2022年4月17日日曜日

両総戦争で重傷負った江原翁  助けた名主の子孫らが来沼 【沼朝令和4年4月17日(日)号】

 

 両総戦争で重傷負った江原翁

 助けた名主の子孫らが来沼


 千葉県船橋市山野町で郷土史を研究する「かつしか歴史と民話の会」の会員らが先月29日、沼津を訪れ、江原素六生誕180周年・没後100周年記念事業への寄付などを行った。

 時代が明治に変わる直前、両総戦争(市川・船橋戦争)に参加し重傷を負った幕臣の江原翁は地元住民達の世話を受け、名主の石井金左工門ほか3軒が1カ月間、江原翁をかくまった。

 最近になり、山野町で郷土史を研究する人達によって、こうした事実が明らかにされてきた。同会の新川博さんは、山野の歩みを研究する中で江原翁とのかかわりを発見した。

 江原素六先生顕彰会の土屋新一会長とも交流を図るようになり、今回の来沼の運びとなった。

 新川さんを先導役に、金左工門の子孫で山野町内会副会長の石井秋弘さん、「かつしか歴史と民話の会」代表の佐藤百代さんが頼重秀一市長を表敬訪問。記念事業に対して山野町町内会からの寄付金を個人的な寄付金と合わせて土屋会長に贈呈した。

 石井さんは「うちが名主だったことも、江原素六をかくまったということも最近になって初めて知った」と言う。

 新川さんらが調べたところによれば、山野の人達は名主のもと、皆で合意。穴を掘って脱走兵らを隠すなどしてかくまった。当時、官軍に対抗していた勢力の脱走兵をかくまうのは極めて危険なことだったが、山野の人は「脱走様」と呼んで助けた。

 江原翁は銃弾を受けていて、ここで手当てを受けるなどして過ごした後に江戸に戻った。

 山野の人達は、こうした施しについて声を大にして言うことはなかったため、子孫にさえ、その事実が伝わってはいなかった。

 【1枚の文書から】こうしたことを新川さんが調べた際、講談師の田辺鶴遊(かくゆう)さんを介して、沼津の土屋会長と通じるようになり、土屋会長は手がかりを明治史料館に求めた。

 同史料館の学芸員は所蔵する膨大な史料の中から、ほどなく1枚の覚書を探し出した。13万点程ある所蔵史料の中に、江原翁関連のものだけでも8000点近くあると言い、その中から、たった1枚の文書を探し当てるのは容易なことではないはずだが、それが学芸員の学芸員たる所以か。

 この覚書は、江原翁の次男、次郎氏が書き付けたもので、「亡父が慶應四年両総戦争の時関係したる人々」として、「名主石井金左工門 藤田勘左工門 鶴岡伊右工門 三須次郎兵工」の名が連ねられ、「曽て父上船橋町佐渡屋旅館ニ右諸氏を呼ビ報恩ノ宴ヲ張レリ」とあり、これによって山野の人達とのかかわりが明らかになった。

 最初に江原翁をかくまったとされる藤田勘左工門の子孫に当たる人は今回の来沼はかなわなかったが、メッセージを寄せ、「江原素六が体を休めたのが偶然、わが家だった。1世紀半も前のことだが、祖先の善行を誇りに思う」と綴った。

 戦いの時代、死の崖縁も見た江原翁 強さと心根の優しさ兼ね備えた人物像が 【武人としての江原翁】 時代が江戸(慶応)から明治に変わると江原翁は沼津に移り住み、教育者や政治家として数々の功績を残したとは、よく知られているが、戊辰戦争では武人として大隊を率い、戦いに臨んだ。当時の名は「江原鋳三郎」。


 1859(安政6)年、17歳で幕臣となると、やがて頭角を現し出世。1868(慶応4)1月、鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍が敗走する混乱の中、冷静な判断で撤退。江戸に帰ると撤兵頭に昇進した。

