本宿
「源平盛衰記」
沖津―国崎―湯居―蒲原―田子の浦―富士河―浮島原―千本松原―多胡宿―原中宿―車返―黄瀬川宿―伊豆国府―三島杜
本宿は黄瀬川驛の本宿なり(昔は黄瀬川が今より西を流れており、黄瀬川驛も本宿とおなじ黄瀬川の東であった)
足柄路は平安以前の正規の東海道であったが 延暦二十一年(八〇二)五月十九日の条に富士山が噴火したため、 足柄路を廃して筥荷(箱根)路を開いたという ことがみえており、 箱根路も平安初期に開かれていたようである。
鎌倉時代以後になると、 ふたたび箱根路が顕著となり、 むしろこの方が主道として利用されるようになった。
足柄路専用の古代においては、 伊豆国府への支線(のちの箱根路) との分岐点が今日の長泉町本宿辺、すなわち黄瀬川驛と考えられ、この地が重要な役割を果したが、中世になり箱根路の利用が盛んになる と南方の木瀬川宿が新たに勃興するにいたった。
『黄瀬川下流左岸に位置する、地名は黄瀬川の河道変更前、木瀬川宿の中心であったことに由来する。古墳時代の四通り遺跡、本宿古墳群がある。
(「角川日本地名大辞典静岡県」875頁 昭和57年10月8日発行 株式会社角川書店)』
歴史
1889年、村制の施行により、小泉荘(主要部は現在の裾野市)の一部と大岡荘(主要部はのちの大岡村から現在の沼津市大岡地区)の一部を一村として長泉村が発足した。長泉の名称は、大岡荘の長窪地区から長の字、小泉荘から泉の字をとって合成した合成地名である。
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