2020年11月27日金曜日

「キミサワ」ブランド終幕

 

「キミサワ」ブランド終幕

 マックスバリュ東海が屋号統一

 「顧客主義教え今も」



 食品スーパー「マックスバリュ東海」(浜松市東区)はグループの店舗屋号をマックスバリュ系に統一し、県東部などで長年親しまれた「キミサワ」の店名を2021年末までに廃止する。1926年に三島市で個人営業の薬局として開業。97年に経営破綻した「ヤオハン」とともに、県内を代表する小売業に成長して戦後の経済成長期を駆け上がったキミサワブランドは95年の歴史に幕を下ろす。

 11月上旬、三島市のキミサワ加茂川店ではマックスバリュのジャンパー姿の店員が接客し、客はキミサワの名前とロゴ入りの買い物かごを手に品定めしていた。店内で混在する二つのブランド。静岡、神奈川両県に残る「キミサワ」と系列の「ザ・コンボ」「グラッテ」計8店の屋号を改め、マックスバリュの知名度向上と地域により密着した一体的な店づくりを進める。

 創業の地に近いキミサワ広小路店(同市)をよく利用するという60代の女性は「キミサワの名前がなくなるのは不思議な感じだけど、店が変わるわけではない。これからも通う」と話した。

 マックスバリュ沼津南店(沼津市)の木苗秋彦店長(58)は81年、当時のキミサワに入社した。「『限りなくお客さまに近づく』を企業理念に掲げ、君沢藤一社長以下、全従業員が愚直に実行した会社だった」と振り返る。「寂しさはあるが、キミサワで学んだお客さまのことを考え、基本を徹底する姿勢は今も変わらない」と強調する。(浜松総局・杉山諭、三島支局・金野真仁)

 薬局から東証1部上場



 キミサワは創業者の君沢安氏が三島市広小路町の売り場面積5(165平万㍍)で始めた薬局が起源。息子の藤一氏がドラッグストアに発展させ、スーパーマーケットのチェーン展開も開始した。1986年にシンガポールに出店し、2年後に名古屋証券取引所2部に上場した。元従業員の男性(66)は「商圏が重なるヤオハン、ひのやと競い合うように成長していった」と回顧する。

 93年にハックイシダ(横浜市)と合併し、社名をハックキミサワに変更。東京証券取引所1部に上場して連結売上高は1千億円を超えた。だが、コンビニエンスストアの台頭などで競争が激化。スーパーとドラッグストアを併設する新業態の店舗つくりも成果は上がらず、イオンの連結子会社になり、スーパーとドラッグストア事業を分割した。

 ドラッグストア事業を引き継いだウエルシアホールディングス(HD、東京)はキミサワの屋号を使っていない。かつてしのぎを削ったキミサワとヤオハンは現在、ともにマックスバリュ東海になっている。

【静新令和21126日(木)夕刊】

2020年11月15日日曜日

県道東柏原沼津線の形状を変更  新放水路建設に伴い原踏切前後で

 

 県道東柏原沼津線の形状を変更

 新放水路建設に伴い原踏切前後で

 県道東柏原沼津線(旧東海道)の大塚地先の原踏切は沼川新放水路の整備に伴い約50㍍東へ移設される予定で、踏切の移設とともに同県道は北側に大きく迂回する形になる。移設時期については地元との調整が必要だが、それ程先の話ではない。

 北側で大きくカーブ

 既に現道東側に仮踏切



 踏切と県道の移設によって、現在の踏切と道路の部分に新放水路の流路となるボックスを建設する。

 計画では東海道線と交差する部分の県道下を放水路が通るためで、放水路が東か西側にずれていれば踏切移設を必要としなかったが、放水路整備に適した場所が、たまたま東海道線と県道の交差部だった。

 鉄道下の放水路工事についてはJR東海が設計を済ませており、県は昨年8月にJRと協定を結んで東海道線と県道交差部の放水路建設に着工。昨年度は主に踏切の信号機の移設に関する工事を行った。県道の迂回については県が設計と工事を行っている。

