2022年7月26日火曜日

「伊豆の踊子号」整備完了 1964年式ボンネットバス 東海自動車来月、記念ツァー

 

「伊豆の踊子号」整備完了

1964年式ボンネットバス

東海自動車来月、記念ツァー


 東海自動車(伊東市)は同社のシンボル的存在の1964年式ボンネットバス「伊豆の踊子号」の大規模リニューアル整備が完了したのに伴い、8月に記念運行ツアーを行う。25日、生まれ変わったバスを伊豆市の東海バス修善寺営業所で披露した。

東海自動車の創立105周年に合わせて2月から7月にかけ、旧車のリニューアルを多数手掛けている新明工業(愛知県豊田市)が整備した。内外装のほかブレーキ回りなどを手入れし、レトロな雰囲気を残しながら安全に運行を続けられるようにした。

 伊豆の踊子号は76年から天城路の観光路線バスとして活躍し、ボンネットバスブームの火付け、けん引役となった。近年は老朽化に伴い、利用機会が限られていた。

 東海自動車の金野祥治社長は式典で、「子どもから大人まで世代を超えて楽しんでもらえるような魅力的なバスの旅を提供していきたい」と述べた。

 第1弾のバスツアーは867の両日に各2回行う。伊豆市の修善寺駅を発着点に旧天城トンネルと浄蓮の滝を巡る。727日正午から予約受け付ける。8142128の各日にも第2弾のアーを行う。問い合わせは東海バストラベル〈電0557(38)6660〉へ。

(伊東支局・白柳一樹)

【静新令和4726日(火)朝刊】


 「スカンジナビア」後世に  豪華客船関連資料で回顧

 

 「スカンジナビア」後世に

 豪華客船関連資料で回顧

 


1970年に沼津市西浦木負の沖合に係留され、ホテルとして営業した豪華客船「スカンジナビア」(旧名ステラポラリス)を振り返るイベントが開業記念日の24日、係留地点近くの飲食店「海のステージ」で開かれた。世界的建架家の故黒川紀章さんが手掛けた併設のプールなどの設計図を展示した。

 沼津の元係留地催し スカンジナビアは営業終了後の2006年、えい航中に沈没した。近年は同市が舞台となったアニメ「ラブライブ!サンシャイン"」の楽曲プロモーションビデオにスカンジナビアを思わせる船が登場し、ファンにも知られている。

 展示は「スカンジナ`ビアを保存する会」元事務局長で同店のオーナー前島希久也さん(82)が「沼津の宝だった船を後世に語り継ぎたい」と企画した。

 店の一角に常設する当時の写真や模型などに加え、黒川さんが手掛けた付属施設の設計図を初展示した。船内レストランのメニューをイメージしたクラムチャウダーも提供した。設計図は当面、展示を続ける。

 当時、船内に花を納めていた生花店経営の師岡賢二さん(71)=伊豆の国市"は「制服姿の従業員が格好「良く、洗練された場所だった]と懐かしんだ。

 アニメがきっかけで店に通う相模原市の会社員西山浩平さん(35)は「地元の方から話を聞き、興味を持った。一度、本物を見たかった」と往時に思いをはせた。

(東部総局・尾藤旭)

【静新令和4726日(火)朝刊】

 


平作地蔵の祠に沼津垣  地元の有志2人が設置

 



 平作地蔵の祠に沼津垣

 地元の有志2人が設置

 沼津警察署にほど近い平町の一隅にひっそりと佇む、平作地蔵を収めた祠(ほこら)。吹きさらしの状態だったが、ここに竹で編んだ高さ約180㌢の「沼津垣」が設けられた。

 いずれも地元に住む五小の同級生、世古真一さん(61)、牧野真一さん(60)によって設置されたもので、まちづくりの活動を共に行う人達の協力を得ながら自らの負担で設けた。

 2人は今年3月、シルバー人材センター主催の沼津垣製作講習会に参加。その時の作品を寄贈する形で、沼津垣を説明する看板も同時に設置。「先人の知恵と風土から創られた垣根」と題して、歌川広重の浮世絵、東海道五十三次の沼津宿の中にも登場していることなどが記されている。

 また2人は祠の横に、廃材を利用したベンチも設けた。世古さんは「ベンチに腰掛けて、歴史の流れを感じてほしい」と話す。

 元々自治会が管理していたが、数年前からは2人を含めた有志が清掃を行うなどして管理を続けている。昨年秋には市のまちづくりファンドの補助を受け、平作地蔵紹介の看板も立てている。

 世古さんは「旧東海道のため、県内外の歴史好きの人がよく通る。この場所で平作地蔵だけでなく沼津垣の情報も発信できれば」との思いを話す。

 平作地蔵「曽我兄弟の仇討ち」「赤穂浪士討ち入り」と並び、日本三大仇討ちの一つとされている「鍵屋の辻の決闘」。弟の仇を討った渡辺数馬と助太刀した義兄の荒木又衛門の話だが、この仇討ちに大きな役割を果たしたのが「沼津の平作」。

 歌舞伎で「伊賀越え道中双六・沼津の段」として演じられる。

 以下の話は『ぬまづ昔ぱなし第一集』(ぬまづ社会科研究会著作、蘭契社書店刊)より。

 旅人の荷物運びをして生計を立てている平作。ある日、若い旅人、十兵衛に無理を言う形で荷を背負うことになる。が、年老いた平作。途中で転び、足にけがをしてしまう。そこで十兵衛が、持っていた薬を差し出し、平作が傷口に塗ると、たちどころに治ってしまう。

 そこへ、父親の帰りが遅いのを心配してやって来た平作の娘、お米。父親が迷惑をかけたお詫びにと十兵衛に一夜の宿を申し出る。そして、その晩、平作が語る身の上話に十兵衛は、平作が20年前に分かれた自分の父親、お米が妹であることが分かる。

 さらに驚いたことに、お米の許婚(いいなずけ)の数馬が仇と狙うのは、自分の主人の又五郎だった。

 その夜、十兵衛の枕元で音がする。十兵衛は声をかけ、逃げる黒い影を捕まえると、お米だった。訳を尋ねると、数馬がけがをして苦しんでいるという、そこで、父親のけがを即座に治した薬が欲しかったと。それなら仕方ないと、十兵衛は、お米を許す。

 さて、自分は主人を追いかけ、討手から逃がしてやろうとしている旅の途中。一方で生き別れていた父親や妹への思い。どうしたものかと思い悩む十兵衛。

 翌朝、十兵衛は平作、お米が寝ている間に出立。2人には金30両と、お米が欲しがっていた薬、そして、ことの次第をしたためた手紙を残していく。

 さて、目覚めた平作。急いで十兵衛を追いかけ、追いつくと又五郎の居所を尋ねる。しかし、十兵衛にしてみれば教える訳にはいかない。すると平作、十兵衛の腰のものを抜くと自分の腹に突き刺す。その様子を、平作の後を追ってきたお米が草かげから見ていた。

 それに気付いた十兵衛。お米がいることを知りながら、「最後の親孝行、死んでいく人のために」ど、平作に向かって又五郎の行き先を伝える。

 そのおかげで数馬は仇を討つことができた。

 自分の命と引き換えに仇の居所を聞き出した平作の思いが後の人々の心を打ち、いつの頃か、平作、お米父娘の家だと言われている所にお地蔵さんが建立された。「平作地蔵」と呼ばれ、その後、「延命子育て地蔵」とか「もろこし地蔵」とかと呼ばれて親しまれ、敬われるようになったと言う。

【沼朝2022(令和4)726(火曜日)


原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年7月26日(火)先負 」「虚心坦懐」旧暦6月28日

 


2022年7月22日金曜日

本宿

 


本宿

「源平盛衰記」

沖津―国崎―湯居―蒲原―田子の浦―富士河―浮島原―千本松原―多胡宿―原中宿―車返―黄瀬川宿―伊豆国府―三島杜

 

本宿は黄瀬川驛の本宿なり(昔は黄瀬川が今より西を流れており、黄瀬川驛も本宿とおなじ黄瀬川の東であった)

足柄路は平安以前の正規の東海道であったが  延暦二十一年(八〇二)五月十九日の条に富士山が噴火したため、 足柄路を廃して筥荷(箱根)路を開いたという ことがみえており、 箱根路も平安初期に開かれていたようである。

鎌倉時代以後になると、 ふたたび箱根路が顕著となり、 むしろこの方が主道として利用されるようになった。

足柄路専用の古代においては、 伊豆国府への支線(のちの箱根路) との分岐点が今日の長泉町本宿辺、すなわち黄瀬川驛と考えられこの地が重要な役割を果したが、中世になり箱根路の利用が盛んになる と南方の木瀬川宿が新たに勃興するにいたった。

 

『黄瀬川下流左岸に位置する、地名は黄瀬川の河道変更前、木瀬川宿の中心であったことに由来する。古墳時代の四通り遺跡、本宿古墳群がある。

(「角川日本地名大辞典静岡県」875頁 昭和57108日発行 株式会社角川書店)』

歴史

1889年、村制の施行により、小泉荘(主要部は現在の裾野市)の一部と大岡荘(主要部はのちの大岡村から現在の沼津市大岡地区)の一部を一村として長泉村が発足した。長泉の名称は、大岡荘の長窪地区から長の字、小泉荘から泉の字をとって合成した合成地名である。

沼津市新型コロナ関連21日 沼津副市長感染 市議 学校 市立病院

 

沼津市新型コロナ関連21

 沼津副市長感染

 沼津市は21日、吉沢勇一郎副市長が新型コロナウイルスに感染したと発表した。30日まで自宅療養する。 市によると、吉沢副市長は21日朝、自宅で発熱などの症状があったため、医療機関で抗原検査を受け、感染が分かった。執務室は消毒済みで、職員に濃厚接触者はいないという。療養期間中の公務は今後、調整する。

 沼津市議が感染沼津市議会事務局は、市議1人の感染を発表した。最終登庁日は14日で、濃厚接触者に該当する市議や職員はいないという。

沼津市教委は、小学校5校と中学校1校で、教職員計7人が感染したと発表した。いずれも学校関.係者に濃厚接触者はいない。

 沼津市立病院は医師ら3人沼津市立病院は、医師と放射線技師、看護職員の計3人が感染したと発表した。院内に濃厚接触者はおらず、業務は通常通り行う。

【静新令和4722日(金)朝刊】


沼津の文化振興へ 県東部有志NPO設立、方針確認

 

 沼津の文化振興へ


 県東部有志NPO設立、方針確認

 沼津市の文化・芸術の振興や人材育成に向け県東部の有志がこのほど、NPO法人「レザミ・デ・ザール」を立ち上げ、設立総会を同市で開いた。イベントや芸術家との連携など地域に根付いた活動を重ね、盛り上げていく。

 組織名はフランス語で「芸術の友」。同市の庄司美術館(モンミュゼ沼津)が指定管理者不在で4月から休館中のため、地域の文化・芸術に関する発信を担おうと、同市や三島、熱海、長泉の各市町の画家やデザイナーら18人が始動した。事務所は沼津市に置く。代表には松永純氏(同市)が内定した。

 同市のプラサヴエルデでこのほど開いた総会には、松永氏ら役員を中心に15人が集まった。「アートと地域をつなぐ活動をしたい」「地元の作家のステップアップを応援したい」など一人ずつ抱負を述べた。

 庄司美術館は地元に縁がある作家の企画展や市民の作品発表、コンサートの会場となるなど地域に密着した活動の拠点となっていた。

【静新令和4722日(金)朝刊】

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年7月22日(金)大安 熊谷うちわ祭」「難攻不落」旧暦6月24日

 


2022年7月15日金曜日

「私の体験した沼津空襲」 浜悠人

 



「私の体験した沼津空襲」 浜悠人

 ウクライナでの戦争を思うにつけ、私の戦時体験が思い出される。我が国は昭和十六年十二月八日の開戦以来、赫々(かくかく)たる戦果を上げていたが、徐々に敗け戦となり、昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムにアメリカ軍が進攻し島に急きょ飛行場を建設した。

 ここを飛び立った大型戦略爆撃機B29(超空の要塞)は全長30㍍、全幅43㍍、航続距離9000㌔、操縦室は冷暖房完備の気密室で防御も強靭な装甲板で覆われていた。高度800010000㍍の上空を時速640㌔で飛行し、爆弾倉には9トンの爆弾、焼夷弾を搭載し、毎晩、日本の各都市を襲った。対する日本の戦闘機は高々度での飛行性能に劣り、迎撃するのは困難であった。

 ところで、昭和十九年十一月五日昼、B29一機が高度10000㍍の上空を怪物が異様な煙を吐くがごとく白い飛行機雲を引いて去って行った。実は、これが本土の基地や軍需工場への初の偵察飛行であった。

 翌二十年に入り沼津はB29一機による爆撃を数度受けた。一月九日の大手町、上本通、四月十一日の通横町、吉田町、四月二十三日の下香貫技研、宮脇町。この時のことが「十七歳の少女、菊地ひで等七名空襲の犠牲となりてこの地に散華す」と記念碑に刻まれている。

 五月十七日の三枚橋、平町。この日、私達旧制沼中の二年生は空襲警報で下校、丁度私は三園橋を渡っていた。爆撃音で橋の上に伏せたら上流100㍍の所に水煙が立上っていた。

 七月十六日、この夜も毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く続き発令された。防空壕に退避していたらB29は沼津上空を過ぎ、平塚方面に向かったとラジオは報じた。これは陽動作戦であると後になって知った。

 警報も解除となり私は自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、「空襲、空襲」の叫び声、急いで飛び起き窓を開けると、南の香貫方面の空は照明弾で真昼のような明るさだった。家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め土をかぶせていくから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。

 香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下して、時折、ヒューという異様な音が混じり肝が冷やされた。

 私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げた。その頃、田圃(たんぼ)越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化しているのが見えた。この夜(状況は次のように発表されている。

 B29百三十機が駿河湾を北上、沼津を空襲。死者二百七十四人、焼失家屋九千三百四十一戸。 沼津は文字通り焼け野原と化した。この夜、須田病院の一家六人が犠牲となり、現在、聖隷病院傍らに戦災犠牲者記念碑が建っている。

 八月三日の昼日なか、焼け跡に立って東の箱根山に目をやるとエンジンを止めたグラマン艦載機が私の方に近付いていた。側の掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込むと、一瞬遅れてダダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを弾がかす}めた。

 その後、沼津駅の方向を見ると黒煙が 立ち上り、駅構内に[あったガソリンタンクが機銃掃射で爆発炎上した。この時の被害は死者三、重軽傷三。

 ところで、先頃、アメリカ公文書館が保存していたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラのカラー映像を見る機会を得た。当時、グラマン機の翼には戦果を記録するためガンカメラが取り付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。

 前述の八月三日、私を襲ったグラマン機と並行して線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填(そうてん)の他の一機がいたことが画面から分かった。その機は焼け跡の藤倉電線の二本の煙突を掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には干本松原も映っていた。

 私は命拾いした八一月三日の昼時に襲って来たグラマン機が機上から克朗に写していたのに唖然とした。戦後七十余年を経、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観て興奮し、一晩眠れなかった。

 最後に、私は戦時中の耐え難い体験を幾度でも書き、いつまでも平和は守っていかねば、と訴え続けていきたいと思っている。

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和4715日(金)号 寄稿文】