マニフェストは金科玉条か 今井久夫
統一性のない行動理念
鳩山内閣は生まれたばかりの政権だ。しかしそのスタートダッシュは目を見張らせるものがある。湯気の立っている各閣僚が、やたらと新政策や提言を試みている。大将格の鳩山首相までが国連に出かけてCO2ガス25%減を宣告した。存在感の薄かった日本の首相の意外な発言にむしろ各国代表の方が度肝を抜かれた感じだ。
内政の方でも、予算の執行停止、組み替え、次官会議の廃止、天下りの禁止など、全部やり直しだ。ゼロからの再出発を辞さない。この勢いには国民の方もいささか圧倒されそうだ。とにかく中途半端ではない。野党として鬱積(うつせき)していた数々の思いが一挙に噴き出した形だ。
やはりこれは政権交代のメリットとしかいいようがない。自民党政権では絶対に穴もあけられなかった壁がいまや音をたてて崩壊しようとしている。日本の歴史の一ページを飾る壮観というに足りる。
しかし、そのやり方を見ると、短兵急に過ぎるところがある。各人がわれこそ手柄をひとり占めにせんと、勝手に名乗りを上げて敵陣に斬(き)り込んでいる。横の連絡もなければ、組織としての統一性もない。功名争い、初陣争いそのままだ。
トップに立つ鳩山首相が一種の高揚感から地に足がつかない状態なのだから他は推して知るべしだ。
行動理念もさまざまだ。動機についても、哲学に関しても説明がない。あるのは「マニフェストに書いてあるから」の一点張りだ。マニフェストはたしかに政権構想の柱に違いない。しかしこれを不磨の大典扱いし、金科玉条と信ずるのは大間違いだ。マニフェストは民主党の大衆迎合の選挙対策用文書にすぎない面を見逃すわけにはいかない。人智を集めて議論を重ねた跡もなく、展望も掘り下げも深みに欠ける。ただ現世御利益論に終始しているきらいを免れない。
いわば杜撰(ずさん)な選挙文書にすべて準拠して、それで済ましてしまうという姿勢は政権政党らしくない。鳩山内閣としての主義主張を改めて国民に説明し、理解を求める必要がある。
たとえばダム工事の中止だ。政権が変わり、マニフェストに書いてあるからといって、白紙還元を強行するのは民主国家とは縁遠い。独裁国といわれても仕方がない。地元住民が再考を願っても「マニフェスト」をタテに、横を向く。独立国の公約は、政権が変わっても約束は約束として不動のはずだ。それがつまり独立国の政策の継続性に外ならない。一政権の約束は国の約束だ。守らなければならない。
国民目線の施策が本旨
こんな問答を繰り返していると、地元住民を敵にまわすことになる。国民の目線で政策を考えるのがマニフェストの本旨だった。敵にまわしては元も子もない。鳩山政権はマニフェストを一方的に利用するばかりではなく、目下のすべての不合理、不都合を自民党と官僚のせいにして揮(はばか)らない。自民党政策の見直しも、官僚の征伐も、この一念から発している。しかし、自民党時代には民主党も随分政府提出案件に賛成している。官僚にもいろいろ世話のかけ通しだった。しかしひとたび政権を取ると掌(てのひら)を返すごとく辛く当たっている。どうも日本の風習になじまない。
この分では益々(ますます)自民党の政権奪回の復讐心(ふくしゆうしん)を刺激し、官僚の面従腹背のいやらしさを助長するばかりだ。昔、大正デモクラシー華やかなりしころ、政友、民政の二大政党が政権交代していたが、政権が変わると内閣が一変するばかりか全国の知事が変わり、警察の署長から小学校の校長のクビまでが飛んだ。議会では外交問題を政争の具に供し、汚職暴きのドロ合戦がくりひろげられた。これでは折角の政党政治も二大政党対立も自滅していくより外はなかった。
マニフェストを金科玉条と奉り、わるいことを全部自民党と官僚の責任にしていると、大正デモクラシーの二の舞いになる。民主党は助走を暴走化させてはならない。(政治評論家)
〈静新平成21年10月2日(金)「論壇」〉
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