2024年9月12日木曜日

沼津の城 研究発表会 令和6年9月27日~29日 ギャラリーほさか・アートスペース

 









枚橋築城 

 天正五年の夏、勝頼は家臣の高坂源五郎に命じて、沼津に三枚橋城を築かせた。

天正六年八月、徳川勢はにわかに急進し、府中をこえて由比・蒲原にまで進出した。この時は深く敵地へ入ることをおそれて、付近の民家や田畑をあらしただけで引揚げたが、翌九月には勝頼軍が大井川をこえて東遠に報復してきた。この争いのうちに、後北条氏が長年の敵である上杉謙信死後の上杉民と和睦し、これに伴い、家康のあっせんで織田信長とも提携し、従来の武田勝頼との提携を破棄するという挙に出た。こうして孤立させられた勝頼は、急いで上杉景勝と和して後顧の憂をなくした上で、駿河の沼津に出兵した。時に天正七年(一五七九)九月十三日のことであった。

三枚橋城は先に述べたとおり、高坂源五郎の手によって築城された。これには異説もあるが、その当時の城としてどの程度の規模をもっていたのか明らかでない。ただこの時、勝頼の軍勢一万六千余がここに出動し、伊豆の三島にまで出陣してきた氏政軍と対陣した時、勝頼は城が完成していないので、土屋右衛門に命じて急ぎ工事を終らせた。

 その土屋は千本山成鳴寺(乗運寺)の僧大誉(増誉)に帰依していたので、築城の終ったあとの木材を大誉に与え、勝頼も十五貫の土地を寄進した。成鳴寺は千本松原を復興した増誉長円上人を開祖とした寺であるという説話がある。この両軍は、次に引用する「北条五代記」(巻の七の「駿河海にて船軍の事」)の記述のように、激戦を交えた。

見しは昔。北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内高国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭・長久保・戸倉・志師浜、此四ヶ城はするかの国中たりといへ共、先年今川義元時代、氏綱切て取しより以来、氏直領国となる。義元、駐玄時代此するか領を取返さんと遺恨やんことなしといへ共、ついに叶はず。扱又沼津の浦つゝき、香資・志下・真籠・志師浜.江浦.田飛.口野、此等の浦里もするか領、氏直持也。-志師浜には大石越後守在城。此の城の後にわしすと云高山あり。勝頼するかへ出陣の時は、わしつ山に物見の番所有りて人志かと住し、浮島か原を見わたせは、勝頼の陣場の様子目の下に取かことし。されはするか浦に氏直兵船かけをくへき湊なきゆへ、伊豆重須の湊に兵船ことごとくかけをく。沼津よりは二里へたたれぬ。梶原備前守子息兵部太夫かしらとし、清水越前守・富長左兵衛慰・山角治郎少尉・松下三郎左衛門慰・山本信濃守なと云船大将、此重須浦に居住す。氏直伊豆の国にをいて、軍舟を十艘作り給ひぬ。是をあたけと名付たり。一方に艘二十五丁、両方合五十丁立の兵船也。常にひとりきくる鉄砲にて、十五間前に板を立て、玉のぬけぬ程にむくの木板をりて、舟の左右艪舳先をかこひ、下に水手五十人、上の矢倉に侍五十人有りて、矢さまより弓鉄砲はなつ様に作りたり。舳さぎに大鉄炮を仕付をきたり。然に天正八年の巻勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三島にはたを立たゝかひ有。重須の兵船、駿河海へ働をなすへき由、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮島か原、諸勢は沼津千本の絵原より古原迄、寸地のすきまたく真砂の上、海きはまて陣取。然に十艘の舟にかけをきたる大鉄炮をはなしかくる。敵こらへす皆ことごとく退敗し、へいへいたる真砂地白妙に見えたり。扱又敵の諸勢浜へ来て砂をほり、上共中に有て鉄炮を数百挺かけをき、舟を待所に十艘の舟汀をつたひごき行。陸と舟との鋲炮いくさ、雨のことく舟にあたるといへ共、兼ての川意板垣とをる事なし。敵船は消水のみなとにかけをくといへ共、小韻ゆへ終に出あはす。日暮ぬれば伊豆へ帰海す。然所に勝頼下知として、三月十五日の夜いまた明さるに、敵船三艘蔽須のみなとへ来て鉄炮をはなつ。すは敵船こそ来りたれと、舟を出す。敵船は艪二十丁立にて小船なり。此舟をおひ行所に、沼津川へも入すして.勝頼の陣場浮島か原下へこき行所に、又沼津川より舟二艘出し合五艘に成ぬ。浜辺に付てこき行を十艘の舟をひかくる。此五艘の舟沖へこき出ては又浮島か原下へこき帰る。勝頼は船いくさ見物として浜へおり下り、旗馬志るし見えたり。諸勢浜へ打出、塩水の中腰たけに入て弓鉄炮をはなつ。十艘の船あつまりて評定していはく。敵船清水沼津へもにけゆかす。叉勝頼の旗本、浮島か原の前海に来る事、勝頼下知として舟いくさ見物と志られたり。すへて味方の舩二艘は沢辺の前後に有りて、八艘の船は沖より敵船を取まはしうつとらんと、智略をみくらすといへとも、小船にてはやけれ、をひつぎかたく、広き海中に算を見たしをひめくる。勝頼五艘の船共にくるを見て、はらわたをたつ。其節持出たるはた馬志るし・甲冑、ことくく其仕場居にて焼すて、木陣に帰り絵ひぬ。臼も慕ぬれは、十艘の舟伊豆へ帰海す。

