
この後、市街地に残され、伊豆石で造られた石蔵の数々を見て回り、時には「神社は基本的に移動できない。方向も位置も変えられないが、お寺は移動している」ことなど市街地にかかわり、石蔵以外についても解説を受けた。
【沼朝令和2年3月12日(木)号】
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