「見えない城」 世古真一
「境目」の地、「ぬまづ」は「ぬまど」と呼ばれていたこともある。太平洋海運の要地で湊町。今川・北条・武田の経済拠点。戦国時代、戦乱の地に築かれた三枚橋城が、江戸時代は沼津城、明治時代初期は兵学校として活用されて存在するも、その後はりきれいに消滅した沼津城の話。 6月23日、沼津史談会が主催し市立図書館で開催された城下町としての沼津の歴史を学ぶ「歴史と文化のまちづくり塾」の集大成の講演会に参加した。
歴史学者の平山優氏、国立歴史民俗博物館教授、樋口雄彦による講演と談話会で、消滅したものが昔に存在していたことを知らせるためには石碑よりも看板がいいのではないか、という議論があった。
私は2年前、平作地蔵の看板を市文化財センターと明治史料館の協力を得て製作したが、看板一つで、地域に埋もれた歴史観光地を生み出すことができたのではないかと自負している。
今では東海道を偲んで訪ねてくる観光客が看板を眺めている姿を見ると、街道散策の皆さんに楽しんでいただけることに微力ながら貢献できているようで、うれしくなる。
平作地蔵は、お地蔵様が流されないように石の祠で囲まれている。先日の大雨警報の際にも祠が浸水したが、この地が昔から洪水で悩まされていたことが想像できる。また、周りにある墓石には「享保」の文字が刻まれていて、300年以上前から存在していたことが認められる。
お地蔵様や、お墓のように現在も目で見て確認できるものがあると、昔、存在していたことを紹介することは比較的容易である。しかしながら、沼津城は存在を示す、かすかな痕跡があるのみ。しかも堀があった場所は広範囲で、説明するのも容易ではない。だから沼津城の存在を市民に知らせることは至難の業である。
ならば、そこには何があるのかを考えてみた。そうだ、沼津には「見えない城」が存在するのだ。「見えない城」が沼津市民を守ってくれているのだ、という考えが浮かんだ。
城という漢字は「土から成る」と書くが、土を掘って堀を作り、その土で壁を造っていたということ。共通するのは狭間や石落としなど敵を撃退する「防衛」の機能が付属していた。敵の来襲を防ぐために石垣や塀などで堅固に構えた軍事的な建造物を言う。
近世になると、防衛のための城ではなく、居住性や美観が重要視されるようになってきて、自分の城を守るといったように、他人を寄せ付けない、自分だけの領域の意味としても使われる。
戦国時代に戦闘を目的として造られた城が、江戸時代には平和を維持する制度の仕組みの一つとなり、明治時代初期には人材を育成するための教育施設の兵学校として使われ、その後、時の権力者の意向により「見える化」の反対、「見えない化」されてしまった沼津城。
明治のほとんど、大正、昭和、平成と見えない城として、城を意識できない形で「中心市街地」として市民を守ってくれた沼津城。令和の時代となり、「見えない化」された沼津城を「見える化」するための活動を沼津郷土史研究談話会((沼津史談会)はしている。その一つが「中央公園」の名称を「沼津城枇公園」にしようという活動である。
(沼津史談会会員、平町)
【沼朝令和6年7月13日(土)寄稿文】
0 件のコメント:
コメントを投稿