2024年8月2日金曜日

工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性

 

工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性

8/2() 12:00配信 歴史人

日本列島に広く王権を広げて、やがて飛鳥時代・奈良時代へと発展していく大和王権に私たちは目が行きがちですが、古墳を造り始める3世紀の東日本にも注目するべき遺跡があります。



 

■道路工事現場から発見された高尾山古墳が示す古代史解明の可能性

 日本列島に国を開いた大和王権の履歴は、『古事記・日本書紀』の主役ですから、わが国の古代史を研究するとき、どうしても近畿地方から西の地域が主体になる傾向にあります。

それは致し方ないことですしその研究は本道ともいえますが、四国や北陸、東海・関東から東日本の研究は、それぞれの地域では進んでいても体系的全国的にはあまり勢いを感じないような気がします。

 しかしながら開発が進むと、どこにでも思いもしない大発見があるのが考古学の醍醐味です。最近の調査研究で、静岡県沼津市の道路工事現場から発見された全長約62mの高尾山(たかおさん)古墳に私は注目しています。

慢性的な渋滞解消のためのバイパス工事中に、昔から遺跡ではないかといわれていた高まりを事前調査した結果、実に重要な前方後方墳であることがわかったのです。

 この古墳は未盗掘の竪穴直葬木棺墓だったので、石製品や金属製品、土器などが埋葬時の様子を残して発掘されました。

 検出されたのは、遺体の頭部付近に割れた銅鏡1点、胸のあたりから石製の小型勾玉が一つ、両脇から鉄剣もしくは槍身が2点、鉄鏃(てつやじり)32個及び小型の鉄製槍鉋(やりがんな)1点などで、大型の壺破片や土器の破片が多数出ています。

 まだ研究の最中ですが、問題はこの古墳の被葬者が埋葬された時代の特定仮説です。もしかすると纒向遺跡の箸墓よりも少し古いか、同年代ではないか? という説が出てきました。それは剣を槍先に転用したかもしれないと考えられている70cmほどもある鉄製品のデザインなどからの推定です。弥生時代の青銅剣の刀身にみられる長い溝が施されている鉄剣だった可能性があり、柄付けの部分には、やはり弥生時代にみられる特徴が2か所あったのです。

 そのうえ一枚出てきた銅鏡は、2世紀ごろに中国で生産された上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)いう、直径13.5cmの破鏡でした。

「破鏡(はきょう)」というのは主に弥生時代終末期から古墳時代初期にみられる鏡で、わざわざ割ってから副葬するという風習によるものです。

 また墓内から出土した土器や周溝から大量に出土した土器の慎重な編年研究で、3世紀半ばには築造されていたのではないかと考えられているそうです。3世紀半ばといえば、大型前方後円墳の最古級だと考えられている箸墓の築造年代と同じか、少し古い可能性が出てきたのです。

 そして注目されるのは出土する土器類の特徴から、わりと多く発見される外来土器の中では畿内土器が全く無く、北陸や近江、東海西部、関東の特徴を持つ物が多いということです。これは非常に重要なことで、3世紀の沼津市周辺地域が畿内王権と無関係だった可能性を示唆しています。

 ということは、沼津市の高尾山古墳という前方後方墳は畿内の王権文化と直接交流すること無く築造されたということになります。この地域に大和王権の影響が表れてくるのは、古墳時代前期後半以降だそうです。もちろんまだ結論に達するまでには長い研究が必要でしょうが、現状ではそういう仮説が成り立ちます。

 しかしここで私が行き詰まるのは、「前方後方墳と前方後円墳の違いはあるが、基本デザインは同じではないのか?」ということなのです。

 自然発生的に前方部付帯型の古墳が出現するものでしょうか? もしもそうなら、3世紀のはじめ頃に全く同じ最新の文化と思想を携えた渡来集団が東西に到着してそこに定着したとしか思えませんが、前方部付帯型の古墳は日本列島独自のものですから、これも納得しがたい話になります。

 まだ全くわからない問題なのですが、ひとつヒントになりそうなのは、外来土器の中で東海西部の物があるということではないでしょうか? また前方後方墳の発祥地域が、東海西部地域だと考えられている点です。東海西部とは、今の愛知県から岐阜県の一部にかかる濃尾平野一帯の地域を指します。

 奈良県の纏向遺跡も外来土器が多いので有名ですが、やはり東海土器が特筆するほど多いのです。こうなると、東西両文化に大きく影響を与えた勢力が東海地方にあって、前方部を付帯するデザインの発明もこの地域だったのかと考えてしまいます。

 いよいよ以前から私が提案している「東海地方の発掘と研究が急務だ」という話になるのです。弥生時代に相当発達した邑国が現在の愛知県あたりにあったはずだと思えてなりません。新文化を携えた渡来集団は、日本海側に上陸して温暖な気候を求めて陸上を移動し居住地を広げたでしょう。その上陸地点は北九州ばかりではなかったはずです。

 最新のゲノム研究でさまざまなことがわかってきましたし、日本史を列島内で完結するかのような研究ではなく、大きくとらえて考える時が来たのだと思います。

 縄文から弥生、そして古墳時代へと進化していくプロセスを、少なくともグローバルなユーラシアでの人類の流れと交流で考える時が来たのだと考えています。

柏木 宏之


0 件のコメント: