「地方選挙に思う天下り、官僚制、世襲の構造」長谷川徳之輔
最近の世の中の政治問題は、相も変わらず官僚の天下り、官僚利権の批判追求であるが、それに新人議員の世襲が新たに加わったようである。天下りも世襲も、突き詰めれば利権の確保、維持の仕組みである。それが選挙で現れる。故郷の静岡県知事選挙も、各政治主体、政党からの候補者の選出も進まず、もたもたする田舎選挙ぶりで、県民もしらけている様子がうかがえる。その本質は、従来型の民主主義が通用しなくなっていること、天下り、世襲、ドンの後継者選びという旧体制が崩壊していることにも原因があろう。
これまで地方政治の首長にはずっと官僚の選出が通用してきた。旧自治省や中央省庁に入った官僚たちには、出世の一つが国会議員になること、二つが地方政治の首長になること、それがだめなら配下の利権団体の長になることにあったことは、否定できないし、世の中もそう認めてきたのだ。1000年以上続いた中国の科挙による支配者の選出は、王朝が変わっても官僚体制を維持し、政治の安定を図る仕組みであったし、明治近代化以来のわが国も仕組みも、その根底は同じ、公正で利権がなく、頭がいいと思われている賢者の官僚が政治を差配することが一番だと思われてきた結果なのである。地方政治には今なおその意識が強い。46都道府県知事には、官僚出身者が圧倒的に多いい。故郷の静岡県、人口380万人の大県も、長年自治省出身の石川知事が仕切ってきた。今回もその後継者選びに従来の官僚制が維持されるのかどうか、注目されている。このところ、従来の官僚制による地方自治が崩壊して、ポピュリズム濃厚なタレント候補になる傾向が強まり、宮崎県、大阪府、千葉県などでは官僚制知事は崩れて、情報過多、無責任な市民意識からテレビタレントが市民の支持を受けて登場する勢いが強まっている。静岡県においてもそれが通用するかどうかである。
静岡県の知事、石川知事は3期続いた自治省の出身の典型的な官僚、県政への長年の努力で静岡県の地方政治のドンの存在になっているように見える。財政力、メディア力、官僚体制力を屈指して、安定した地方自治、政治体制を作ってきた。潤沢な財政力から人目を呼ぶ箱モノづくりを進めてきてそれなりの評価を得たように見えた。典型が静岡空港であったが、財政悪化、箱モノ反対の時勢の変化は、結果的にその仕組みを破壊してしまった。その延長なのか、県知事選びも従来の体制が通用しがたくなっているように見える。本来なら、元副知事で、官僚出身の参議院議員のS氏が与野党相乗りで、すんなり押されて、後継者になるのが常識であるのだろが、どうもそうはいかないらしい。
県政は中央集権で、どの都道府県でも、県政には中央官庁の官僚が出向して知事を支え、中央とのパイプ役をすることが当たり前、その仕組みは市町村政治まで及んでいる。静岡高校、浜松北、沼津東などの高校閥がはびこり、その県出身の各省庁のエリート官僚がそのコースを当然のごとく受け入れて、県庁の幹部を務めていく、その官僚たちの中から地方政治の首長が選ばれ、後継者が選出される。ドンはその運営役なのだ。地方議員たちにも、都合がいい。官僚出身者は小心ゆえ、身がきれい、談合や利権に手を染めない、それは地方議員たちの権限なのだ。利権を分配するのは地方議員たちの権利だし、仕事と思われている。その関係がずっと続いてきたのだ。私事だが私は1959年の建設省入省の役人だったが、その頃は、癒着を恐れてか、若手官僚を出身県には出向させないのが慣行であった。私は静岡県には全く関係はなかった、しかし、いつの間にか、出身県へ出向させることがあたり前になってしまった。高校の後輩たちが相次いで静岡県の幹部を務めてきた。それが県庁、市役所に強い官僚基盤を作ってしまったといえよう。官僚利権の形成であり、維持のシステムである。それは県政から市町村政治にも及んでいる。
右肩上がり、財政が豊かで、どう政治が進んでも市民に利益がある時代にはそれが通用してきた。官僚たちが一緒になって中央から利権を引き出し、ふくらませ、それが県や市の利益につながれば誰も文句を言うことはなかった。官僚出身者が首長になることは、地方政治にとって利益があり、公正な政治がおこなわれると市民にも歓迎され、利権を確保できると地方議会にも認められてきた。しかし時代は変わった。右肩上がりの経済、財政は失われ、野放図な財政運営は不可能になり、公正無私だと思われた官僚の神話は地に落ちた。官僚に変わり、マスメディアの影響で顔の売れたタレントが地方政治に乗り出してきた。これまでの政治体制、民主主義の仕組みが通用しなくなったのかもしれない。ドンの支配力が消えているのである。
地方議会の仕組みも、従来型の利権構造がなお幅を利かせている。政党や政治信条に関係なく、議員のポストそのものが利権の対象になっているようだ。宗教団体の役員や労働組合の幹部が仲間内の選挙で選ばれて地方議員になる。天下りと同じ構造である。地方議会での、立候補者は定数ぎりぎりに絞り、極力競争を無くしてポストを維持しようとする。与野党の区別なく、議員に政治信条は乏しく、少数の支持者の利益、利権が優先する。議会活動は低調で、議会ごっこの形骸化した姿ばかりが目立つ。それに加えて、今回は世襲の制限が論議されている。確かに、4代、5代と議員を続ける名門家族もあるし、家業としての議員活動もあるが、多くは議員周辺の利権集団の利益を確保する、組織を維持するだけの仕組みになっていることは否定できまい。憲法違反だとか職業選択の自由の侵害とかの反論もあるが、肝心なのはグループの利害、利権の確保、維持を世襲という形式でやっていいかどうかということではないのか。近く、衆議院議員の選挙がおこなわれるし、静岡県知事選挙ももうすぐである。わが国も民主主義がどうなっているのかを知るいい機会である。
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