2023年2月11日土曜日

「旧三津坂隧道掃除奉仕活動報告第14号」

 


旧三津坂隧道:

静岡県沼津市内浦三津にある廃トンネル。現存する伊豆最古のトンネルである。地図は過去動画、例えば旧三津坂隧道特別清掃隊活動の記録5の冒頭部分を参照されたい。↓

https://youtu.be/RLHcWCNqL7c

1892年(明治25年)旧三津坂隧道起工

1896年(明治29年)旧三津坂隧道竣工

 

古来、三津坂峠は伊豆の山の物産を海路に、駿河湾の海産物を伊豆半島の東海岸(網代・宇佐美など)を経由して遠く江戸に運ぶための重要な地点であった。明治開化後、天城隧道に先立つこと8年、伊豆長岡と三津を結ぶ道路として、ここに洋式の石巻トンネルが掘られた。この地方における開化期の歴史的建造物といえる。井上靖の小説「しろばんば」にも登場する。

工事の請負人は小海の日吉宗七、石匠は三津の瀬川弥右衛門。

 

坑道の全長172.8m、断面寸法は幅約3.6m、高さ約3.3mの馬蹄形である。

隧道の東口、西口とも一定区間は凝灰岩で巻かれている。巻石部分は東側(長瀬側)の方が長く約37メートル、西側(三津側)は約9メートルである。残りの区間はコンクリート巻と素掘りである。コンクリート部分は後代の施工と思われる。なお、素掘りの部分は西側にあり、数か所の崩落がある。いつ崩落したかは不明。

使用された石材は東口近隣の戸沢村産の凝灰岩と考えるのが自然である。 本隧道は銘板がなく、正式な呼称は不明。三津坂隧道または長瀬隧道などと呼んだものと思われる。なぜ銘板がないのかは謎。

 

1961年(昭和36年)、本隧道の北側に隣接して現在の三津坂隧道が開通し、以降、本隧道は事実上廃道となった。その後ごみの違法投棄の場と化した。坑内には崩落もあり危険なため、現在通行禁止になっている。切り通しは土砂の堆積、草木の繁茂などにより、踏み入ることさえためらわれる。ただし東側は清掃活動により、かなり改善している。

文化財級の構造物であるが、文化財、土木遺産等には何も指定されていない。かろうじて、ぬまづの宝100選に選定されている。

もと静岡県の県道であったが、沼津市に譲渡する協議の段階で合意に至らず、現在、管理は宙ぶらりんの状態である。

 

特別清掃隊:

旧三津坂隧道の保存・整備のために奉仕活動を行う目的で枯野剛が勝手につけた名称。2019114日から活動している。NPO法人奥駿河燦燦会の活動の一環として位置付けている。一定数のメンバーがいるわけではない。常時活動しているのは枯野剛のみである。現在、東口において、主に切り通しの清掃活動を行っている。清掃活動と言っても単にごみ拾いという意味ではなく、土石撤去、樹木の伐採、植樹なども行っている。

 

グライ土:

グライとは、土が長期間滞水されて酸素不足状態になり、土中の鉄酸化物が還元された土壌をいう。青灰色または緑灰色を呈する。具体的には土中の三酸化二鉄(Fe2O3)が酸素1個を失って(還元されて)、酸化鉄(FeO)になる化学反応による。

グライ土を掘り出して放置すると、やがて普通の褐色の土の色に戻る。

グライの英語表記はglei,gleyなどと書かれる。発音は[glei]

グライ土は gleigleisoilgleysoil)と、グライ土化はgleizationと表記する。なぜか日本ではグライと発音する。語源はロシア語でclay(粘土)の意味。

旧三津坂隧道は、ただでさえ水気の多い場所であるが、さらに加えて切り通しの側溝が土砂で埋まったことにより、長期間排水が不良であったことによりグライ土化したものと考えられる。

 

ベニバナボロギク:

キク科ベニバナボロギク属。アフリカ原産。焼け跡、伐採の跡に突然現れ、数年で姿を消すという。先駆植物と言っていいかもしれない。右の斜面に生えていた。アオキの伐採や草刈りなどをしたため現れたものではないかと考えている。台湾では食用にするそうで、シュンギクのような味がするという。


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