 鉄道と県道の交差部における放水路工事は昨年度から2027年度までの9年間を予定。この個所だけで約50億円が見込まれている。

 鉄道下の工事は、まず線路の北側と南側の一部区間を、それぞれ矢板で囲み、囲んだ内部の土を掘る。線路上は電車が通るため手が付けられず、線路下に、中は空洞の鉄製四角柱を線路の南側から北側へ通して横倒しの四角柱で囲まれた空洞2つを造り、この2つの空洞が放水路となる。四角柱の空洞部分にはコンクリートを流し込んで埋める。

 この工法はHEP&JES(非開削立体交差)と呼ばれ、鉄道下に構造物を造る場合に採用される方法で一般的にはあまり使われない。

 今年度は線路南北の一定区間を矢板で囲む工事に着手し、来年度から3年間かけて主に矢板の内側を掘り下げる工事を行う。

 23年度から26年度までは放水路となる四角柱を並べる工事などを行い、27年度で踏切を戻す予定。

 現場近くの線路上にはJRが造った仮の踏切が既に姿を見せている=写真。


 間もなく、現在の踏切が仮踏切と入れ替わり、同時に県道仮踏切を通るように迂回する。現道と、迂回路の接続場所は現在とは大きく形状が変わるため、注意表示など安全対策の工事を行う必要があり、その間、通行止めにする可能性もあるという。

 迂回路が北側へ大きく曲がる形になるのは、県所有の用地の中で工事を完結させるため。

 移設後の仮踏切と迂回路の形状は、切り替え後、約8年間続く。

【沼朝令和21115日(日)号】

2020年11月14日土曜日

杉浦千畝とリトアニア 前駐在特命全権大使重枝豊英氏が講演  【沼朝令和2年11月14日(土)号】

 

杉浦千畝とリトアニア

前駐在特命全権大使重枝豊英氏が講演



 杉原千畝(ちうね)・幸子(ゆきこ)夫妻顕彰碑の除幕記念講演会が3日、千本プラザ音楽ホールで開かれ、「杉原千畝とリトアニア」をテーマに、前駐リトアニア特命全権大使、重枝豊英氏が講演した。主催は命のビザ・杉原千畝顕彰会(松下宗柏代表)。講演に先立ち、西高音楽部の生徒16人が演奏。ソプラノ、フルート、マリンバなどの演奏に続き、「千畝さんが私達に伝えたかったであろう命の重さを考えながら」選曲したという『いのちの歌』を全員で合唱。参加した生徒の1人は、「小学生の頃、千畝さんのことを描いた漫画を読んで、夫妻の活動に感銘を受けた」と話した。続いて、重枝氏が紹介され、講演に移った。

 命のビザ発給の背景は?

 今、杉原の精神どう生かせるか

 重枝氏は1952年生まれ。中央大学法学部卒業後、外務省に入省。各国で日本大使館に勤務し、駐フランクフルト、駐ホノルルの総領事などを歴任した後、2015年から退官までの3年間、リトアニアの日本国大使館特命全権大使を務めた。松下代表の紹介によれば、「共に汗をかきながら地域の人との交流をする人」。

 重枝氏は「同じ外交官として、杉原さんがどう考えたのか、分析できることもあるだろう」として、広い見識を基に自身の考えを話した。

 杉原生誕120年、命のビザ発給から80年となる今年をリトアニアでは「杉原イヤー」としている。新型コロナウイルスのパンデミック(爆発的流行)のため来年に延期になったが、国として杉原をたたえる催しなどが多く計画されていると言う。

 重枝氏はスライドで写真を示しながら、リトアニアについて紹介。面積は北海道の6分の5程だが、3000の湖と4000の森があって「夏は信じられないくらい美しい」と言う。

 町並みは中世的で、かつての王国の跡が見て取れる。

 「昔は非常に大きな帝国で、ヨーロッパの10分の1を治めたことがあった」が、次第に近隣の国に侵食され、特にロシアに攻め取られて従属することになり、1795年から120年間はロシアの支配下にあった。

