沼津城の大型パネル展示
あすまで中央公園、想像図描く
沼津工高同窓会や沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の会員らでつくる「『沼津に城があったころ』再現実行委員会」は26日、沼津城の本丸や二重櫓(やぐら)があった同市の中央公園に、城の想像図を描いた手作りの大型パネルを展示した。
パネルは縦横約5㍍で、実物の約半分の大きさ。沼津城の櫓(やぐら)や堀、垣根まで再現し、精彩に描かれている。
同校体育祭で生徒が展示する「アーチ」と呼ばれる大型パネルの製作法を応用。初日は市外からも見物人が訪れ、見上げるほどの大きな作品を写真に収めていた。
制作に携わった同窓会の中谷春二さんは「大きな作品なので、絵のバランスが難しかった」と話した。実行委の渡辺美和会長(69)は「作品をきっかけに、沼津の歴史を学ぶきっかけになれば」と述べた。
展示は28日午後3時まで。
(東部総局・小西龍也)
【静新令和4年8月27日(土)朝刊】
中央公園に沼津城が出現
2分のーの二重櫓パネルで再現
沼津史談会と沼工同窓会で構成する「沼津に城があったころ」再現実行委員会(渡邉美和代表)は、旧沼津城の二重櫓(やぐら)を史料に基づいて再現した約5㍍四方の平面パ一ネルを26日、大手町の中央公園に仮設。あす28日午後3時まで展示し、沼津城についての解説が行われている。
沼津城は戦国時代末期に武田氏によって築かれた古城(三枚橋城)、江戸時代後半の1777(安永6)年以後の新城(沼津城)が現在の大手町地区にあったが、明治時代になって廃城になり、取り壊されて本丸跡の同公園に「本丸跡の碑」や石垣の遺構がわずかに残るのみ。
「多くの市民が、この場所に城があったことを知らない。郷土の歴史を知ってほしい」と願い、今回の展示を企画。渡邉代表が所属する沼津史談会と沼工同窓生有志で実行委員会を組織し、今年度の沼津市民間支援まちづくりファンドに採択され、沼工同窓生が平面パネルに描いた。
今回描かれた二重櫓は1832(天保3)年に完成。1847(弘化4)年に火災に遭ったと見られ、その7年後には安政大地震で損壊。補修が行われた記録も残されている。
史料を基に、沼工同窓生の中谷春二さんが中心となって描いたが、「画面が大きいので、バランスを取るのが難しかった。構造がはっきりと分からない部分は想像で描き、石垣の質感を出すのに苦労した」と振り返っている。
二重櫓は中央公園東側に位置する場所にあり、あまねガード辺りにも「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる二重櫓があったという。再現に当たっては安全対策のために杭やアンカーを打ち込む必要があったため、当時見られた風景とは逆の位置、公園西側の芝生広場に置いた。
平面パネルは実際の大きさの2分の1の縮尺で、沼工生が約70年前から工業教育の一環として体育祭で建設する「アーチ」と呼ばれる足場組み仮建設のノウハウを生かし、26日午前、2時間をかけて設置した。
出現した巨大パネルを来園者は足を止めて眺め、日中は渡邉代表ら沼津史談会メンバーが常駐し、沼津城に関する資料や「まちなか歴史MAP」を配って解説。資料では次のようなことを説明している。
戦国時代末期、武田氏により三枚橋城が築かれ、徳川時代に入って三河譜代の家臣、大久保忠佐(ただすけ)が初めての沼津三枚橋城主となり、兄の大久保忠世(ただよ)は小田原城主として兄弟で活躍。忠佐が亡くなると跡継ぎがないため沼津城は廃城となり、150年程、城がない時代が続いた。
江戸時代後半に水野家が藩主となってからは城下町の時代が再び始まったが、平和な時代のため建物は簡素で平凡。幕末には相次ぐ震災等により施設を維持・管理するのも大変だったと見られている。
明治維新後、徳川家が静岡に移ることになり、沼津藩は上総国菊間に移封。沼津城は幕臣だった江原素六翁などが設立責任者となり、城岡神社南西側にあった広大な二の丸御殿を校舎とする徳川家の沼津兵学校として活用された。
オランダ帰りの元開成(学問)所教授の西周が頭取を務めた「沼津兵学校」は当時の最高学府と言える高度な教育を行い、日本の近代化を進める重要な原動力となったが、1872(明治5)年に廃止。沼津兵学校附属陸軍医局は存続し、その後、沼津市立病院に歴史が引き継がれた。
鑑賞に訪れた市内に住む80歳の男性は「沼津城があったことは知っていたが、歴史にあまり興味がないので、どこにあったかは知らなかった。解説を聴いて知ることができ、良かった」と話していた。
渡邉代表は「延べ約50人の協力で平面パネルの設置が完了した。今回、どれくらいの人に見に来てもらえるか分からないが、評価が高ければ来年以降も継続したい。現在の新仲見世商店街テレビのイマイ付近に、かつてあった高さ約10㍍の大手門もパネルで復元したい」と話している。
【沼朝令和4年8月27日(土)号】
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