橋を渡れば 仙石規
十二月八日、診療を終えた自分は、電車で沼津駅に向かい、あゆみ橋を渡って帰宅しました。ある目的を果たすための交通手段でした。
あゆみ橋を南に渡ると、行く手にクリスマス・イルミネーションが煌めいて迎えてくれました。沼津イルミネーション実行委員会の方々が企画されたもので、寒さが身に染みる師走の夕、心がほっと癒されました。
橋を渡ると、市場八幡神社が待っていますが、西側のループ階段を下りてみましょう。この辺り一帯が、「香貫公園」と呼ばれる一角です。あゆみ橋ができる前、この階段下には、市立図書館の前身「駿河図書館」や池などもあったのです。
下りた南に、大きな石碑がひっそりと残っています。これは明治三十八年に建立された「港橋創架碑」という歴史遺産です。明治九年、狩野川初の橋として架けられた、御成橋前身の「港橋」を、旧沼津町民と楊原村民らが私財をかけて造った由来が漢文で書かれています。
この碑は、もともと御成橋左岸南側の土手にありました。私が所有する大正時代の絵葉書の一枚には、若山牧水が沼津に移住した時に宿泊した「大橋屋旅館」の前に、この碑が映されています。昭和初期の狩野川改修工事の際、香貫公園に移されたのです。
私の足は、公園から御成橋へと向かいました。上流側の通横町方面から四番目の橋柱には、昭和二十年四月十一日の米軍機による沼津市街地への空襲で飛来した建物の破片で出来た傷跡が残っていて、七年前に市教育委員会が、いわれのプレートを設置してくださいました。
この日に九十五歳の患者さんが、診療後に言われたのです。
「自分は、太平洋戦争に少年兵として出征し、中国で敗戦を迎えました。戦争は決して許される行為ではありません。先生、また沼津の昔を書いてください。戦争を覚えている市民がいなくなる前に」
自分は頷き、この約束を果たすために橋の傷を触りに来たのです。偶然にも、「真珠湾攻撃」で、日本が無謀な戦争に踏み込んでいった日でした。
この患者さんと同年代であった亡き父は、橋の傷痕のことを幼い私に語ってくれたものでした。散歩で手をつないで橋を渡ると、行く手には賑わっていた沼津南商店街の灯りが待ち受けていました。
戦争の痕跡として市内に唯一残るこの傷痕は、沼津の戦争遺産です。
湯豆腐や いのちのはての うすあかり 万太郎
(医師・郷土史家、市場町)
【沼朝令和3年12月21日(火)「言いたいほうだい」】
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