どうでした?わが町 高地英壽
立冬を迎えて間もないころ、埼玉から友人が訪ねて来た。
この町の素顔に触れて、どんな印象をもつだろう。それを楽しみにお薦め日帰りコースをあれこれ考えた。
その日の待ち合わせは午前十一時、沼津駅南口改札にした。急いで駅の構内に入ると、日焼けした懐かしい顔が近づいてきた。
「やあ、しばらく。元気そうだね」
笑顔で声を掛け合い、久しぶりの再会を喜んだ。
青空に初冬の陽光が降り注ぐ駅前広場に出ると、友人は目を細め開口一番、声をあげた。
「沼津はあったかくて、明るいなあ…」
〈そうだろう…〉
私は心で眩やき、気分をよくして街を案内することにした。
近況を語り合いながら日ごろの散策コースを辿り、市立図書館前に出た。
「これが、ふだん居場所にしている図書館だよ」
すると、友人はまた、驚きの声を上げた。
「へえ!立派な図書館だねえ。こんな図書館、滅多に見かけないそ…」
「文化都市」のお墨付きをもらい、旧東海道の川廓通りヘー
狩野川に隣接したこの通りは三百㍍ほどある。江戸時代、城下町、宿場町だった沼津の中心として栄えた。
十数年前、沼津市が歴史と個性のある街づくりを考え、自然石を敷いた石畳の街道を復元した。城下町の面影もさりながら、通り沿いにあるイタリアンレストランの旗が妙に石畳と調和して、明るい西欧の街角の趣を感じる。
川廓通りからなだらかな石段を上がり中央公園に出た。
すっかり色づいた大きなケヤキの木の根元に、「沼津城本丸跡」と刻まれた石碑が建っている。
歴史家の樋口雄彦さんによると、ここには戦国から江戸初期まで武田、大久保氏が支配する三枚橋城があり、江戸後期に五万石の沼津藩城主、水野氏の居城となった。
明治維新の後は静岡藩・徳川家の領地となり、水野氏が千葉・市原へ移ったあと、城の建物は沼津兵学校になった。二の丸御殿は教室に、中央公園になっている本丸には、全国から集まる生徒の寄宿寮が建てられた。
明治四年(一八七一)、兵学校が廃止され、区画整理や二度の大火で建物は焼失した。城と兵学校に思いを抱く市民はいまも少なくないが、城下町、宿場町の痕跡はすっかり失われ、沼津が輝いていた時代を偲ぶことはできない。
「どうして復元しなかったのだろう?」
立ち尽くして首を傾げる友人を、狩野川の「あゆみ橋」に案内した。
二十年前に誕生した、歩行者と自転車専用のおしゃれな斜張橋だ。富士山、天城山、沼津アルプス、水辺の街の風景を眺め二百三十㍍の橋を渡った。
日本列島には河川が多く、利水や自然環境に果たす役割は大きい。とりわけ、沼津の中心街を流れる狩野川は、市民の生活環境や文化に深く結びつき親水性の高い川だ。お陰で、私も日々の暮らしに潤いを感じている。
御成橋を渡り上土町に出ると、友人は、うらやましそうな顔をした。
「道路が広いなあ、気分のいい通りだね」本町を抜け、千本浜の松林を散策した。さまざまな石碑をめぐり、巨大地震の津波対策で造成された、高い防潮堤を歩いたあと、鮨屋に入った。
通された部屋の南側の窓には青空と、凪いだ駿河湾の海、それに伊豆半島が混然一体となり、願ってもない、「これが沼津だよ」という風景である。
店の演出が凝っている。人生の垢にまみれた年かさの客人がテーブルを挟み向かい合って鮨をつまんでもサマになるまい。
互いに横に並び、まずは風景を眺めながら言葉少なに鮨ランチをどうぞ、という心遣いだ。
遠くに貨物船や漁船が往来し、目の前の防潮堤をサイクリングの若者たちが走ってゆく。豊饒の海を眺めながら味わう新鮮な握りの旨さに、懐旧談は心地よく弾んだ。
若山牧水の記念館に入ると、友人は時間をかけて念入りに鑑賞し、とりわけ牧水と千本松原に興味を持ったようだ。
沼津港に出て、水門「びゅうお」の展望吾から、富士山を背にした沼津の街と、それを取り巻く雄大な自然を一望した。
「同じ松原でも、三保とは全然違うね。広い、自然の松原がこの町に果たしている役割は大きいだろうな」
友人の希望通り、「沼津港深海水族館」に寄った。駿河湾の深海で採れた色鮮やかな珍しい海老や蟹、貝、鮫、蛸などを、じっくり観察した。
ツアーのフィナーレは「沼津御用邸記念公園」である。
午後四時半の閉館が迫っていたので、急ぎ西附属邸に入る。
さまざまな展示品から大正、昭和、平成の天皇、それにご家族が残された足跡を辿り、皇室と沼津の歴史を偲んだ。
初めて訪れた友人は沼津と御用邸のかかわりに改めて感じるところがあったのだろう。
「御用邸は沼津にとって、偉大な歴史遺産だね。将来も心を支える市民の誇りであり続けるだろう」
沼津の街めぐりツアーで友人が感受し、発した言葉を耳にしながら、私はこの町の本質を再確認したような思いがした。
温暖な気候と、心を潤す自然環境、それに近代の豊かな歴史と多様な文化に彩られた沼津は、人びとの感性を育み、心安らぐ都市である。
戦後の高度経済成長に沸いて商業の中心都市のプライドに酔いしれた時代は確かにあった。その記憶を想い出のタンスに仕舞って、沼津の風土が培った普遍の価値や優位性をどう生かしてゆくか、新たな視座と、多くの人の交流を通して沼津の在り方を考えるときが来ている、と思う。
御用邸を出ると、町はもう暮れなずんでいた。
友人はスマホを覗き、「一万八千歩も歩いたぞ」と、満足そうに笑った。駅前の居酒屋で反省会をして、ご機嫌の友人を見送った。
二日後、お礼のハガキが届いた。 「久しぶりにお目にかかり、幸せな一日でした。温暖な土地で心豊かに暮らしておられるご様子を拝見し、うらやましく思いました」(高沢町)
【沼朝令和1年12月11日(水)寄稿文
0 件のコメント:
コメントを投稿