2011年4月30日土曜日

投票率最低の沼津市議選

投票率「最低」の沼津市議選
 議会の職責"見える化"を
 24日に投開票された沼津市議選の投票率は45・49%で過去最低になった、首長選や議員選挙が行われた14市町の中でも最低で、統一地方選前半戦に実施された県議
選でのワースト2位からの汚名返上どころかさらに悪い結果になった。定数削減により議員1人あたりが負託を受ける市民の数は6千人から7300人に膨らんだ。個々が向き合うべき民意の数が、少なくとも2割増えたとも言える。議会基本条例などで行政監視や政策立案など議会が果たすべき機能を明確にし、仕事ぶりが市民に伝わる仕組みを作るべきだ。
 「定数32」の想定で候補者の多くが事務所開きを終えた3月中旬、議員定数が28に変更された。当確ラインが上がり、落選者も増える。激戦になり投票率も上がるだろうーと予想した。しかし、ふたを開けてみれば投票率は県内で唯一50%を割り込み、東京都の区長選や区議選並みだった。西浦や戸田など南部が高く、人口が集中する中心部以北の新興住宅地を中心に低調だった。
 「自粛ムードの影響」ということだけなのだろうか。現職市議の有志は今回、特定の時間帯で選挙カーでの放送を控えるなど活動を一部自粛した。名前を叫び続けるような手法が有権者の判断材料として適切とは思えず、取り組みは歓迎できる。むしろ気になるのは、その程度の自粛で投票率が過去最低になるほどの日ごろの関心の低さだ。
 市議会を取材して2年になるが、委員会では、委員の質問や当局の回答を別の委員が遮って明確な結論が得られないまま終了することもあった。傍聴した市民が「まだ議論が途中じゃないか」とこぼす姿もたびたび目にしたし、同感だった。たとえ一部であっても、この状況が続けば議会不信は加速するばかりだ。
 県内最大級の津波が予想される地域だけに防災対策の再検証も求められるし、県の有識者会議が夏ごろ結論を出す鉄道高架をはじめ、キラメッセぬまづの後継施設が沼津駅北にオープンするなど、駅周辺の整備事業も今期、重大な局面を迎える。
 当選した28人には、市民の関心を高める論戦と、輪が広がるような市民参画型の政治活動に期待している。結果として、次の市議選で一人でも多くの市民の審判を受けることを願う。(東部総局・大須賀伸江)
(静新平成23年4月30日「湧水」)

2011年4月29日金曜日

市議選を振り返る:沼朝記事

 市議選を振り返る…上
 今後の四年間を託す新しい市議会議員二十八人(別掲写真。左へ得票順)が決まった。現職二十二人、元職二人、新人十二人の合わせて三十六人が立候補して争われた今回選では、現職三人が涙をのみ、新人五人が及ばなかった。元職二人は、いずれも高位で当選した。この選挙を幾つかの視点から振り返ってみる。(文中、一部を除き敬称略)
 定数削減今回選は定数が二十八に減員された中で行われた。昨年六月の市議会定例会では、三十四だった定数を二減員し三十二とすることが決まったが、これを不服として削減を求める自治会連合会執行部と、これに同調する市議の巻き返しによって、今年二月の定例会で、さらに四減員とすることになったもの。このため、三十二の予定で立候補の準備を進めていた、とりわけ有権者に名前が浸透していない新人は厳しい条件を突き付けられた。
 定数二十八を決めた市議会本会議は、滝口文昭氏が今年一月に死去したことに伴い三十三人によって開かれた。また、議長の山崎篤は直ちには採決に加わらない(賛否同数の場合は別)ので、議場で採決できるのは三十二人。この時、議員発議によって上程された「二十八案」(減員のための条例改正案)に対して、それまで反対の意思を見せていたのが十七人、賛成の立場にあったのが十五人。このまま、すんなりいくかと思われていた。
 しかし採決を前に、県議会議員選挙への出馬を表明していた曳田卓(その後、民主党公認で県議当選)が辞職。曳田は「定数二十八」には反対の立場だったので、「二十八案」反対が十六人、賛成が十五人となった。
 この曳田の辞職について事情を知る関係者は、有権者の意識を考慮して県議選でマイナス材料となるような混乱を避けたいという支援組織の意向があったようだ、という。
 それなら、みんなの党公認で県議選出馬を表明していた井口哲男にとっても事情は同じはずで、仮に井口が市議を辞職して採決が行われた場合、井口も、それまで「二十八案」反対派の一員だったので、賛否が十五の同数となり、「二十八案」賛成の議長の一票によって、条例改正案は採択されていた。
 が、井口は辞職しなかった。採決に加わり、しかも起立採決で「二十八案」賛成に回った。「ルビコン川を渡った」(※)のだ。
 これについて井口は、議員の削減を掲げている党の方針に沿ったもの、だと説明している。
 しかし、井口に対しても曳田と同様、採決に加わらなくてもいいような判断が求められていた、とする周囲の指摘もある。もしそうなら、なぜ、そうしなかったのか。 定数削減を主張する自治会連合会執行部の意に沿うことで県議選を有利に導こうとする判断があったのではないか、との見方もあるが、そうだとすると、県議選の結果からは淡い期待に終わったことになる。県議選では六、○○○票にも届かない得票で惨敗を喫した。
 井口の賛成は、「二十八案」賛成側の巻き返しによって直前に決まったようで、賛成派の中でも採択されるまで知らなかったのか、驚きを隠せなかった議員もいた。
 この一人の決断が、市議選の当落に大きく影を落とす。
 今回選で次点の清水賢嗣は二年半前の市議補欠選挙に立候補し、三十七票という僅差で落選。今回、雪辱を期して臨んだが、最下位当選の深瀬勝(一、七一〇票)に六十二票と、ここでも僅かな差で及ばなかった。
 清水が出馬表明した当時、市議定数は三十二。得票一、六四八票で二十九位の清水には定数二十八が大きな壁として立ちはだかった。定数削減は有為な新人に活躍の場を与えなかったことになるのか。
 さらに皮肉な結果をもたらしたのが持田紀与美。みんなの党公認で出馬し、下馬評にも高いものがあったが、一、五一二票で三十一位。同じ党の井口が投じた一票が当選を阻むことに。ただ下馬評の高さから、井口には「持田は大丈夫」だという判断があったようだ。
 ※ルビコン川は古代ローマで、ローマ世界と外界との境界の川。大きな川ではないが、軍隊を率いてローマ側に渡ることは元老院に謀反を起こすことを意味していた。ガリア地方(主として現在のフランス)に出征していたカエサル(ジュリアス・シーザー)が軍隊を連れて渡った故事から、既成の概念を打ち破るような重大な決断をする時に使われる。
 自治会定数削減とからんで特徴付けられたのが自治会の動き。自治会連合会執行部が市議会議員定数削減という目的を成し遂げたことから、これを受け、削減に反対した議員に対する風当たりが強まる地域もあった。
 愛鷹地区では、削減に賛成した渡部一二実と反対の立場の江本浩二が、共に二期目を目指した。前回選で、清水町に住んでいた富士通社員の渡部は出馬に備えて富士通大岡ハイツに住所を移して立候補。一、八八五票を獲得し立候補者四十七人中の二十五位で当選した。
 今回選では東原に居を構え、地元の支援を受けることになり優勢が伝えられた。中には渡部を推す回覧を回した地域もあった。
 一方、東椎路に住み根っからの愛鷹育ちで、消防団など地元の活動にも取り組んできた江本。前回は二、七六三票で三位当選を果たしたが、今回選は、こうした地元の動きに危機感を募らせた。
 結果は、江本が前回から四六八票減らしたものの二、二九五票を得て十五位。地元が推した渡部は、二、一一二票で前回から二二七票上積みしたが、江本に一八三票及ばず、愛鷹地区での勝負は江本に軍配が上がった。
 大岡地区でも二期目を目指した高橋達也と山下富美子。削減賛成の高橋と、反対の山下という受け止め方の中、山下は告示を前に後援会活動から不利を強いられた。
 この二人は大岡でも、下石田の高橋、日吉の山下と、大岡南部が主地盤。高橋は前回選に初めて立候補したが、一、二七五票で落選。二年半前の補選で再度挑戦し、当選を果たした。
 今回選で、高橋は二、七八五票と前回の本選を倍以上上回る得票で七位当選したが、女性を中心に支援の輪を広げた山下も前回から六七七票伸ばし、二、七一一票で前回の二十位から八位へ順位を上げた。(以下、次号)
(沼朝平成23年4月27日号)



 市議選を振り返る…中
 幾つかの視点から市議選を振り返る二回目。厳しい状況が見込まれながらも前回から票を伸ばした現職や、震災をきっかけに、これまでにない苦戦が伝えられた現職など、さまざまな条件の中で各候補は支援を訴えた。(文中、一部を除き敬称略)
 地元の代表「地元の○○です」。選挙力ーから流れる声。市議会議員は市民の代表であって、決して地域の代表ではないはずだが、地元から議員が出ているのと、そうでないのとは違うものなのか。
 二期目に挑んだ多比の植松恭一は、市議定数「二十八案」には反対。自治会組織の支援を受ける立場にはなかった。ただ植松の場合は、議員削減に反対、二十八もだめ、というのではなく、段階的な削減を主張。前回選挙の定数三十四から六減員という急激な削減に対しての異議だった。静浦地区は、これまで小池政太郎、渡辺新作両氏、川口末吉氏らを県議会、市議会に送り出してきた。四年前の統一地方選では、県議二期目を目指して当選した植松明義氏がいて、市議会へは植松(恭)が初出馬、共産党の渡辺教二も出て当選した。
 渡辺は今回も出馬に向けて準備を進めていたが、定数二十八が決まったことから党の調整により断念。また、出馬に意欲を見せる新人の名前も挙がったものの実現には至らず、県議選では植松(明)氏が引退したため、今回の統一地方選では植松(恭)一人だけの立候補となった。
 このため、植松(恭)が当選できなければ、静浦地区は議員空白地域になってしまう。そうした意識が有権者に働いたことは否定できない。
 さらに、植松(恭)が兄とも、政治の世界における父親とも慕った滝口文昭氏(一月に死去)。日大の先輩、後輩でもあり、自民党公認で出馬する植松(恭)と、長年、自民党支部役員などとして活動した滝口氏との関係もあった。
 結局、植松(恭)は二、九一七票を獲得。一、八五四票で二十六位だった前回(定数三十四で立候補者四十七人)から一、〇六三票という大量の上積みをし、二期目を四位当選で果たした。
 戸田地区の水口淳は植松(恭)同様、自民党公認で、三期目への挑戦。前回選では一、五七〇票で三十三位と、薄氷を踏む思いでの当選。同地区では前回、二人が立候補したが、今回は水口一人。一見、有利なように思えるが、そうでもない事情があった。
 一つは、合併時の沼津派、田方派のあつれきが今なお残っているという指摘。もう一つは、沼津市合併後の市議会議員選挙では当然、旧沼津市の立候補者も戸田票の獲得に動くが、田上博氏が現職時代に浸透を図り、今回の引退に際しては自分の影響力を他地区の現職に引き継いだという話。
 ほかにも同地区に支援の輪を拡大しようという動きはあったから、限られた地域での票だけでは水口の当選は及ばない。しかし、ここでも、水口がいなくなれば戸田地区からの議員はゼロという状況で、戸田唯一の候補者という意識は有権者に働いたかもしれない。
 今回選で水口は、一、九七六票を獲得。前回から四〇六票伸ばし、二十一位での当選を果たした。
 大平地区には、やや複雑な事情があった。議長も務め七期目への挑戦となり、田上氏引退の後、当選すれば最古参となる鈴木秀郷。同地区からの出馬は名目上は一人だけだったが、市職員を辞して初出馬の原信也が現在は第一地区に住むものの出身は大平。当然、地元への影響は必至の上、共に連合系の候補者ということも鈴木にとっては憂慮の種となった。それでも三月十一日までは、教員出身で同じ連合系、二期目への挑戦で不利が伝えられた二村祥一に票を回そうか、などと余裕がなかったわけでもないが、三・一一で一変。福島原発事故が、東京電力出身(昨年退職)の鈴木にとっては原の出馬以上に危機感を募らせることになった。
 このため、地元の引き締めに躍起となったようだが、二、二四七票の得票は、前同から三二四票減り、順位は五位から十七位へ。厳しい環境が反映されたようだ。
 返り咲き今同選では二人の元職が返り咲きを果たした。一人は三、五四〇票でトップ当選を果たした加藤元章。もう一人は二、六三一票で九位の川口二男。
 加藤は三期目。二年半前、二期目の途中で市長選に出て落選した後、捨て犬の保護やセラピードッグ普及などの市民活動に携わり、フットワークの良さで各方面へ、きめ細かい浸透を図った。市長選も含めた過去三回の選挙を通じての知名度も手伝って、前回から一、三三一票上積みした。
 川口は五期を務め、四年前の統一地方選では県議への転身を図り、善戦したものの果たせず、二年半前の市長選の際、加藤の辞職を受けて同時に行われた市議補欠選挙に立候補したが、返り咲きはならなかった。
 原地区が主地盤の川口は、地元を固めるとともに、共産党ながら保守層からの信頼もあって、これまでも安定した得票を見せてきたが、今回も同様、危なげない闘いで通算六期目を果たした。(以下、次号)
(沼朝平成23年4月28日号)

 市議選を振り返る…下
 幾つかの視点から市議選を振り返る三回目。最終回の今回は、地域の争い、組織票の行方について取り上げた。(文中、一部を除き敬称略)
 地域の争い 愛鷹、大岡、片浜、第三、第五・開北、原など各地区で複数候補がしのぎをけずった。愛鷹と大岡については「自治会」の項で記述したが、ここでは候補者の相関的な面から見て第一と浮島地区を取り上げた。
 第一地区では二期目に挑んだ梅沢弘と、いずれも新人の原信也、持田紀与美、小林幸夫が争い、梅沢と原が当選した。
 梅沢は前回、鉄道高架反対を表明して立候補。この時、同地区からは、副議長(当時)の服部博義氏と、いずれも今期で引退した井口八千喜、和久田光一の両氏が出馬。和久田氏による地元票の取り込みもあったろうが、軸足は出身の東芝機械労組で、ほかの三人とは立ち位置を異にする点があった。
 この選挙で梅沢は三人の現職に挑戦する立場。がむしゃらに挑んだ結果、定数三十四に四十七人が立った中で一、六三〇票を獲得し、三十位での当選を果たしている。
 これに対して今回選は定数二十八となり前回並みの得票では及ばない。しかも今度は新人三人に挑まれる守勢の立場。地元だけでなく、他地区からの候補者も浸透を図り、とりわけ新人で開北地区を主地盤とする加藤明子が井口氏の後継などと言われ、梅沢は危機感を募らせる中、高校の同級生らが本人以上に熱を帯びて盛り立て、一、七三九票を獲得。前回から一〇九票上積みし、二十七位に滑り込んだ。一方、原は第一地区の住民活動参加や出身の大平地区での活動経験がある一方、市職員出身で労組票などを当て込み、二、二八七票で十六位当選を果たした。
 浮島地区では、三期目に挑戦の伊山昭と新人の清水賢嗣が立ったが、結果は共倒れ。清水については「定数削減」の項で記述したが、一、六四八一票を得たものの二年半前の市議補欠選挙に続いて次点に泣いた。
 伊山は一、五一〇票で三十二位。新人だけでなく定数削減に阻まれる現職の一人となった。伊山は前回選では二、○〇六票で二十二位。ここから四九六票減らすこととなったが、清水の出馬が響いたか。
 今回選における浮島地区二カ所の投票所(東井出集落センター、浮島地区センター。いずれも投票率は55%を超えた)の投票総数は二、三六一票。二人当選できるだけの票数はなく、今後、地元からの複数当選には、同地区以外への可能な限りの支援拡大が課題となっている。
 組織票労組を母体としたのが、初挑戦の深田昇(明電舎)、梶泰久(東芝機械)、渡部一二実(富士通)。このうち西間門に住む梶の場合は、同じ地元に三期目を目指した深瀬勝がいるため、地元への浸透には遠慮していたが、それでも影響は避けられなかったか、深瀬は前回の二、〇九六票から一、七一〇票へ三八六票減らし、順位も十七位から二十八位へ。定数削減派としては、辛うじてとどまる形となった。
 これに対して、梶は二、三六〇票、十二位、深田は、さらに上を行く二、九一四票、五位という高位当選を果たし、労組出身者の手堅さを見せた。渡部は地元愛鷹地区の大きな支援も受けた中で二、一一二票、十八位での当選だった。
 一方、政党と、その支援組織による闘いを進めるのが公明党と共産党。公明党は、これまでの四議席から一人候補者を減らして三人立候補という万全の態勢で臨んだ。同党は創価学会の支援を受けるものの、統一地方選前半の県議会議員選挙に、まず全力投球するため、市議選で表立った活動に入るのは、その後。それでも、組織をきっちり動かし、地域割による各候補者への票の割り振りも遺漏はない。
 もともと四人、あるいは五人でも当選させられるだけの堅い票があるが、今回選での同党の得票は、前回から一、八九九票減らして八、九八二票。背景には候補者の交代や、組織周辺の支持者の投票率の低下もあるだろうが、それでも三人の当選に問題はなく、初出馬の長田吉信が三、二五〇票で二位、六期目の城内務が二、九二七票で三位、初挑戦の片岡章一が二、八〇五票で六位と高位で当選した。
 これに対して共産党は、定数が二十八になったため、予定していた四人の立候補をやめ三人に絞り込んだが、三期目を目指した齊藤孝一が涙をのんだ。同党は、四人を立てた前回選で一人落選したが、四人で六、一九二票。今回も二五〇票減らしはしたものの、五、九四二票があり、票の割り振りが調整できれば三人当選も可能だったが、果たせなかった。
 三候補のうち、二、六〇〇票を超えた川口三男に対して、齊藤は一、五五三票。三十位で定数二十八の壁に阻まれた。(おわり)
(沼朝平成23年4月29日号)

2011年4月25日月曜日

戦いの軌跡

戦いの軌跡 野党会派が議席増
 定数28に対して36人が出馬した沼津市議選は現職が強みを発揮し、22人中19人が再選を果たした。労組や党組織の支援を受けた新人が軒並み上位に並んだのも目立った。前回選で台頭した鉄道高架見直しを主張する会派や共産党が議席を減らした一方、選挙前に野党に転落していた会派グループが新人を含めて議席を伸ばし、議会内の勢力図への影響は必至とみられる。
 市議選では過去最低の投票率の中、元職の加藤元章氏がトップで返り咲きを果たした。公明は3氏全員が6位以内に入り組織票の固さを見せた。自民票の受け皿になった植松恭一氏、補選の当選を経て危機感を持って臨んだ高橋達也氏も上位に入った。連合推薦の6氏も組織票を手堅くまとめた。水口淳氏は地元票をきっちりまとめ、戸田地区"代表"の座を死守した。新人では教員の渡辺博夫氏が勤務先の人脈や地元自治会の支援を受け、上位に食い込んだ。
 現職は激戦地の原地区で票を分け合った大場豊重氏を含む市西部地区の3人が落選した。みんなの党の公認候補で出馬した持田紀与美氏も及ばなかった。
(静新平成23年4月25日夕刊)

沼津市議選当選者


2011年4月21日木曜日

沼津市 定数6減、勢力図混とん

沼津市 定数6減、勢力図混とん
 28議席をめぐり、36人(現職22、新人12、元職2)がせめぎ合う。投票率の大幅アップは見込めず、党公認や組織の支援を受ける候補者は比較的有利か。ただ、告示直前に定数が現状より2減から6減に変更され、勢力図は混とんとしている。
 金岡・大岡・門池地域では高橋達也(43)=無現=が自治会やNPO活動で培った人脈を駆使して集票する。同じ大岡地区の山下富美子(57)=無現=は女性層の支持を拡大。頼重秀一(42)=無現=は地元票を掘り起こす。教員の渡辺博夫(67)=無新=は学校や自治会人脈をたどる戦術。山崎勝子(69)=共現=、労組支援の深田昇(39)=無新=は組織票をまとめる。
 愛鷹・片浜・今沢地域は、千野慎一郎(69)=無現=が同業者も含め幅広い支持獲得を目指す。江本浩二(50)=無現=は知名度を武器に行政課題を訴える。斉藤孝一(54)=共現=は党組織を引き締める。深瀬勝(66)=無現=は西間門を拠点に拡大を狙い、同所の梶泰久(40)=無新=は労組票を固める。
 原・浮島地域の原地区は今回も最大の激戦地。殿岡修(71)=無現=、大場豊重(70)=無現=の現職と通算6期目に挑戦する元職川口三男(66)=共元=は支持者層の一部重複が懸案。浅原和美(60)=無現=、城内務(55)=公現=のベテラン勢も後援会がフル稼働で組織票固めと票の掘り起こしにあたる。渡部一二実(52)=無現=は労組票に地元票の上乗せを狙う。浮島地区は伊山昭(70)=無現=がまとめる。前回補選で37票差で涙をのんだ清水賢嗣(54)=無新=は商工関係者に浸透する。
 市中心部の沼津駅北部は、伊藤正彦(67)=無現=と加藤明子(35)=無新=が北高島町で競合するため、出身校同窓会や所属企業など、別のルートで票を伸ばす。最年少の片岡章一(32)=公新=は組織を固める。中野ひとみ(62)=無新=は地道に回る。
 同駅南部は持田紀与美(43)=み新=が市中心部に浸透を図る。長田吉信(50)=公新=は支持者固めに躍起。原信也(54)=無新=は出身地と居住地の両方から浸透を図る。岩崎英亮(64)=無現=は再選に向けこまめに回る。返り朕きを狙う加藤元章(47)=無元=は活動で広げた輪をたどる。梅沢弘(64)=無現=は政策を訴える。小林幸夫(60)=無新=は浸透に懸命。
 下香貫・大平地区は二村祥一(68)=無現=が地元中心に必死の戦い。鈴木秀郷(60)=無現=は同地区出身の候補者がおり、支援労組が警戒を強める。尾藤正弘(44)=無新=は知名度向上に努める。
 三浦・戸田地域は植松恭一(41)=自現=、真野彰一(63)=無現=が地元を固め、水口淳(69)=自現=は戸田の"地区代表"の議席死守を訴える。
(静新平成23年4月21日朝刊)

2011年4月13日水曜日

沼津市県議選沼朝解説記事

杉山票前回を上回る
 県議選投票総数減の中で再びトップ
 明暗分けた市議転身組 どう見る民主の得票数
 次の四年間を任せる県議会議員が決まった。定数四の沼津市選挙区の当選者は、現職の三人に新人一人。予想した顔ぶれとなったが、候補者それぞれの得票数からは自民党の堅調さ、民主党の苦戦が見え隠れ。また、市議からの転身を図った二人で明暗が分かれた。(文中敬称略)
 七人が立候補した沼津市選挙区の各候補者の得票数は、得票順に杉山盛雄(自民党現)一八、二三八票、蓮池章平(公明党現)一五、二〇〇票、多家一彦(自民党現)一四、〇九九票、曳田卓(民主党新)一一、七一九票、加藤益久(無所属新)六、六一一票、井口哲男(みんなの党新)五、九七八票、板垣和子(共産党新)三、八一三票。
 上位三人は前回選と同じ順位。杉山、蓮池は四選を果たし、多家は六選と、押しも押されぬ県議会重鎮の位置を占めるに至った。これに市議から転身の曳田が加わることになったが、曳田は同じ民主党の植松明義の後を受けたもので、当選者四人の党派別構成に変動はなかった。
 当選者四人の前回の得票(曳田は植松の得票)を見ると、杉山一八、一三一票、蓮池一七、四七八票、多家一五、三九一票、植松(以後、曳田票として見る)一四、七四五票。杉山は前回より僅かだが票を増やし、蓮池、多家、曳田票は減った。
 有権者の絶対数が減り、投票率が下がった中で、杉山が票を増やしたことの意味は小さくない。
 有権者は前回選の一六九、八七五人から今回は一六八、九四三人へ九三二人減少。さらに投票率も49・04%から45・33%へ下がり、県議選における過去最低を更新。投票総数は八三、三〇六人から七六、五八六人へ六、七二〇人減少した。
 さらに、前回選の立候補者が六人、今回は七人だったことを考えると、単純に見て一人当たりの得票数が減ることが当然の中で、杉山は前回を一〇七票上回った。
 これに対して蓮池は二、二七八票、多家は一、二九二票、それぞれ減らし、曳田票は三、〇二六票下回った。ただ、蓮池、多家の減少は、前述の背景から考えて実質的には現状維持と見ることもでき、杉山の得票増と合わせてみると自民党の堅調ぶりをうかがわせた。
 曳田票の減少はどうか。曳田の立候補については、民主党が植松と二人を立てるのではないかとの見方もあって注目されていたが、出馬を表明したのは二月半ば。七人の中では最も遅く、四月一日の告示まで一カ月半という中でのスタートとなった。
 この短期日での勝負に加え、市議三期を務めて一定の知名度があるとは言うものの、植松と交代して県議選初挑戦という不利な状況にあったことは否めず、その意味では善戦だったと言えるか。
 ただ、当選に向けて、連合など支援組織の結束と総力挙げた活動が求められたはずの中で、連合系の市議とは太陽光発電パネルや市議定数の問題で市議会内での立場を異にするという事情もあり、連合系の市議選立候補予定者が自らの後援会活動を通じ、市議選での自身と県議選における曳田への支援訴えという、通常なら考えられるセットの活動に影を落としたことも否定できない。
 曳田票の減少が、こうした個人的なことによるものだけなのか、民主党にとっては、この間の参院補選や今回の統一地方選前半の知事選、政令市市長選、県議選などで全国的な退潮傾向が指摘されるだけに、国政選挙も含めた今後の行く手を探るうえで十分な検討、分析が必要になってくるかもしれない。
 一方、加藤、井口、板垣の得票数は、どうか。 七人の中で唯一無所属、組織もなく挑んだ加藤。素人集団の選対が手探り状態で臨んだが、四位当選者とも、ほぼダブルスコアの開きがあった。鉄道高架事業の是非を問うための住民投票条例制定を求めた住民監査請求活動の際に交通違反での検挙が報じられたことがボディーブローのように効いた、と見る向きもある。
 加藤の特色は、その鉄道高架事業反対を前面に出して訴えたこと。その点、井口も同事業の見直しを主張し、板垣も事業反対の立場。この三人を合わせた得票数は一六、○○○票を超え、鉄道高架事業の主張に限って見れば、県議一人を出せるだけの数だった。
 井口は自民党を離れ、みんなの党からの出馬を早々と表明したが、伸び悩んだ。国政で吹いた風が地方選挙では難しかったか。
 また、同様に市議から転身を図った曳田とは明暗を分けることになったが、市議定数削減問題で市議会での採決当日、曳田が県議選への出馬を理由に辞職したのに対して、井口は採決にとどまり、それまでの削減反対の立場から「党の方針に沿う」ことを理由に賛成に転じ、削減に大きな役割を演じた。
 直前での辞職も削減賛成派にとっては、反対派の数が減ることとなり歓迎すべきことだったが、それまでの姿勢を覆して削減賛成に回った姿が有権者には受け入れ難いものだったかもしれない。賛成に回ることで県議選での自身の票読みを有利にしようとしたのではないか、との見方もある。
 板垣は、東京電力福島原子力発電所の事故を捉え、原発問題に長年取り組んできた経験を挙げながら浜岡原発の停止など沼津にとっても関わりのあることなどを訴えたが、票に結び付かなかった。
 共産党は前回、市議五期を務めた川口三男を擁立して一一、三八八票を獲得するなど善戦したが、これは保守層からの票も見込める川口ならではの得票との見方もでき、今後、統一地方選後半の市議選を控え、定数が減った中、同党にとっては厳しい結果を突きつけられることになった。
(沼朝平成23年4月13日号)

2011年4月11日月曜日

沼津市県議選当選者


沼津市 県議選
 現職順当、井口哲男氏は及ばず
 投票率は45・33%
 県議選では過去最低に
 統一地方選挙前半の県議会議員選挙は十日投票が行われ、定数四を現職三人と新人四人の七人で争った沼津市選挙区では、現職の三人が順当に当選を決め、残る一つの議席は市議から転身の曳田卓氏がもぎ取った。投票率は、県議選で最低だった前回選を、さらに下回った。
 県議選沼津市選挙区の開票結果(10日午後10時56分確定)
 当 一八、二三八票 杉山盛雄52 自民現
 当 一五、二〇〇票 蓮池章平57 公明現
 当 一四、〇九九票 多家一彦63 自民現
 当 一一、七一九票 曳田卓57 民主新
 六、六一一票 加藤益久63 無所属新
 五、九七八票 井口哲男51 みんな新
 三、八二二票 板垣和子67 共産新
(沼朝平成23年4月11日号)

2011年4月1日金曜日

3.11大津波


「大津波爪痕生々しく」
 被災地を空撮で比較
 全壊を免れた高さ10㍍の防潮堤の陸側で粉々に砕けた岩手県宮古市田老地区の家々。宮城県南三陸町志津川も高台の小中学校といくつかの建物を残し完全に壊滅していた。
 仙台市で航空写真を撮影、販売する事務所を営む芳村忠男さん(64)は35年以上、東北地方を空撮してきた。震災前に芳村さんが撮った写真と同じ角度から岩手、宮城、福島3県の被災地17カ所を撮影して比較すると、太平洋沿岸の街々が大津波で破壊され、一変した様子が見て取れた。
 岩手県陸前高田市は景勝地の松林「高田松原」や街並みが跡形もなく消え、海岸線の地形すら変貌。集落の南北から津波が流れ込んだ福島県相馬市の尾浜地区では半数近い家が流されていた。
 震災後、調査のため被災地上空を飛んだ芳村さんは「小さな集落を含め、美しい三陸沿岸全部がやられていた。見たものが今も理解できない」と衝撃を受けていた。
 【3月28日撮影の岩手県宮古市田老地区(上・共同通信社ヘリから)と、2010年3月撮影の同地区(芳村忠男さん撮影)】
(静新平成23年4月1日朝刊)