平作地蔵の祠に沼津垣
地元の有志2人が設置
沼津警察署にほど近い平町の一隅にひっそりと佇む、平作地蔵を収めた祠(ほこら)。吹きさらしの状態だったが、ここに竹で編んだ高さ約180㌢の「沼津垣」が設けられた。
いずれも地元に住む五小の同級生、世古真一さん(61)、牧野真一さん(60)によって設置されたもので、まちづくりの活動を共に行う人達の協力を得ながら自らの負担で設けた。
2人は今年3月、シルバー人材センター主催の沼津垣製作講習会に参加。その時の作品を寄贈する形で、沼津垣を説明する看板も同時に設置。「先人の知恵と風土から創られた垣根」と題して、歌川広重の浮世絵、東海道五十三次の沼津宿の中にも登場していることなどが記されている。
また2人は祠の横に、廃材を利用したベンチも設けた。世古さんは「ベンチに腰掛けて、歴史の流れを感じてほしい」と話す。
元々自治会が管理していたが、数年前からは2人を含めた有志が清掃を行うなどして管理を続けている。昨年秋には市のまちづくりファンドの補助を受け、平作地蔵紹介の看板も立てている。
世古さんは「旧東海道のため、県内外の歴史好きの人がよく通る。この場所で平作地蔵だけでなく沼津垣の情報も発信できれば」との思いを話す。
平作地蔵「曽我兄弟の仇討ち」「赤穂浪士討ち入り」と並び、日本三大仇討ちの一つとされている「鍵屋の辻の決闘」。弟の仇を討った渡辺数馬と助太刀した義兄の荒木又衛門の話だが、この仇討ちに大きな役割を果たしたのが「沼津の平作」。
歌舞伎で「伊賀越え道中双六・沼津の段」として演じられる。
以下の話は『ぬまづ昔ぱなし第一集』(ぬまづ社会科研究会著作、蘭契社書店刊)より。
旅人の荷物運びをして生計を立てている平作。ある日、若い旅人、十兵衛に無理を言う形で荷を背負うことになる。が、年老いた平作。途中で転び、足にけがをしてしまう。そこで十兵衛が、持っていた薬を差し出し、平作が傷口に塗ると、たちどころに治ってしまう。
そこへ、父親の帰りが遅いのを心配してやって来た平作の娘、お米。父親が迷惑をかけたお詫びにと十兵衛に一夜の宿を申し出る。そして、その晩、平作が語る身の上話に十兵衛は、平作が20年前に分かれた自分の父親、お米が妹であることが分かる。
さらに驚いたことに、お米の許婚(いいなずけ)の数馬が仇と狙うのは、自分の主人の又五郎だった。
その夜、十兵衛の枕元で音がする。十兵衛は声をかけ、逃げる黒い影を捕まえると、お米だった。訳を尋ねると、数馬がけがをして苦しんでいるという、そこで、父親のけがを即座に治した薬が欲しかったと。それなら仕方ないと、十兵衛は、お米を許す。
さて、自分は主人を追いかけ、討手から逃がしてやろうとしている旅の途中。一方で生き別れていた父親や妹への思い。どうしたものかと思い悩む十兵衛。
翌朝、十兵衛は平作、お米が寝ている間に出立。2人には金30両と、お米が欲しがっていた薬、そして、ことの次第をしたためた手紙を残していく。
さて、目覚めた平作。急いで十兵衛を追いかけ、追いつくと又五郎の居所を尋ねる。しかし、十兵衛にしてみれば教える訳にはいかない。すると平作、十兵衛の腰のものを抜くと自分の腹に突き刺す。その様子を、平作の後を追ってきたお米が草かげから見ていた。
それに気付いた十兵衛。お米がいることを知りながら、「最後の親孝行、死んでいく人のために」ど、平作に向かって又五郎の行き先を伝える。
そのおかげで数馬は仇を討つことができた。
自分の命と引き換えに仇の居所を聞き出した平作の思いが後の人々の心を打ち、いつの頃か、平作、お米父娘の家だと言われている所にお地蔵さんが建立された。「平作地蔵」と呼ばれ、その後、「延命子育て地蔵」とか「もろこし地蔵」とかと呼ばれて親しまれ、敬われるようになったと言う。
【沼朝2022年(令和4年)7月26日(火曜日)】
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