2024年8月27日火曜日

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原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6何8月27日(火)赤口 二十八宿:尾」「眉目秀麗」旧歴7月24日

 



きょうも見学会受け付け  解体前のアーケード名店街一角(沼朝記事)アーケード名店街 最後の内部公開 きょうまで(静新記事)

 

きょうも見学会受け付け

 解体前のアーケード名店街一角

 町方町・通横町第一地区市街地再開発組合(水口隆太理事長)は、アーケード名店街1街区の再開発事業に伴い、共同建築物(沼津本通防火建築帯)の解体工事が10月から行われるのを前に、解体前見学会を26日から実施。きょう27日も午前10時から午後3時まで見学を受け付ける。

 同名店街は、戦災復興が進められる中、都市不燃化運動の先駆けとして、防火建築帯の共同建築様式により、店舗と住宅が混在し、ポルティコ(公共用歩廊)空間が連続する商店街として1953年に西側が、翌54年に東側が完成した。

 電話線の地中化や角部の曲線化、横連窓など統一されたモダンデザインで、53年に日本建築学会賞(行政部門)を受賞し、全国的にも注目された。

 それから70年。老朽化による雨漏りや耐震強度の不足で大規模修繕が必要となり、1街区約3000平方㍍で先行した再開発が決まると、建築学的、歴史学的な価値から、大学の建築関係学部・学科の学生が見学に訪れて、3D測量や写真撮影による建物全館の記録を求める声もあった。

 見学会は当初、学生らに見てもらおうと企画したが、近隣住民からも見学希望の声があり、同組合と地権者の合意により、引っ越しが終わった店舗や住居部分を含む全館を一般公開することにした。

 26日は開始と同時に見学者が集まり、対象となった5軒を開放。建物1階の店舗部分をはじめ、23階の住居部、全棟が連なる屋上までを見学。横連窓や屋上から通りを見下ろして、角の曲線部を内側から見た。

 参加者の1人は「思っていた以上に建物の老朽化が進んで、修繕での対応は難しく、再開発の必要性を実感した」と話した。

 上本通り商店街で柳屋化粧品店を経営する沼津史談会副会長の長谷川徹さんも訪れ、「地権者と家族ぐるみの付き合いがあり、アーケード名店街が完成する前から出入りしてきたので、思い入れが深い。完成した当初は全国から人が集まり県東部一の商店街として活気にあふれていた」と当時を振り返った。

 また、「当初は建物を後ろに下げるセットバックにより歩道を確保する計画だったが、(同名店街通り東側にあった)松菱百貨店は鉄筋コンクリート製の立派な建物で、セットバックできないため、1階の一部を公共歩廊として市に提供して対応することになり、他の地権者も追随し、公共用歩廊空間が連続する商店街が誕生した」ことなどの歴史を紹介。

 駄菓子屋だいこくやでは、3つの棟が連なる1階の店内を見学。海野伸男店主が、2つの棟の中間にある倉庫は、かつては落花生の煎り豆工場があった場所で煎り豆の販売から卸問屋としてスタートした同店や、商店街の歴史について写真入りポスターを示しながら説明し、「この機会に知ってもらえたら」と話した。

 水口理事長は「建物は解体されるが、ノスタルジーやセンチメンタル的な恩いより、安心・安全な建物を次の世代に引き継げることに大きな意味を感じる。新しく出来るマンションの居住者を町方町目治会に迎え、共同俸コミュニティーを大切に継承していきたい」と語った。

 見学会ではスタッフが同行して館内を自由に見学できる。予約は不要。時間内に同商店街の市街地再開発組合事務所前で申し込む。

【沼朝 2024(令和6)827(火曜臼)




 

