「香陵の地」訪ねて 浜悠人
先日、香貫の市民文化センターでの催し物見学のため沼津駅から歩いてみた。市民文化センターまでは旧制沼中から新制沼東高へと通った懐かしい地だ。駅東側の小地域は「上町(うえまち)」と呼ばれ、狩野川沿いの下の方は「下町(した=志多)」と呼ばれている。
この辺りは沼津城の東隅で藩の鉄砲操練場があった場所で、明治五年、城が解体され、その跡地は鉄砲田と呼ばれ、後、町並みがつくられて「鉄砲町」と名付けられた。
稲荷神社(現自治会館と合併)の前には現図書館だが、大正五年、沼津繭市場(名取商会)が開設され、第一次世界大戦中から昭和初期にかけて毎年五月、全国に先駆けて繭の初取引が行われ、その年の生糸相場の指標となり、関係者は各地に、その状況を知らせていた。
近くには狢(むじな)川が流れ、江戸時代の頃、三枚の石が川に渡され、三枚橋と称された。現在、一枚は千本の本光寺に、一枚は岡宮の浅間神社に接する宮前公園にあるが、もう一枚は行方不明である。
さて、狩野川本流に架かる「三園橋」は、その名を「三枚橋町」の「三」と上香貫にあった「沼津藩菜園場」の「園」から採ったものである。
思い起こせば昭和20年5月17日、空襲警報が鳴り渡り、当時、沼中の上級生は海軍工廠に学徒勤労動員で出掛け、下級生は勤労作業の合間の登校日だったが、授業もそこそこに帰宅を命ぜられ、三園橋の上でB29の爆弾投下に遭った。橋上で伏せて見れば、上流に水煙が上がり、三枚橋町や平町の人家に被害があった。
昭和十三年六月、狩野川の洪水により三園橋も流され、一時、渡し船で渡った覚えがある。それから幾度か仮橋も流され、今日の三園橋は「昭和33年7月竣工」と橋に表示されており、その年の九月には狩野川台風もあったので、現在の三園橋は流されることもなく無事だったことを知った。
昭和五年六月一日、沼津第四尋常高等小学校に昭和天皇が行幸された。それまでは市役所から第四小学校辺りは三園町と呼ばれていたが、天皇行幸から御幸町となり、三園町は八間道路を南に下がった所となった。
橋を渡り切った所を左に曲がり土手を行く。四小のグラウンドも終わり、土手を下って真っ直ぐに当たる所に旧制沼中、新制沼東高の校門があり、校門をくぐると右手に柔道、剣道の部活をやった武道場があり、左手には講堂があった。
昭和二十年七月十七日のB29の焼夷弾空襲により校舎、武道場の全てが焼失し、戦後、各所での分散授業から昭和二十年十二月に海軍工廠本庁跡へ移った。
昭和二十三年四月に新制高校が発足。香陵の地に新校舎が建設されると海軍工廠から移り、岡宮へ移転するまでの二十年近く、ここ香陵の地で沼東生は一生懸命学んだ。
現在は「市民文化センター」となり、グラウンドには昨年、「香陵アリーナ」と呼ばれる体育館が完成した。
懐かしい青春の思い出の地を散策し、改めて沼津の良さを感じたひとときであった。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和6年1月7日(日)寄稿文】
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