2020年11月14日土曜日

杉浦千畝とリトアニア 前駐在特命全権大使重枝豊英氏が講演  【沼朝令和2年11月14日(土)号】

 

杉浦千畝とリトアニア

前駐在特命全権大使重枝豊英氏が講演



 杉原千畝(ちうね)・幸子(ゆきこ)夫妻顕彰碑の除幕記念講演会が3日、千本プラザ音楽ホールで開かれ、「杉原千畝とリトアニア」をテーマに、前駐リトアニア特命全権大使、重枝豊英氏が講演した。主催は命のビザ・杉原千畝顕彰会(松下宗柏代表)。講演に先立ち、西高音楽部の生徒16人が演奏。ソプラノ、フルート、マリンバなどの演奏に続き、「千畝さんが私達に伝えたかったであろう命の重さを考えながら」選曲したという『いのちの歌』を全員で合唱。参加した生徒の1人は、「小学生の頃、千畝さんのことを描いた漫画を読んで、夫妻の活動に感銘を受けた」と話した。続いて、重枝氏が紹介され、講演に移った。

 命のビザ発給の背景は?

 今、杉原の精神どう生かせるか

 重枝氏は1952年生まれ。中央大学法学部卒業後、外務省に入省。各国で日本大使館に勤務し、駐フランクフルト、駐ホノルルの総領事などを歴任した後、2015年から退官までの3年間、リトアニアの日本国大使館特命全権大使を務めた。松下代表の紹介によれば、「共に汗をかきながら地域の人との交流をする人」。

 重枝氏は「同じ外交官として、杉原さんがどう考えたのか、分析できることもあるだろう」として、広い見識を基に自身の考えを話した。

 杉原生誕120年、命のビザ発給から80年となる今年をリトアニアでは「杉原イヤー」としている。新型コロナウイルスのパンデミック(爆発的流行)のため来年に延期になったが、国として杉原をたたえる催しなどが多く計画されていると言う。

 重枝氏はスライドで写真を示しながら、リトアニアについて紹介。面積は北海道の6分の5程だが、3000の湖と4000の森があって「夏は信じられないくらい美しい」と言う。

 町並みは中世的で、かつての王国の跡が見て取れる。

 「昔は非常に大きな帝国で、ヨーロッパの10分の1を治めたことがあった」が、次第に近隣の国に侵食され、特にロシアに攻め取られて従属することになり、1795年から120年間はロシアの支配下にあった。

 カウナスにある「無名戦士の墓」には、これまでの戦いで命を失った人が、敵も味方もなく葬られていて、「礼を尽くした形で毎年、国家行事として慰霊をする」と言う。

 また、リトアニア北部にある「十字架の丘」には、数え切れないほど多くの十字架が立てられている。かつて1人のηトアニア人がロシア人に処刑され時、その供養のために1本立てると、その後、次々に増え続けたという。このようにリトアニアの文化には、「キリスト教に基づきながらも、日本の神道のようなものが混じっている」と言い、小さな国としての独自の文化が今に伝えられている。

 そしてリトアニアの各地には、ナチスのホロコースト(大量虐殺)によって犠牲となったユダヤ人の墓がある。かつては「北のエルサレム」と言われるくらい神学が盛んで、そのため多くのユダヤ人がいた。

 日本に対しては「好意と敬意を持っている」と言い、特に日本の科学技術と精神文化を重視している。その精神を学ぶため、武道が盛んで、「形」を非常に重んじている。

 小学校でも杉原の顕彰が行われていて、その功績は子どもにも知られている。 日本人は、「困っている人を助け、礼儀正しく、品格がある」と思われているが、これはユダヤ人を助けた杉原の行動や精神が、そのまま日本人のイメージになっているため。

 かつて杉原が働いていたカウナスの領事館は、杉原が自身で用意した。 ここに派遣された目的は、ソ連とドイツの開戦についての軍事情報を得るためだった。杉原はロシア語もドイツ語も堪能で、情報収集の資質が高く、実際に独ソ開戦情報を1カ月前に報告していた。

 この領事館にビザを求めてユダヤ人が押しかけて来たが、問題は多くあった。ビザを出すためには、行き先国、通過する国の了解が必要で、滞在費用を持っていることも示さなければならない。不備のあるビザを出すことは、本省の訓令に背くことになり、杉原は悩んだ。

 「おそらく彼は、正義心が強く、真面目で、他人が困っているのを見ていられない人だったのだろう」

 杉原には3人の子どもがいて、「人間として『出すしかない』と思ったのでは」と重枝氏。それを後押ししたのが幸子夫人だった。

 当時のカウナスには、ほかの国の領事館もあったが、いずれもユダヤ人の受け入れを拒絶し、日本領事館の杉原だけが受け入れた。

 決心してからは迷うことなく、杉原はビザを書き続けたが、それが有効になるための様々な条件が重なっていて、重枝氏は、その背景について詳しく解説した。

 まず、ユダヤ人達がビザを受けた後の通過国であるソ連は、いくつもの理由によって自国に利するところがあったため、彼らの通過を了解した。

 日本はと言えば当時、三国同盟の下、国家として決断すべき緊迫した問題を、ほかにも多く抱えていた。

 さらに政策の一つとして「人種平等」が掲げられ、欧米のようにユダヤ人に対する偏見を持つことはなかった。日露戦争では、ユダヤ人の大富豪が日本の戦時国債を買い取っていた。ビザを発給したのは杉原だが、結果的に日本でも、それは国益になるとされ、実際に後々まで評価されることになった。

 杉原はカウナスを出発する直前までビザを書き続け、手がしびれ、ペンは折れてしまったという。発給したビザは2139枚、それを活用した人は6000人と言われ、助かった人の子孫は20-30万人にもなる。現在でも、リトアニアで杉原はたたえられ、また、イスラエルから「諸国民の中の正義の人」の称号を受けている。

 帰国してからの杉原は、幸子夫人の出身地である沼津に数カ月滞在。その後、東京に戻ったが、「外務省にはポストがない」と言われた。それは、ビザ大量発給への制裁とも言われているが、これについても重枝氏は様々な角度から考察。

 戦後、GHQ(連合国総司令部)の命令によって外務省の人員は大幅に整理されていた。杉原は外国に長くいたため、本省内に人員整理の対象を避けられるような強力な支援者がいなかったこと、当時はロシア語が不要だと言われたことがあったのではないか。

 また、杉原があまりに活躍しすぎたことが影響していることも考えられると言う。杉原は非常に優秀だったが、語学研修生として入省したノンキャリア。「ビザ発給は、要素の一つにはなったかもしれないが、そのせいで辞めることになったとは言えない」とし、むしろ杉原自身が気にしていたのではないかと言う。 重枝氏は「彼のような逸材を手放してしまったことは日本として損失でしたね」とした。

 そして最後に、「杉原さんが持っていた精神を今の日本に、どう生かすかではないか」とし、今後の日本の多文化共生について言及。

 日本に暮らす外国人が多くなった現在、「お互いに理解し合い、対等に、協調し合って暮らす。杉原さんの言っていた『人道博愛』の広義的な意味は、そうしたところに生かせるのでは」と提起して、話を締めくくった。

【沼朝令和21114日(土)号】



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