この海戦のあと千本付近に激戦があり、多数の死傷者が出て、その結果後世干本松原に首塚ができた。そのころ徳川家康の軍が背後に迫り、用宗・府中・由比・倉沢の武田方諸城を攻めて放火したことが、沼津の武田陣に伝わり、武田軍の将士の士気は急速に弱まり主力は甲府へ退いた。沼津の三枚橋城には氏政の軍がたびたび押寄せた。天正八年(一五八〇)九月の戦いには、高坂源五郎の足軽大将小幡山城守が奮戦したことを聞き、勝頼は感状と太刀を与えて激賞している(甲陽軍鑑)。翌九年十二月、戸倉城の城主笠原新六郎が主君北条を裏切って三枚橋城の高坂源五郎に降服した。この二城は狩野川をはさんで、わずかな距雌のところにあったから、小せり合いは常に絶えなかった。北条氏直が新六郎をあざけったことを遺恨に思っていたのを、源五郎が巧みに誘ったというのであるが、一説には攻略して降参させたのだともいわれている。天正十年に入り、武田の属域となった戸倉城と、その向城として北条方がつくった大平城との問に、小規模な戦闘があいかわらず就いた。ところがこの年正月、織田信長は勝頼討伐を決意し、家康に出動の命令を下した。家康はこれに応じ、同年二月府中に入り、さらに江尻城にいた武田の臣穴山梅雪に降服をすすめた。勝頼の将来に危惧を感じていた穴山は、自己の主城である甲斐下山城に帰ることを条件として江尻を放棄した。この結果が他の武田方に波及し、持舟城の朝比奈は久能城に逃げ、久能城の今福呂和も降伏した。田中城の守将も戦わないで城を棄てる有様で、その中心ともいうべき府中城の守将までが三月二日に域を放棄してからは、蒲原城・興津城・三枚橋城も同様となった。三枚橋城の高坂源五郎は、甲州の実状はどうかと守兵をつれて帰国したところ、勝頼や長坂釣閑斎に疑われて甲州からも追われたという。こうして徳川家康は松平康親を派遣して沼津の三枚橋城を守らせた。時に天正十年三月七日であった。三月十一日に武田勝頼は徳川勢のために天目山に破れて自刀し、武田氏はついに滅亡したが、これによって駿河一帯は徳川家康の支配下に属したのである。この年六月二日に、織田信長は本能寺の変で明智光秀のために落命した。

(「沼津市誌上巻 391394頁 」昭和36330日発行)

 

 沼津城祉(三枚橋城址)大手町

 沼津城は古く三枚橋城と呼ばれ、一説には北条早雲が今川氏のために築いたといわれているが、「甲陽軍鑑」「北条五代記」「真田三代記」などによると、沼津に武田勝頼が築城したとしるされている。これは北条氏に対する鎮域として築かれたものらしい。

武田の部将高坂源五郎昌宣が城主として守衛の役につき、武田氏滅亡後は徳川氏の所有になり、家康は松平康親をして守備させ、その子康重が継いだが、豊臣秀吉は小田原征伐ののち、その家臣中村一氏に駿河を守らせ、一氏は弟一栄を当域に配置した。徳川の天下となり慶長六年、大久保治右衛門忠佐が城主となり、同十八年(一六一三)忠佐の死後世継がなかったため、沼津城は廃城となり、百六十余年問空白となった。

安永六年(一七七七)に至り水野忠友が三河より移封され、沼津城を修築して城主となった。明治に至り徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は上総の菊間に移り、城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、その廃校の結果、明治五年に城は県で競売に付し解体され、同二十二年(一八八九)東海道線開通に伴い南北に縦貫道路が設けられた。その後沼津は二回の大火に遭遇し、城の堀は埋められ、さらに昭和二十年の空襲により、その面影を何一つ見ることができぬまでに変貌してしまった。

(「沼津市誌下巻 551頁」昭和331115日発行)

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