 カウナスにある「無名戦士の墓」には、これまでの戦いで命を失った人が、敵も味方もなく葬られていて、「礼を尽くした形で毎年、国家行事として慰霊をする」と言う。

 また、リトアニア北部にある「十字架の丘」には、数え切れないほど多くの十字架が立てられている。かつて1人のηトアニア人がロシア人に処刑され時、その供養のために1本立てると、その後、次々に増え続けたという。このようにリトアニアの文化には、「キリスト教に基づきながらも、日本の神道のようなものが混じっている」と言い、小さな国としての独自の文化が今に伝えられている。

 そしてリトアニアの各地には、ナチスのホロコースト(大量虐殺)によって犠牲となったユダヤ人の墓がある。かつては「北のエルサレム」と言われるくらい神学が盛んで、そのため多くのユダヤ人がいた。

 日本に対しては「好意と敬意を持っている」と言い、特に日本の科学技術と精神文化を重視している。その精神を学ぶため、武道が盛んで、「形」を非常に重んじている。

 小学校でも杉原の顕彰が行われていて、その功績は子どもにも知られている。 日本人は、「困っている人を助け、礼儀正しく、品格がある」と思われているが、これはユダヤ人を助けた杉原の行動や精神が、そのまま日本人のイメージになっているため。

 かつて杉原が働いていたカウナスの領事館は、杉原が自身で用意した。 ここに派遣された目的は、ソ連とドイツの開戦についての軍事情報を得るためだった。杉原はロシア語もドイツ語も堪能で、情報収集の資質が高く、実際に独ソ開戦情報を1カ月前に報告していた。

 この領事館にビザを求めてユダヤ人が押しかけて来たが、問題は多くあった。ビザを出すためには、行き先国、通過する国の了解が必要で、滞在費用を持っていることも示さなければならない。不備のあるビザを出すことは、本省の訓令に背くことになり、杉原は悩んだ。

 「おそらく彼は、正義心が強く、真面目で、他人が困っているのを見ていられない人だったのだろう」

 杉原には3人の子どもがいて、「人間として『出すしかない』と思ったのでは」と重枝氏。それを後押ししたのが幸子夫人だった。

 当時のカウナスには、ほかの国の領事館もあったが、いずれもユダヤ人の受け入れを拒絶し、日本領事館の杉原だけが受け入れた。

 決心してからは迷うことなく、杉原はビザを書き続けたが、それが有効になるための様々な条件が重なっていて、重枝氏は、その背景について詳しく解説した。

 まず、ユダヤ人達がビザを受けた後の通過国であるソ連は、いくつもの理由によって自国に利するところがあったため、彼らの通過を了解した。

 日本はと言えば当時、三国同盟の下、国家として決断すべき緊迫した問題を、ほかにも多く抱えていた。

 さらに政策の一つとして「人種平等」が掲げられ、欧米のようにユダヤ人に対する偏見を持つことはなかった。日露戦争では、ユダヤ人の大富豪が日本の戦時国債を買い取っていた。ビザを発給したのは杉原だが、結果的に日本でも、それは国益になるとされ、実際に後々まで評価されることになった。

 杉原はカウナスを出発する直前までビザを書き続け、手がしびれ、ペンは折れてしまったという。発給したビザは2139枚、それを活用した人は6000人と言われ、助かった人の子孫は20-30万人にもなる。現在でも、リトアニアで杉原はたたえられ、また、イスラエルから「諸国民の中の正義の人」の称号を受けている。

 帰国してからの杉原は、幸子夫人の出身地である沼津に数カ月滞在。その後、東京に戻ったが、「外務省にはポストがない」と言われた。それは、ビザ大量発給への制裁とも言われているが、これについても重枝氏は様々な角度から考察。

 戦後、GHQ(連合国総司令部)の命令によって外務省の人員は大幅に整理されていた。杉原は外国に長くいたため、本省内に人員整理の対象を避けられるような強力な支援者がいなかったこと、当時はロシア語が不要だと言われたことがあったのではないか。