 官軍に対する徹底抗戦を叫ぶ者が多い中で、江原翁自身は勝海舟の恭順論に賛成で、官軍の求める武装解除を受けるつもりだった。

 しかし4月、江戸開城の直前、江原翁の上官である撤兵隊長の福田八郎右衛門は、隊士2000人を率いて江戸を脱走し、木更津に陣を置くと「徳川義軍府」と称した。江原翁もやむを得ず部下の後を追い、脱走軍に身を投じることになった。

 徳川義軍府は本営を真里谷(まりやつ)に移すと、上総・下総で勢力の拡大を図り、第一、二、三の各大隊を市川、船橋、姉ヶ崎まで北上させ、江戸に迫ろうとした。

 江原翁は第一大隊の300人を指揮して、法華経寺(市川)に布陣し、ここが官軍との最前線となった。

 はじめは官軍との間で和平交渉が続けられたが決裂し、第一大隊が八幡駐屯の官軍を急襲すると、戦闘が開始された。この日の戦いは市川と船橋を中心に行われたので、両総戦争の中でも「市川・船橋戦争」と呼ぼれている。

 江原軍は、はじめのうち善戦し、江原翁も宮軍から奪った大砲を自ら操作するなど奮闘。しかし、やがて盛り返した官軍に圧倒されることになる。

 そんな最中、江原翁は市川の海神(現在は船橋市の地名)で、官軍の小室弥四郎と格闘。この時のことは古川宣誉(ふるかわ・のぶよし=幕臣、後に陸軍中将)が後に「脱走始末私記」に書いているが、まさに取っ組み合いとも言える格闘で、江原翁は丸腰で小室に突っ込んでいった。

 その時、古川が斬るように言ったにもかかわらず、江原翁は格闘し、ついには組み伏せられて喉元に脇差を突きつけられたが、すんでのところで助けられた。古川の剣により命を落としたのは小室の方だった。

 しかし、この直後、銃を持つ敵方が江原翁を撃ち、左腿に貫通する銃創を負わせた。大動脈を外れていたため一命は取り留めたものの、江原翁は動けなくなり、戦線を離脱せざるをえなかった。


 ここで江原翁を助けたのが山野の人達。賊軍をかくまうことは自らの身に危険が及ぶことでもあったはずが、名主である石井金左工門が率先。村民達も協力して江原翁をかくまった。

 その後、出版された『当世武勇伝』には、いかにも強靭そうな小室弥四郎が錦絵に描かれている=右の写真(明治史料館蔵)。この人物に格闘を挑んだ江原翁も強く勇ましい姿であったことは想像に難くない。

 江原翁は後年、小室の遺族があれば扶助したいと、その存否を尋ねたが、見つけることはできなかった。

 さらに、山野で世話を受けた人達に対しては、「報恩の宴」を設けて恩返ししていたことが覚書から明らかになった。

 【内面の強さをあらわした素六像】江原素六生誕180周年・没後100周年記念事業の一環として、沼津駅北口に江原翁の銅像が建立され、515日に披露される。

 制作者である彫刻家の堤直美氏は、その人物の内面を映し出すような彫像でなければならないと考えている。江原翁については「あらゆる本を手に入れて徹底的に調べた」と言い、昨年、銅像の原型が披露された際には力強さが滲み出るような姿がうかがえた。

 沼津では教育者、政治家、産業人、キリスト教者として人々のために尽くした。晩年の江原翁を思えば、穏やかで優しい印象が浮かぶという人は多いだろう。

 江原素六先生顕彰会の土屋会長は「動乱の時代に戦いを生き抜く強さがなければ、その後の実績もなかっただろう」と話す。

 貧しかった子ども時代から、強い向学心を持って自分の道を切り開き、幕臣となってからは下級武士から大隊長にまで上り詰めた。「意志が強い人であったことは間違いない」と土屋会長は言う。

 さらに、「山野の人に助けられたのも江原先生の人柄に人をひきつけるものがあったからではないか」と見ている。

 死に直面する体験もあったからこそ、後年には滅私と言えるほど人のため尽くすことができたのかもしれない。さまざまな社会事業にも関与し、女性、子ども、労働者、外国人、病人など社会的弱者のために活動した。

 強さと心根の優しさを兼ね備えた人物像が浮かび上がる。

【沼朝令和4417日(日)号】

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