 沼津再開発伴い今秋解体往時の姿に思いはせ…

 アーケード名店街 最後の内部公開 きょうまで

 再開発に伴い、今秋にも建物の解体が始まる沼津市中心部の「アーケード名店街」で26日、解体前の最後の一般向け見学会が開かれた。来場者は、1953年に日本初の公共用歩廊を持つ防火建築として建てられた歴史的な建造物を見学し、往時や再開発後の姿に思いを巡らせた。27日午前10時~午後3時にも開催する。予約不要。

 見学会は地権者と町方町・通横町第一地区市街地再開発組合が主催。アーケード名店街のうち、南西側にある「第一地区」(3千平方㍍)3階建て共同建築の一部を公開した。来場者は建物の端にカーブを付けた独特の意匠を内部から見学したり、仕切りがほとんどない長屋形式の屋上に上がったりして、思い出を語り合った。

 実家が以前、同名店街で婦人服店を営んでいた同市の小川美穂子さん(57)は「のぼりがたくさん立ち、にぎやかだった昔を思い出した。新しい建物がどうなるか楽しみ」と期待した。

 解体後は1階に店舗、2階以上が住居の地上10階建ての建物が2028年に建つ予定。外観の一部は現在の建物の意匠を引き継ぐ。再開発組合の水口隆太理事長は「子や孫の世代にバトンタッチすることに意味がある。新たな共同体を生む再開発にしたい」と強調した。(東部総局・尾藤旭)

【静新令和6(2024)827(火曜日)




2024年8月22日木曜日

原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年8月22日(木)先勝 処暑」「十中八九」旧歴7月19日

 



沼津夜間救急センター2.5億円不明  死亡職員を刑事告訴へ 【静新令和6年8月22日(木)朝刊】

 


 沼津夜間救急センター2.5億円不明

 死亡職員を刑事告訴へ

 県東部6市町が運営する沼津夜間救急医療センター(沼津市)2億円超の多額の医療費が使途不明になっている問題で、センターを運営する沼津夜間救急医療対策協会は21日までに、6月に死亡したセンターの男性職員が横領した可能性が高いとして、男性を業務上横領の疑いで沼津署に刑事告訴する方針を固めた。複数の関係者への取材で分かった。

 使途不明金は、6月中旬に死亡した60代の男性職員の業務整理で、他の職員が把握していない金融機関の口座が見つかり、発覚。関係者によると、総額25500万円に上るとみられる。見つかった口座には、交通事故などで受診した患者に代わり、保険会社などが支払う医療費が振り込まれていた。本来、最終的には沼津市に入金される医療費だが、全額が引き出されていた。これらの事務は男性職員が長年にわたって一人で担当し、チェックが行き届いていなかった。

 6市町と地元医師会でつくる同協会は21日夜、非公開の理事会と総会を開き、刑事告訴の方針を確認した。保留となっていた2023年度決算が使途不明金を除外する形で承認された他、加藤公孝理事長は退任し、沼津医師会の田中日出和会長が後任に選任された。

【静新令和6822日(木)朝刊】


2024年8月4日日曜日

フェンシング男子エペ団体日本 銀メダル

 



フェンシング団体は、チーム3選手(リザーブ1選手)が相手と総当たりの計9試合をして争う。各試合は、5ポイント先取するか、3分間の試合終了時にポイントの多いほうが勝利。チームとしては、先に45ポイントを取るか、最終的に得点の多いほうが勝ちとなる。

 

世界ランキング3位で東京五輪で金メダルを獲得した日本は、加納虹輝、山田優、古俣聖、リザーブの見延和靖が銀メダル。加納は今大会、エペ個人で金メダルを手にしている。(BBCNEWSJAPN)


原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年8月4日(日)先勝 二十八宿:虚」「明鏡止水」旧歴7月1日

 



2024年8月2日金曜日

「清水瓦」文化を復活へ  若手鬼瓦職人の長沢さん奮闘 【静新令和6年8月2日(金)朝刊】

 