 また、杉原があまりに活躍しすぎたことが影響していることも考えられると言う。杉原は非常に優秀だったが、語学研修生として入省したノンキャリア。「ビザ発給は、要素の一つにはなったかもしれないが、そのせいで辞めることになったとは言えない」とし、むしろ杉原自身が気にしていたのではないかと言う。 重枝氏は「彼のような逸材を手放してしまったことは日本として損失でしたね」とした。

 そして最後に、「杉原さんが持っていた精神を今の日本に、どう生かすかではないか」とし、今後の日本の多文化共生について言及。

 日本に暮らす外国人が多くなった現在、「お互いに理解し合い、対等に、協調し合って暮らす。杉原さんの言っていた『人道博愛』の広義的な意味は、そうしたところに生かせるのでは」と提起して、話を締めくくった。

【沼朝令和21114日(土)号】



2020年11月10日火曜日

沼津市と県代執行請求 鉄道高架物件撤去へ手続き

 

沼津市と県代執行請求

鉄道高架物件撤去へ手続き


 JR沼津駅付近の鉄道高架事業に伴う沼津市原地区への新貨物ターミナル整備を巡り、移転用地の明け渡し最終期限を過ぎても用地1件で元地権者が物件の撤去に応じなかったことを受け、事業主体の市と県は10日午前、代執行庁としての県に対し、行政代執行(強制収用)請求の手続きを行った。県は今後、行政代執行法に基づき、強制的に物件を撤去できる行政代執行に向けた手続きを進めていくとみられる。

 請求は市と県が共同で行い、現地の状況や経緯などを記した関係書類を提出した。元地権者1人が明け渡さない用地1435平万㍍にある工作物や立ち木、農作物などが撤去対象になる。市と県は6日の調査で物件が撤去されていないことを確認した。

 頼重秀一沼津市長と川勝平太知事は9日に県庁で会談し、請求の手続きを開始する方向で一致した。代執行の可否を判断する川勝知事は、1224日に予定されている元地権者らが事業認定の無効確認を求めた訴訟の判決を踏まえて対応する方針。

【静新令和2年11月10日(火)夕刊】

【超簡単】水道の水もれはパッキン交換で簡単に直せる[前編]

代執行請求手続き開始へ 沼津鉄道高架 知事と市長一致

 

代執行請求手続き開始へ

 沼津鉄道高架 知事と市長一致


 JR沼津駅付近の鉄道高架事業に伴う沼津市原地区への新貨物ターミナル整備を巡り、移転用地の明け渡し最終期限を過ぎても用地1件で元地権者が物件の撤去に応じなかったことを受け、川勝平太知事と頼重秀一沼津市長は9日、県庁で会談して今後の対応について協議し、行政代執行(強制収用)請求の手続きを開始する方向で一致した。

 行政代執行請求は、事業主体の市と県が共同で代執行庁の県に請求する手続き。請求を受けた県は勧告書や戒告書を通じて元地権者に物件の撤去を求め、応じない場合は物件を強制的に撤去する代執行が可能になる。

 会談は約20分間、非公開で行われた。頼重市長は川勝知事に手続きの開始を要請。川勝知事は原地区の発展を第一に考えて対応する考えを伝えたという。

 代執行の可否を最終判断する川勝知事は終了後、取材に応じ、元地権者らが国と県を相手に事業認定の無効確認を求めた訴訟の判決が1224日に予定されていることを踏まえて「今しばらくは静観する」との考えを示した。仮に代執行を実施する場合、年明けになるとの見通しを明らかにした。



 物件撤去に応じない元地権者に関しては「筋を通している。判決にどのような態度を取るか静かに見守りたい」とした。一方で「苦渋の決断をした(用地買収に協刀した)地権者にお礼を申し上げたい。原地区が発展するための重要な分岐点だ」と強調した。

 頼重市長は取材に、行政代執行請求に必要な書類を近く県に提出すると表明したが「これまで通り、丁寧に対応することがすごく大事だ。撤去は自ら行ってもらうのが理想的だ」とし、代執行までに一定の時間をかけるべきだと指摘した。(政治部・大橋弘典)

【静新令和2年11月10日(火)朝刊】

2020年11月7日土曜日

カラスミ天日干し最盛期

 

カラスミ天日干し最盛期

沼津の川善サイズ大きく高品質



 沼津市の沼津港の一角で、高級珍味として知られるカラスミづくりが最盛期を迎えている。青空の下で天日干しされるカラスミがあめ色に輝き、観光客らの目を引いている。

 手掛けるのは、沼津港にある鮮魚卸業「川善」(川崎幸一社長)。カラスミはボラの卵巣を血抜きや塩漬け、塩抜きをしてから、2週間ほど天日で乾燥させる。ことしはサイズが比較的大きく、質は高いという。来年1月ごろまでに2千枚ほどの生産を見込む。

 東京や京都、金沢などの料亭に出荷するほか、店頭やホームページでも販売する。従業員の川崎靖幸さん(24)は「川善のインスタグラムなどで食べ方を紹介している。茶漬けやパスタも試してほしい」と話した。

【静新令和2117日(土)朝刊】

201101杉原千畝夫妻顕彰碑・除幕式


 千畝夫妻の顕彰碑除幕 沼津

 第二次大戦中に迫害から逃れるユダヤ系難民に「命のビザ」を発給して、多くの命を救った外交官杉原千畝(一九〇〇~八六年)と妻で二〇〇八年に九十四歳で亡くなった沼津市生まれの幸子さん夫妻の顕彰碑の除幕式が一日、同市の港口公園であった。碑を建立した同市の「命のビザ・杉原千畝夫妻顕彰会」によると、千畝単独の顕彰碑は世界各地にあるが、夫妻の顕彰碑は世界初だという。



 顕彰碑は白御影石製で、高さ一・六㍍、幅一・四㍍。中央に夫妻の肖像レリーフが刻まれている。千畝誕生百二十年、「命のビザ」発給八十年となる今年、幸子さんが生まれた沼津市から夫妻の人道主義を後世に伝えようと、顕彰会が寄付を募り、地元の石材会社が製作した。

 除幕式には、夫妻の孫でNPQ法人「杉原千畝命のビザ」(東京)副理事長の杉原まどかさんや顕彰会関係者らが出席した。

  まどかさんは、あいさつで「本国の訓令は絶対で、命を落としかねない中、(幸子さんは)祖父を励まし、腫れた腕をマッサージしていた」と紹介した。式後の取材に「二入そろっての顕彰はうれしい」と笑顔を見せていた。

 式には在日イスラエル大使館のバラク・シャイン広報官も出席。ナチスによる大量虐殺(ホロコースト)から逃れた家族がいるといい「反ユダヤ主義が今も存在する中、夫妻の偉業を学べる顕彰碑の意義は大きいい」と喜んだ。

 顕彰会代表で僧侶の松下洋一郎(僧名・宗柏)さん(七二)は「顕彰碑の設置は始まりにすぎない。利己の動きが目立つ現代で、失妻の人道主義を伝え続けたい」と話した。(渡辺陽太郎)


↓賴重市長FBより借用



杉原千畝夫妻の碑除幕 夫人出身地の沼津・港口公園

2020/11/2 09:20)アットエス



顕彰碑の除幕を祝う関係者=沼津市の港口公園

 第2次世界大戦中、ドイツ軍の迫害から逃れるユダヤ人を救った「命のビザ」の発給で知られる外交官杉原千畝(1900~86年)と、活動を支えた沼津市出身の幸子夫人の功績をたたえる顕彰碑の除幕式が1日、同市の港口公園で行われた。
 千畝の生誕120年と、千畝がリトアニアでユダヤ難民にビザを発給してから80年になる節目に合わせ、「命のビザ・杉原千畝夫妻顕彰会」(松下宗柏代表)が顕彰碑の建立を企画。クラウドファンディングなどで制作費を集め、準備を進めてきた。
 式典では、松下代表が「人道の精神が後世に伝わり、人類の共存と平和に向けたしるべとなることを祈る」とあいさつした。在日リトアニア大使夫妻やイスラエル大使館の広報報道官夫妻、地元高校生などが除幕を行い、幅約1・4メートル、高さ約1・6メートルの石碑と夫妻の肖像レリーフ、説明板がお目見えした。杉原夫妻のレリーフ設置は世界初という。
 関係者らは顕彰碑に献花し、夫妻の功績をしのんだ。イスラエルのバラク・シャイン広報報道官は「残念ながら世界ではユダヤ人への嫌悪はなくなっていない。顕彰碑を通じ、ホロコーストの恐ろしさから学ぶことを大切にしたい」と話した。
 千畝の孫でNPO法人「杉原千畝命のビザ」の杉原まどか副理事長は「千畝の手記に『妻の協力でビザを発給できた』とある。夫妻で取り上げられたことがとてもうれしい」と感慨に浸った。

 



祝辞の部動画↓

杉浦千畝夫妻顕彰碑を除幕

 幸子夫人生誕地沼津の港口公園で 杉原千畝(ちうね)・幸子(ゆきこ)夫妻顕彰碑の除幕式が1日、千本の港口公園で開かれ、多くの来賓らを招いて盛大に行われた。今年は、杉原千畝「命のビザ」発給から80周年に当たる。「命のビザ・杉原千畝顕彰会」の松下宗柏代表は、幸子夫人の生誕地である沼津に顕彰碑を建立できないかと発起。多くの人の賛同と協力を得ながら実現に至った。除幕式には、夫妻の親族や、駐日リトアニア大使、イスラエル大使館広報報道官、頼重秀一沼津市長らが出席。また、高校生が参加して通訳や運営に一役買った。

 リトアニア大使が出席

 イスラエル大使館広報報道官も

 除幕に先立ってあいさつした松下代表は、多くの人の協力を得て顕彰碑の建立が実現したことに感謝した後、今年9月に杉原千畝ゆかりの岐阜市で、各国大使らの「一字書展」が開催されたことに言及した。

 リトアニア大使は「道」という字を書いて出品したと言い、松下代表は、そこに支え合って生きることを表す「人」を合わせた「人道」という言葉を取り上げ、「富士山のふもと沼津から、人道の精神が後世に伝わり、人類の共存と平和に向かって、勇気を持って向かう標(しるべ)となることを祈ります」と話した。

 続いて行われた顕彰碑の除幕は、建立に尽力した多くの人の手によって行われ、高校生達も加わった。顕彰碑には夫妻の肖像レリーフがはめ込まれたが、2人揃ったものは世界で初めてだという。

 除幕後、はじめに祝辞を行ったのは千畝夫妻の孫で、NPO法人「杉原千畝命のビザ」副理事長の杉原まどかさん。

 「祖母の幸子が生まれ、戦後、杉原一家が最初に落ち着いた所」である沼津は縁の深い地だとし、幸子さんが27年前、80歳の時に沼津で講演したことにも触れた。

 また、千畝からビザ発給を受けたユダヤ人の「サバイバー」(注・事件や事故、災害などで生き残った人)は、現在では数えるほどしか生存していないというが、その中で親しくする家族から、今回の除幕式のために寄せられたメッセージを紹介。

 ナチスドイツによって命を奪われた数多くの家族がいた一方、命のビザが救った数千人の幸運なユダヤ人の命があり、その子孫達、数万人へ千畝の物語は伝えられていることが綴られていたと言う。

 そして、まどかさんは「差別による人権侵害を決して許さず、自らができることをして苦境にある人を助ける勇気と善意の心が広がることを願います」と結んだ。

 続いて、リトアニアのゲディミナス.バルブオリス駐日大使は「国内外で杉原千畝の偉業を称える場所が増えている」ことを指摘。岐阜、愛知に続いて沼津にも、その場が出来たことで、「日本とリトアニアが、杉原夫妻の架け橋によってつながることを期待します」と述べた。

