沼津商工会議所歴代会頭とたどる沼津の変遷
沼津商工会議所は昨年11月に役員改選を行い、紅野正裕会頭が再任され、2025年10月までの任期を務めることになった。紅野体制2期目となる今期は、同年1月の沼津商議所創立100周年を控える中、紅野会頭は「総合経済団体としての商工会議所の使命・役割をあらためて肝に銘心たい」と引き締める。沼津商工会議所は約100年前の発足から現在まで14代にわたる会頭をはじめ、多くの先人達に導かれて信頼と実績ある現在の総合経済団体へと成長してきた。今回は、今年の沼津市制100周年に続いて、創立100周年を間近にした商議所における第14代紅野会頭までの歴代会頭をたどりながら沼津の経済、ひいては沼津市の変遷の一端に触れてみた。(文中の会頭名に続くカッコ内は、自身の会社名、会頭在任期間。年号は和暦のみで表記した)
大正期の誕生から激動の昭和
経済低迷続く平成、コロナ禍の令和
明治初頭、欧米諸国の商工会議所のような組織の例や日本国内における巨商達の相互連絡と協力の必要性が提唱され、明治11年3月に東京で渋沢栄一を中心に「東京商法会議所」が、同年8月に大阪で五代友厚を中心に「大阪商法会議所」が設立され、渋沢、五代が、それぞれの初代会頭に就任した。
明治23年、商「法」会議所は、法人組織として商「業」会議所となるが、昭和2年4月の「商工会議所法」により、現在の商「工」会議所となり、一市一会議所が原則とされた。
沼津商工会議所は、沼津市が誕生した大正12年7月1日の翌々年、同14年1月17日に「沼津商業会議所」として誕生したが、昭和2年の法律により2年余りで「沼津商工会議所」に改められた。
初代会頭は杉山周蔵氏(沼津倉庫、大正14年1月~昭和12年3月)。
初代沼津市長和田伝太郎氏が結成した沼津倉庫(沼津通運倉庫の前身)の取締役、沼津銀行(昭和10年に静岡銀行と合併)の取締役など歴任。経済人としての活躍のみならず、駿東郡議会議員、沼津町議会議員、同市議会議員を務め、地域に貢献した。
ニューヨーク株式市場の大暴落からの大恐慌(昭和4)などによる厳しい経済状況の中、杉山会頭時代の昭和8年、第1回暑中、歳末大売り出しを開始している。
2代会頭は岡野豪夫氏(駿河銀行、昭和12年3月~23年12月)。
現スルガ銀行の2代目頭取で、初代岡野喜太郎氏の長男。沼津市議会議長を務め、沼津ロータリークラブを創設するかどの地域貢献活動も行った。戦前から戦中、戦後と国内外が激動の時代、岡野豪夫体制最後の年となった昭和23年8月に第1回沼津夏まつりが実施されている。
3代は石橋治郎八氏(石橋製糸、昭和23年12月~29年10月)。
一昨年まで沼津駅北口の顔としてあった「イシバシプラザ」の場所で製糸工場を興した人物で、現在の石橋生絲社長、石橋昭彦氏の祖父。
朝鮮戦争の特需景気を背景に景気が好転した時代、昭和25年には沼津信用金庫の前身である沼津信用組合が商議所を中心にして設立された。
4代は田中清一氏(富士製作所、昭和31年3月~34年9月)。
現在の田中清明社長の祖父にあたる。昭和34年に参議院議員に当選した政治家でもあり、高速道路計画実現を訴えた「高速道路の父」と呼ばれる人物で、東名高速道路沼津インター一般道側出入り口に銅像が建てられている。
5代は岡田吾市氏(岡吾商店、昭和34年11月~44年1月)。 浅間町にあった岡吾商店社長。市議会副議長も務めた。高度経済成長時代に突入する時代、沼津では昭和36年に仲見世アーケードが完成。41年には現在の市役所庁舎が完成している。
また、この頃、沼津市から清水町、三島市にかけては石油コンビナート建設計画や新幹線駅誘致など世間を二分するような出来事があった。
6代は岡野喜一郎氏(駿河銀行、昭和44年1月~56年2月)。
同行3代頭取で、2代会頭豪夫氏の長男。井上靖文学館などを設立し、地域の文化芸術振興に尽力した。
高度経済成長期からバブル期へと移行しようとした時代。昭和53年に沼津駅北口の高島町にオープンしたイトーヨーカ堂を核としたショッピングセンター「イシバシプラザ」は長年、沼津の経済の中心地であった南口商店街に与える影も大きかった。
7代は宇野三郎(桃中軒、昭和562月~平成4年月)。
同社の第3代社長沼津青年会議所の代理事長などを務めた紳七郎氏は実弟。 バブル全盛期から終末に向かう時代、片浜駅の新設(同62)、市立病院の三枚橋町から東椎路への移転(同63)など郊外の活性化が始まる時期であったと言えるかもしれない。
8代は大橋光雄氏(沼津中央青果、平成4年8月~11年3月)。 同社やグループ会社のスーパーマルトモの経営を担う一方、沼津市議を務め、議長にも就いた。
現社長で沼津市長を務めた櫻田光雄氏の義理の父。平成不況が日本経済を襲ったこの時代、愛鷹広域公園(平成4)、キラメッセぬまづ(同6)が完成。
9代は永倉芳郎氏(沼津通運倉庫、平成11年3月~13年6月)。
初代の杉山会頭が取締役を務めた沼津倉庫の後身である沼津通運、沼津港運送を買収合併し、自社(永倉精麦)のグループ会社「沼津通運倉庫」として再スタートさせ、同社の初代社長となった。会頭在職中に逝去。この時代、沼津市は特例市に移行(平成11)している。
10代は諏訪部恭一氏(沼津信用金庫、平成13年11月~19年可10月)。
第6代沼津信用金庫理事長。この時代の沼津は、丸井の撤退(平成16)などにより中心市街地の衰退を市民が自覚し出す時期となる。また、同17年には沼津市は戸田村と合併し現在の沼津市域が誕生する。
11代は後藤全弘氏(ゴトー、平成19年」11月~22年10月)。 紳士服販売店である同社の創業者、後藤成夫氏の実弟。現沼津商議所副会頭の後藤行宏氏の叔父、同社現社長の久徳氏の実父。この時代、「イーラde」(平成20)、「沼津港新鮮館(同21)などの商業施設がオープンしている。
12代は市川厚氏(石川建材工業、平成22年11月~28年10月)。
同社の創始者である石川光雄氏の義理の弟。現沼津市議会議員、市川道隆氏の実父。平成24年に新東名高速道路が開通し、浮島地区に「NEOPASA駿河湾沼津」がオープンする一方、西武百貨店の撤退(平成25)という、やはり中心市街地の衰退を象徴する衝撃的な出来事もあった。
市川体制時代の同26年、沼津商工会議所は、御幸町から現在の米山町に移転している。
13代は岩崎一雄氏(イワサキグループ.平成28年11月~令和元年10月)。
税理士として昭和48年に開業。会社組織化したイワサキグループを社員の吉川正明氏(元商議所青年部会長)に託した。
記憶に新しい、ららぽーと沼津のオープン(令和元)があり、沼津経済の中心軸が北へ移っていくと思わせる出来事。
14代が紅野正裕氏(沼津信用金庫、令和元年11月~)。
同金庫第8代理事長。コロナ禍で厳しい経済状況の中、会員への伴走型支援などに力を入れ、来る1OO周年に向けて準備を進める。イシバシプラザの撤退(令和3)など、ますます衰退が進む沼津駅前の再生など、課題は山積している。
大正時代に始まり、激動の昭和、長い不況が続いた平成、そしてコロナ禍に見舞われている令和へと続く約100年の間、その灯を、より大きくしようとつないできた歴代会頭。沼津経済界の中心人物としての諸氏の活躍が、今年100周年を迎える現在の沼津市を作って来たといっても過言ではないかもしれない。
【沼朝令和5年1月1日(日)元旦号】
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