清水瓦」文化を復活へ

 若手鬼瓦職人の長沢さん奮闘



 女性向け小物で認知度向上

 静岡市清水区の巴川流域の粘土を使用した伝統工芸「清水瓦」。50年前の七夕豪雨をきっかけに途絶えたとされるが、同区で1971年から瓦屋根の施工業を営む長沢瓦商店の3代目長沢玲奈さん(25)が瓦を焼く鬼瓦職人(鬼師)の道に進み、清水瓦文化の復活に奮闘している。瓦のアクセサリーや雑貨を開発するなど、現代の暮らしに合わせた清水瓦文化を模索する。

 清水瓦は江戸時代、駿府城築城のため移住した愛知県三河の瓦職人が巴川流域の粘土を使ったのが始まり。やがて全国有数の産地に成長したが、煙や採算性の間題により衰退。七夕豪雨がとどめをさした。巴川.沿いに並んでいた窯元は腕の良しあしに関係なく次々廃業し、その存在を忘れ去られた。清水で生まれ育った玲奈さんも、父の宗範さん(50)に聞くまで「清水瓦」という言葉すら知らなかったという。

 「実は清水瓦が復活してくれないかなと思ってるんだよね」。家業に入って間もない2019年、父親の本音を初めて聞いた。「清水瓦が復活すれば地元が元気になるのでは。自分たちに何かできないか」とぽつぽつ語り始めた父親の姿に一念発起した玲奈さんは、翌年から三河で鬼瓦職人としての修行を始めた。

 修行は毎月1週間。へらを器用に使い、粘土の塊から目的の形に彫り上げる作業は難しく習得までに時間がかかった。清水には十分な設備がなく、焼成は愛知県の窯元に協力してもらった。試行錯誤の末、瓦の吸水性を生かした花の形のアロマストーンや、「いぶし銀」の色合いが特徴のアクセサリーなど、女性向けの瓦小物を開発。最近はメディアに取り上げられるようにもなり、認知度向上に手応えを感じているという。

 6月、瓦職人で夫の歩夢さん(28)との間に待望の長男が生まれた。9月には焼き窯を設置した新店舗が巴川沿いにオープンする。販売だけでなく制作体験会を定期的に実施する予定だ。「この子が大人になるまでに、多くの人の生活に清水瓦がなじんでいる世の中にしていきたい」と小さな命にほほ笑みかけた。(鈴木志穂)

【静新令和682日(金)朝刊】


工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性

 

工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性

8/2() 12:00配信 歴史人

日本列島に広く王権を広げて、やがて飛鳥時代・奈良時代へと発展していく大和王権に私たちは目が行きがちですが、古墳を造り始める3世紀の東日本にも注目するべき遺跡があります。



 

■道路工事現場から発見された高尾山古墳が示す古代史解明の可能性

 日本列島に国を開いた大和王権の履歴は、『古事記・日本書紀』の主役ですから、わが国の古代史を研究するとき、どうしても近畿地方から西の地域が主体になる傾向にあります。

それは致し方ないことですしその研究は本道ともいえますが、四国や北陸、東海・関東から東日本の研究は、それぞれの地域では進んでいても体系的全国的にはあまり勢いを感じないような気がします。

 しかしながら開発が進むと、どこにでも思いもしない大発見があるのが考古学の醍醐味です。最近の調査研究で、静岡県沼津市の道路工事現場から発見された全長約62mの高尾山(たかおさん)古墳に私は注目しています。

慢性的な渋滞解消のためのバイパス工事中に、昔から遺跡ではないかといわれていた高まりを事前調査した結果、実に重要な前方後方墳であることがわかったのです。

 この古墳は未盗掘の竪穴直葬木棺墓だったので、石製品や金属製品、土器などが埋葬時の様子を残して発掘されました。

 検出されたのは、遺体の頭部付近に割れた銅鏡1点、胸のあたりから石製の小型勾玉が一つ、両脇から鉄剣もしくは槍身が2点、鉄鏃(てつやじり)32個及び小型の鉄製槍鉋(やりがんな)1点などで、大型の壺破片や土器の破片が多数出ています。

