盃(さかずき)
なぜ酒飲みを左利きというのか
知人に久しぶりに会ったときなど、「チョット一ハイやろうか」と、また何か機会があって、人が集まると、また一献(いっこん)かたむける。日本人の暮らしのなかで、酒は欠くことのできないものである。
昔から、「一味同心」(いちみどうしん)という言葉がある。一定の同じものを味わう人問同士が、はじめて心も一つにすることができることをいうのであろう。共同飲食がたがいの親近感を強め、連帯の意識を強める。ともにくみかわす酒には、こうした大きな効用があった。 酒をくみかわすもとのかたちは酒盛である。はじめ酒盛は、祭のさい、神の前で一つの儀式として、厳重な秩序のもとにおこなわれた。古い作法では、酒が上座から順々に下座に流されていき、一通り終わるのを「初献」という。これにはかならず謡(うたい)がつき、一人一人盃をまわして飲むたびに、一曲ずつ謡をうたった。こうしたことを「ウタゲ」という。もっともよく知られるのは、春日大社の猿楽座(さるがくざ)の酒盛、大和の天川や河内の枚岡(ひらおか)にも、こうした作法力厳然とあったし、各地の村々の宮座にも伝えられた。
一献・二献と厳重にすすんで、五献におよぶのが本式である。肴(さかな)も一献ごとにみなちがっていて、この肴を見立てることを「献立」という。このときの酒は、もちろん冷酒。盃は素焼(すやき)の土器(かわらけ)。いまにいたるも、祭の酒盛にはこれを用いることが多いし、古墳や古代住居地などから出土するのも、同様のものである。祭にかぎらず、古代には土器が一般的な盃で、これにともなうのは瓶子(へいし)の類。『西宮記』(さいくうき)などには、朱器を飲具とした例が見られるが、木杯の一般化は中世以降のことである。だがこの場合でも、皿形の人きいもので、冷酒を飲みまわす集団的な洒宴方式にはみなこの形の盃を用いた。銘々盃、つまり個人専用の小形の.盃のでてくるのは、江戸時代になって、遊里に見られるような、新しい酒宴方式が生まれてからである。
室町時代までは、一献ごとに盃を改めていき、五献には、前の盃が五枚重ねになるというのが習わしであったが、五献を厳格にしていると、夜が明けてしまうことがしばしばあったという。そこで略式がひろまった。一献・二献とすすめ、三献ぐらいまでを大きい盃でし、あとは各自が盃を持って、自由勝手に飲む。三献すむとあとは、本式すなわち表向の酒座ではなくなるというので、これを「穏座」(おんざ)といった。穏座になるともう座が乱れて無礼講。いまでは、このオンザばかりが一般の酒盛になってしまっている。
もっと略式になると、はじめから膳の上に五つの盃を並べておく。いちばん右端が小さく、順々に大きくなり、左端がいちばん大きい盃。みないっせいに小さい盃から飲みはじめる。左手前におかれた大きい盃が、いちばんあとに用いられるわけであるが、これをもっともよく飲む人にすすめるため、順序をとばして左の方からはじめることがある、酒好き、酒飲みを「左利」(ひだりきき)というのは、ここから生まれた言葉であった。芸者を左褄(ひだりつま)というのも関係がありそうである。
なお、大和の生駒山麓の村で、婚礼に新婚夫婦を祝福するにあたり、一人ずつ順番に歌をうたい、誰かが歌っているあいだ、一同が盃を手にして、目の高さに捧げもつ風がある。かつてのウタゲの遺風がここに見られる。婚礼も昔は一種の祭典であった。ふつうの酒宴でも、宴なかばからかならず歌がでるのも、ウタゲの片鱗かもしれない。酒の飲み方、酒器はかわってしまったが、骨子は依然として昔のままともいえる。
民具の博物誌 増補版
一九九〇年四月二〇日初版発行
一九九四年二月二g日増補版初版発行
著者岩井宏實
発行者清水勝
発行所河出書房新社
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