サクラエビ明治期の売買証明
舟運で甲州へ色も珍重
明治時代に山梨県笛吹市で商店を営んだ民家から、当時、駿河湾産サクラエビを販売したことを記した「勘定書」が残っていたことが、関係者への取材で分かった。同県立博物館が所蔵し、書式などから明治20年代までに作成されたとみられる。静岡県で1895(明治28)年に漁が始まってから、瞬く間に県外に普及していったことがうかがえる。
勘定書は市街地の一角で薬や雑貨を扱う「薬種問屋」を営んでいた飯田家で見つかった。料金後払いの客のために作った購入録とされ、11月7日の項目には「酒六合(12銭)、カヅノ子(3銭7厘、櫻海老(3銭)」などを売ったと明記。貨幣の種類や書式、使用している紙の種類などから同博物館は「作成時期は遅くとも明治20年代」と分析する。勘定書によると、サクラエビは酒1合より高値だった。一方でカズノコよりも安価だったことから、海産物として人気だったとみられる。この時売ったのは廉価だった素干しのサクラエビと推測される。
小畑茂雄学芸員(44)は「海産物へのニーズは静岡県の人が想像する以上。サクラエビは目新しく、色もめでたさを想起する。好まれた可能性は高い」と語る。
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海に面していない山梨県の人々にとって「駿州の魚」は一大ブランドとして定着していたようだ。駿河湾で取れたサクラエビは日持ちするよう素干しに加工され、富士市を発着点とした富士川舟運(全長71キロ)などで届けられていたとみられる。毎年、砂糖に匹敵する量の海産物が持ち込まれていた。元船頭への聞き取りの記録には「サクラエビは水揚げしてすぐ同市の岩淵河岸から舟に積み、船頭の賃金をぐんとはずんで2日で運ばせた」とあり、生の状態でも運んでいた。山梨県で鮮魚は特に珍重され、市場では仲買人が買いあさる様子が「虎のけんかのよう」と例えられた。
舟運と陸路の要衝として栄えた富士川町の鰍沢河岸跡では2005年にマグロの全身の骨が見つかり、沼津市からとみられるイルカや深海魚など2㍍級の大型魚を陸路で運んだことも分かっている。一方、丸ごと食べてしまう小さなサクラエビは骨が残らず、追跡は難しい。飯田家の一枚の勘定書は流通の証拠として存在感を放つ。
1903年に中央線が甲府駅まで開通し、28年には富士身延鉄道が富土市と甲府市を結んだ。鉄道にとつて代わられた舟運は約300年の幕を閉じた。山梨県教委は「県歴史の道調査報告書 富士川水運」(91年)で、この変遷を「南に向いていた甲州の顔は、東に向くようになった」言い表している。(「サクラエビ異変」取材班)
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1894(明治27)年のある夜、偶然大量に網にかかった。翌年から由比、蒲原で漁が本格化して、100年を待たずに静岡を代表する特産に。今や全国区で、海の宝石と称される駿河湾産サクラエビ。「ルビー」はいかに人々をとりこにし、広がっていったか。航跡を探る。
【静新令和元年(2019年)12月30日一面】
桜を想起愛称が公称に
「さくらえび」「桜海老」「櫻蝦」。ー独特な薄紅色や、めでたさを想起させる「言い得て妙」なこの名。これがなかったら、全国に魅力が認知されるのはもっと遅かったかもしれない。いつ、誰が、命名したのか。
「あなたのひいおじいちゃんが付けた」。静岡市清水区由比今宿のサクラエビ加工業「望仙」店主の望月由喜男さん(72)は、母みつえさん=故人=に聞いて育った。1887(明治20)年に創業した曽租父仙吉さんが甲府に行商に出向いた折、「えびっかー(えびっかす)」と叫びながら歩くと、地元の人に「こんなきれいなエビをその呼び方ではかわいそうだ」と言われた。「じゃあサクラエビと呼ぼう」と思い付いたのが最初という。
由喜男さんが逸話を聞かされたのは約60年前。漁を控えた夕方になると、屈強な漁師たちが街中にあふれた時代だった。「皆が狙う宝物の名前を自分のひいおじいさんが付けたのだと思うと、誇らしかった」。由喜男さんは回想する。
大正初期に静岡県が刊行した「県之産業」には「干したエビの色がすこぶる美しく、桜花を想像させる」として97(明治30)年に「甲府の共進会で命名された」とあり、仙吉さん命名説と符合する。ただ、従前からサクラエビはわずかに取れ、由比と蒲原ではその名で呼ばれていたようだ。
かねてから甲信地万に積極的に商品を売り込み、現地の需要を熟知していた仙吉さん。漁の本格化を機に「特別なエビ」と位置付け、商機を見いだした可能性もある。由喜男さんは「ひいおじいさんは、局地的な愛称を甲府で公称にした、という方が正しいのかも」とみる。
命名の3年前の12月、仙吉さんと同じ由比今宿の漁師望月平七さんと渡辺忠兵衛さんがアジ漁に出た際、当時の3年分の水揚げ畳に匹敵するサクラエビの群れを当てた。2人は浮きを忘れたとされ、普段より深く沈んだ網が、日没後、プランクトンを狙つて海底から海面へと浮上してきた大集団を偶然包んだ。仙吉さんは孫だったみつえさんに「あまりに大量で扱いに困った」と明かしたという。
95(明治28)年に由比、翌年に蒲原でサクラエビ漁が本格化。「2時間で100日分の収入」とされ、陸路や富士市の岩淵河岸に発着する帆掛け船に大量に積み込み、富士川舟運で2日で山梨県に届けられた。
偶然の発見から125年。未曽有の不漁という逆風にさらされる今、その名が「後世にずっと残されること」を由喜男さんは願ってやまない。
(「サクラエビ異変」取材班)
【静新令和元年(2019年)12月31日(火曜日)】
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