 まだ研究の最中ですが、問題はこの古墳の被葬者が埋葬された時代の特定仮説です。もしかすると纒向遺跡の箸墓よりも少し古いか、同年代ではないか? という説が出てきました。それは剣を槍先に転用したかもしれないと考えられている70cmほどもある鉄製品のデザインなどからの推定です。弥生時代の青銅剣の刀身にみられる長い溝が施されている鉄剣だった可能性があり、柄付けの部分には、やはり弥生時代にみられる特徴が2か所あったのです。

 そのうえ一枚出てきた銅鏡は、2世紀ごろに中国で生産された上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)いう、直径13.5cmの破鏡でした。

「破鏡(はきょう)」というのは主に弥生時代終末期から古墳時代初期にみられる鏡で、わざわざ割ってから副葬するという風習によるものです。

 また墓内から出土した土器や周溝から大量に出土した土器の慎重な編年研究で、3世紀半ばには築造されていたのではないかと考えられているそうです。3世紀半ばといえば、大型前方後円墳の最古級だと考えられている箸墓の築造年代と同じか、少し古い可能性が出てきたのです。

 そして注目されるのは出土する土器類の特徴から、わりと多く発見される外来土器の中では畿内土器が全く無く、北陸や近江、東海西部、関東の特徴を持つ物が多いということです。これは非常に重要なことで、3世紀の沼津市周辺地域が畿内王権と無関係だった可能性を示唆しています。

 ということは、沼津市の高尾山古墳という前方後方墳は畿内の王権文化と直接交流すること無く築造されたということになります。この地域に大和王権の影響が表れてくるのは、古墳時代前期後半以降だそうです。もちろんまだ結論に達するまでには長い研究が必要でしょうが、現状ではそういう仮説が成り立ちます。

 しかしここで私が行き詰まるのは、「前方後方墳と前方後円墳の違いはあるが、基本デザインは同じではないのか?」ということなのです。

 自然発生的に前方部付帯型の古墳が出現するものでしょうか? もしもそうなら、3世紀のはじめ頃に全く同じ最新の文化と思想を携えた渡来集団が東西に到着してそこに定着したとしか思えませんが、前方部付帯型の古墳は日本列島独自のものですから、これも納得しがたい話になります。

 まだ全くわからない問題なのですが、ひとつヒントになりそうなのは、外来土器の中で東海西部の物があるということではないでしょうか? また前方後方墳の発祥地域が、東海西部地域だと考えられている点です。東海西部とは、今の愛知県から岐阜県の一部にかかる濃尾平野一帯の地域を指します。

 奈良県の纏向遺跡も外来土器が多いので有名ですが、やはり東海土器が特筆するほど多いのです。こうなると、東西両文化に大きく影響を与えた勢力が東海地方にあって、前方部を付帯するデザインの発明もこの地域だったのかと考えてしまいます。

 いよいよ以前から私が提案している「東海地方の発掘と研究が急務だ」という話になるのです。弥生時代に相当発達した邑国が現在の愛知県あたりにあったはずだと思えてなりません。新文化を携えた渡来集団は、日本海側に上陸して温暖な気候を求めて陸上を移動し居住地を広げたでしょう。その上陸地点は北九州ばかりではなかったはずです。

 最新のゲノム研究でさまざまなことがわかってきましたし、日本史を列島内で完結するかのような研究ではなく、大きくとらえて考える時が来たのだと思います。

 縄文から弥生、そして古墳時代へと進化していくプロセスを、少なくともグローバルなユーラシアでの人類の流れと交流で考える時が来たのだと考えています。

柏木 宏之


原えつお四文字ひめくりカレンダー令和6年「令和6年8月2日(金)先負 青森ねぷた祭り」「疑心暗鬼」旧歴6月26日