 また、イスラエル大使館のバラク・シャイン広報報道官は自らが「ホロコースト(注・大量虐殺)の第2生存者」であることを明かし、第二次大戦中、スロバキアにいた父親と家族は、ユダヤ人迫害から生き延び、イスラエルに移住したと話した。

 その上で、「この顕彰碑は私や、他の被害者にとって特別な大切なもの」だとし、碑を目にした人達が、ここから学ぶことがあるように願った。

 さらに、頼重秀一市長、沼津千本ライオンズクラブ大橋裕之会長、「杉原千畝物語オペラ人道の桜」の脚本を執筆し幸子夫人の役を演じている新南田(しんなんだ)ゆりさんが祝辞を述べた。

 また、川勝平太知事や、千畝ゆかりの各地から多くの祝電も寄せられ、最後に祝賀演奏として市内出身の音楽家によりバイオリンと電子ピアノで「愛の挨拶」「情熱大陸」、そして「富士山」が演奏された。

 一方、今回の式典における司会進行の言葉や大使らの祝辞は、暁秀高バイリンガルコース2年の生徒5人が通訳。5人は緊張しながらも見事に大役を果たした。

 また、西高の生徒2人が運営を手伝い、千畝の偉業をよく知っていて、「(式典開催に)関わることができて光栄に思う」と話した。

 松下代表が高校生に参加を呼び掛けたのは、「若い世代の人達に、沼津への誇りを持ってほしい」という願いによる。

 頼重秀一市長も「杉原夫妻のように『利他の心』を持つことを、こうした場所を通じて子ども達にも伝えていけたら」と願った。 松下代表は、顕彰碑建立地として、趣旨を酌み同公園を提供してくれた頼重市長に感謝。

 さらに今回の事業には、レリーフを制作した綿引道郎氏、碑文を揮毫した成田真洞氏、顕彰碑の設計・製作を寄贈した真島石材工業、説明版を寄贈した千本ライオンズクラブをはじめ、多くの人が協力。また、クラウドファンディングによって広く賛同者から寄付金が寄せられ、顕彰碑建立の呼び掛けから半年程で実現を見ることになり、除幕式への参加者は関係者を含め300人程に上った。

 当日の運営には松下代表が住職を務める長興寺の青年部わかしお会が縁の下を支えたほか、実現に向けて多くの支援があった。

 式典を終えた松下代表は安堵した表情で、「幸子さん、お帰りなさい。これでやっと沼津に認識された」と語り、「戦争の経験がある世代が少なくなり、歴史一的な記憶が薄れていく中、夫妻の偉業が次の世代に伝われば」と願い、今後も継続して活動を続けることが必要だと話した。

【沼朝2020(令和2)113(火曜日)




杉原千畝の人道、博愛受け継ぎ 「多文化共生に理解を」 沼津前駐リトアニア大使講演  「命のビザ・杉原千畝夫妻顕彰会」(松下宗柏代表)はこのほど、前駐リトアニア大使の重枝豊英さん(68)=東京都=を招いた講演会「杉原千畝とリトアニア」を、沼津市の千本プラザで開いた。  2015~18年にリトアニアで大使を務めた重枝さんは、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人にビザを発給して救った外交官杉原千畝と、同市出身の幸子夫人の歴史や当時の情勢を解説。「命令に反しビザを発給するか悩みながらも、困っている人を助ける正義心の強い人だった」と心情を推し量った。  重枝さんはリトアニアで在任中、千畝の行動や精神をたたえて国家規模で顕彰され、人々が日本への好意や敬意を抱いていることを感じたという。「杉原さんの人道、博愛精神を受け継ぎ、多文化共生の理解を深めることが大切」と述べた。講演会は、杉原千畝天妻顕彰碑除幕記念として実施し、市内外から約150人が聴講した。 【静新令和2年11月7日(土)朝刊】