まちの記憶 匂坂信吾
「沼津まちなか歴史MAP」をご存じですか?市立図書館二階の郷土資料コーナーや各地区センター図書室にある沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)が二〇一九年に発行した『沼津兵学校記念誌』の資料編には、「同歴史MAP」(マップ=地図)と「解説」及び「まちづくりの提案」が掲載されていますので、ご参照下さい。
この地図は、江戸時代末に沼津藩が作製した精密な「沼津城絵図」の画像データを「沼津市基本図」の沼津駅南中心市街地のデータに重ね合わせて作製したもので、沼津城の大手門や本丸などの施設があった場所が正確に確認できます。これによって私たちは江戸時代の"まちの記憶"を共有できるようになりました。
歴史MAPを監修された元沼津市明治史料館学芸員で、現在は国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏は、大手町町内会が二〇一一年に発行した『大手町120年の歩み』の中で「沼津城は跡形もなく消滅し(中略)寂しい限りであるが、今さら市街地を他へ動かし、地中から堀や石垣を掘り返すわけにはいかない」と述べています。
本会は市街地を動かし堀や石垣を掘り返す代わりに、沼津城本丸跡の大手町「中央公園」の名称を本来あるべき形に戻すための活動に取り組んでいます。
八幡町の市保健セ`ンターがある場所は」以前は本光寺の敷地Lでしたが戦災で焼失し、寺は一九五〇年、千本の現在地に「移転しました。跡地{に市が「中央公園」という名前の広場を一造りますが、一年ぐ一らいで沼津市産業会館(公会堂)建設のため、廃止されました。
六八年、大手町の現在地を公園として整備することになった時、市は八幡町で使った広場名を踏襲して「中央公園」という名称に内定していたようです。
そこで故大野虎雄氏(『沼津市誌』編集委員長)が、公園の名称や整備の考え方に関する意見を「沼津朝日」紙上」に"城趾公園"として発表しましたが、当時の市は、これを受け入れることができませんでした。(意見は前述「まちづくりの提案」夢照)
市制百周年の今、五十五年前の反省を将来に向けて生かすことが重要です。
本会では来たる十月十五日(日)の午後一時半から市立図書館四階第一・二講座室で、樋口氏による「歴史と文化のまちづくり塾」を開催します。テーマは「幕末の沼津藩とその人物」です。皆様お誘い合わせの上、ご参加ください。
講座終了後、本会の長谷川徹副会長が五一年発行の商店街地図を画像解説した上で、当時の"中央志向ブーム"及び市が「中央公園」とした背景を探ります。
本会会員以外は資料代五百円が必要ですが、ご協力ください。
なお、わが家の記念品として大好評の会誌『沼津史談』第七十四号の市制百周年記念特集「思い出のふるさと沼津の町並み」復刻版は故川口和子さんが残した大切な"まちの記憶"です。残部僅少ですが、今なら上本通り柳屋内の本会「よろず相談所」及び北高島町の「マルサン書店駅北店」で入手が可能です。
(沼津史談会会長、小諏訪)
【沼朝令和5年10月4日(水)言いたいほうだい】
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