2024年6月25日火曜日

高尾山古墳を国の史跡に 文化審議会が文科大臣に指定を答申 (沼朝記事・静新記事)

 

高尾山古墳を国の史跡に


文化審議会が文科大臣に指定を答申

文化審議会は24日、史跡名勝天然記念物の指定等にかかわる答申を文部科学大臣に対して行い、新たに指定された中に高尾山古墳が入った。

高尾山古墳は、南北の全長が約62㍍の前方後方墳。前部も後部も方形で、よく知られた前方後円墳(前部が方形、後部が円形)と比べれば数が少なく、また、築造が西暦230年ごろ、埋葬が250年ごろと推定される東日本最古級の古墳とされ、希少価値は極めて高いとされている。

この古墳は都市計画道路整備で予定されたルートの延長上にあり、市当局、市議会は道路計画を優先する予算を通し、それによって古墳は取り壊されることになった。これに対して、市民団体だけでなく、全国組織の団体から保存の要請があり、国土交通省の意向もあって一転、保存が検討されることになった。

道路計画に対して2005年度と07年度に試掘調査、08年度と09年度に本調査が行われた。試掘の段階で、古墳時代前期の古い古墳である可能性が高まるとともに、幅の広い溝が確認され、前方後方墳ではないかとの遺構の出方をしていた。

当初は「辻畑古墳」と呼ばれた。現地の字名(あざめい)から付けられたものだが、実際には辻畑は、もう少し北側の地名であることが分かり改名。「高尾山古墳」が誕生した。

本調査の途中結果を受け、古墳の学術的評価が定まるまでの間、現状で保存することが決まり、発掘調査報告署の刊行や専門家を招いてのシンポジウム開催などがあり、10年度から13年度は調査を中断。



14年度に追加の試掘調査が行われたが、この調査は、古墳の年代決定の根拠を得ること、墳丘内に別の埋葬施設があるかどうかを確認することが目的だった。

本調査では開始間もなく、「恐ろしく古い古墳であろうと推測された」(発掘に携わった当時の市文化財センター学芸員の話)。当時、沼津には前期古墳はないとの見方がされていて、松長で出土していた前方後円墳の神明塚古墳がそうではないかとされていたものの、定説にはなっていないといった状況の中、高尾山古墳は「記録保存」を前提とした調査が進められることになった。

また、主体部の確認は地下レーダー探査を行うなど、当時運用が試行され始めていた新技術を使いながら慎重に進められることになった。

そして、途中で調査が中止になって古墳自体を保存するということになってもいいように、なるべく墳丘を傷付けないように配慮。試掘坑も最小限の数と位置に気を付けた。

前述の元学芸員は「調査の最中に著名な研究者が横に座り、ずっと見られてプレッシャーだった」と振り返っている。

しかし、こうした調査により今日の成果を得ることができ、希少な古墳として全国的にも知られる「沼津の宝」が残ることになった。

答申では高尾山古墳を「3世紀中頃に水陸要衝に築造された東日本最古級の大規模前方後方墳」で、「豊富な副葬品や外来系土器は広域に及ぶ他地域との交流を示している。古墳文化の東日本への広がりやヤマト政権成立期における政治的、社会的情勢を知る上で量要」だとしている。

【沼朝2024年(令和6)625(火曜日)




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