世界かんがい遺産施設遺産に
「香貫用水(内膳堀)」登録申請へ
「世界かんがい施設遺産」として「香貫用水」が選定され、世界かんがい排水委員会(ICID)に申請されることが決まった。今月末までにICID本部(インドのニューデリー)に申請書類が提出される。
農林水産省によれば、ICIDは、かんがい・排水・洪水管理等の分野で、科学技術の研究・開発、経験知見等の交流の奨励及び促進を図ることを目的に1950年、インドで設立された非営利の国際NGO(非政府機関)。かんがい・排水に関する世界最大規模の専門家ネットワークとして活動している。
「世界かんがい施設遺産」は、歴史的なかんがい施設をICIDが認定・登録する制度で、登録されるには次の3つの基準を全て満たすことが必要。
1、建設から100年以上経過していること。
2、ダムや堰、水路等のかんがい施設であること。
3、次の基準を1つ以上満たすこと。
①地域における農業発展、食料増産等に大きく貢献した施設であるもの。
②設計、施工等が当時としては革新的なもの。
③当時としては卓越した技術のもの。
などで、昨年までに世界17力国123施設、国内では28府県44施設、県内では深良用水(裾野市)と源兵衛川(三島市)が登録されている。
今回、ICID日本国内委員会(事務局・農水省)が同遺産候補施設として国内3施設を申請することにしたもので、県内では磐田市の「寺谷用水」も選定された。
「香貫用水」は「内膳堀」の名で知られる。創設者の植田内膳に由来するもので、江戸時代初めに創設された。市では17世紀初頭(1629年頃供用開始)としている。
用水は、黄瀬川が狩野川に流れ込む大滝と呼ばれる地点から、やや川下に堰を設け、川の水を引き込む形で2本が設けられ、1本は上香貫村、もう1本は下香貫村に向かい、両村の水田のほとんどを灌漑(かんがい)した。堰は川の中へまっすぐに突き出した形ではなく、上流方向に湾曲した「袋堰」と呼ばれる構造。
2本の水路延長は5㌔に及ぶが、内膳が築造した当時は1本で途中で分流。後に1本が加わった。さらに枝分かれの水路を含めると総延長19・85㌔。現在でも主に下香貫地区の7㌶の農業を支える灌漑施設。築造に苦労したことから「泣き堀」とも呼ばれた。
本郷町の霊山寺には内膳と見られる植田三十郎の墓があり、同寺周辺は「三十郎新田」と呼ばれていた。香貫山香陵台には植田内膳顕彰の「植田内膳翁頒徳碑」が建つ。
なお、申請後の日程は、10月にICIDの理事会がオーストラリアで開かれ、ここで「世界かんがい施設遺産」登録施設が決まる予定。
参考文献『沼津市史通史編近世』(平成18年、沼津市発行)、『沼津市誌』(昭和12年初版・同50年再版、蘭契社書店発行)
【沼朝2022年(令和4年)6月8日(水曜日)】
内膳堀(ないぜんぼり)
沼津市役所ホームページ
2017年10月6日更新
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植田内膳については不明な点が多く、一説には原の植田新田を拓いた植田三十郎が後に上香貫の新田(今の吉田町)に居住したとも言われている。これは内膳またはその一族であろうか、近くには三十郎新田の小字名も残っている。
近世に入り新田開発が進むにつれ、灌漑施設についてもしだいに関心が高まってきた。当時香貫一帯では相変わらず香貫山の水を貯水池に溜めて、これを用水とする水利設備しか持たなかった。香貫に住んだ内膳は、水位のあまり高くない狩野川の流水を、今の通称大滝の土手で石をもって三日月形の堰を構築し、その部分の水位を高め、香貫山麓を巡って一条の水路を開削し、苦心惨憺の結果引水に成功した。このため内膳は家産を傾け、生命の危険に瀕したこともしばしばであった。後世この堀を内膳堀、または泣き堀というのは、その間の消息を物語るものであろう。
植田内膳は寛永13年(1636年)11月16日にこの地で没した。墓は本郷町の霊山寺にある。昭和3年(1928年)11月、内膳の偉業を顕彰するため香貫山の香陵台に頌徳碑が建立されたが、題字は徳富蘇峰の揮毫、碑陰記の撰ならびに書は池谷観海によるものである。また、かつての堀の取入口には取入口碑(中瀬町)が建てられている。
中瀬町の取入口に建てられた内膳堀の石碑
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霊山寺にある内膳の墓
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香陵台に
ある頌徳碑
沼津市役所ホームページより
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