2022年5月30日月曜日

220529城岡神社例大祭神輿巡幸プラスas


 城岡神社例大祭、今年も台車で神輿

 のぼり旗を手に子ども達も参加

 大手町町内会(原田治久会長)は、城岡神社例大祭を2829日の2日間開き、28日は、よさこいチーム「りぐる」による奉納の舞と式典、29日は式典の後「神輿巡幸」が行われ、今年は町内の子ども達も参加した。

 城岡神社の例大祭は毎年、神社前の通りに露店が軒を並べ子ども神輿や青年神輿渡御、.奉納演芸、よさこい踊り、和太鼓演奏などを行い、沼津に初夏を告げる祭りとして盛大に開かれるが、コロナ禍にあって密を避けるため、一昨年から式典が中心。

 昨年は神輿渡御に代わる企画として、密を避けるために神輿を台車に載せて引く「神輿巡幸」が初めて行われたが、今年も同様に法被を着て提灯や御幣、幟旗を持った先導役に神輿が続き、宮司をはじめ格衣を着た町内会役員らの後に、今年は、のぼり旗を手にした子ども達が加わり、町内を練り歩いた。



 のぼり旗の両面には、自分自身あるいは社会全体に向けた願いごとを子ども達が手書きし、「世界平和」や「健康第一」「創り出そう新たな伝統」などの願い、「マスクを外したい」「コロナが終わりますように」という切実な願いもあった。

 土屋輝明君二小4)は「ゲームクリエイターになりたい」「みんな幸せに」の願いを裏表に書き、「行列は、ちょっと緊張したけど楽しかった。これからも町内のいろんな行事に参加したい」と話していた。



 父母の会の杉山恵理会長は「コロナ禍にあってもできる活動を模索し、工夫しながら子ども達に伝統行事など様々な体験をさせてあげたい」とした。

【沼朝令和4531日(火)号】

 

 願い込めみこし子どもら「巡幸」

 沼津・城岡神社例大祭

 沼津城の守護神で徳川家康などを祭る沼津市大手町の城岡神社は2829の両日、例大祭を開いた。29日は宮司や地元住民、子どもたちら約80人が参加する「神輿(みこし)巡幸」一があり、町内の商店街や沼津駅前などを練り歩いた。

 神輿を担がずに台車に乗せて歩く神輿巡幸は、新型コロナ感染拡大防止を考え、昨年始めた。ことしは子どもたち約30人が参加。世界平和や将来の夢などそれぞれの願いを書いたのぼりを手に、2列に並んで神輿の後に続いた。「これからも友達と遊べますように」と願った沼津第一小6年の大木馨登さん(11)は「楽しかった。神様が近くにいる感じがした」と話した。



 大手町町内会の原田治行会長は「祭りは町内の行事として子どもの記憶に残るもの。開催できてうれしい」と喜んだ。

【静新令和4531日(火)朝刊】


原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年5月30日(月)大安」「虚々実々」旧暦5月1日

 


2022年5月24日火曜日

220524舞からの母の日にもらった花の花壇as

ディアナ号 史日本遺産に  富士市日ロ友好協

 


 ディアナ号 史日本遺産に

 富士市日ロ友好協

 市に登録手続き要望 富士市日ロ友好協会は23日、幕末のロシア船ディアナ号に関連する史実を隅文化庁の「日本遺産」に登録する手続きを進めるよう求める要望書を富士市に提出した。

 プチャーチン率いるディアナ号は幕末に下田港を訪れた際、安政大地震の津波に遭って損傷した。修理のため戸田港へ向かう中で嵐に見舞われ、富士市宮島沖で沈没したとされる。500人に上る乗組員を同市の漁民が救助し、その後の条約調印や日本初の洋式船「戸田号」建造につながった。

 要望書では、人命救助に全力を投じた郷土の偉業を後世に伝える重要性を訴えたほか、江戸末期に県東部で人道的活動や開国への歩みが記されたことは日本遺産にふさわしいとし、沼津市や下田市と協力して認定を目指すことを求めた。

 斉藤斗志二名誉会長や太田康彦会長らが市役所を訪れ、小長井義正市長に要望書を手渡した。斉藤名誉会長は「日本一の富士のもとで世界に誇る美しいストーリーがあったこと一を全国、世界に発信したい」と述べた。

【静新令和4524日(火)朝刊】

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年5月24日(火)先負」「東奔西走」旧暦4月24日

 


2022年5月21日土曜日

城岡神社祭典で神輿巡幸  市長に説明、再開発も話題に

 

 城岡神社祭典で神輿巡幸

 市長に説明、再開発も話題に


 大手酊町内会(原田治久会長)は、2829日の2日間開かれる城岡神社例大祭に合わせ、29日午後1時から「神輿巡幸」を実施することを頼重秀一市長に報告。20日、関係者が市役所を訪れ、今年は子ども達がオリジナルのぼり旗を製作して参加することなどを話した。

 地元の氏神である城岡神社の例大祭は沼津の夏祭りの走りとして中心市街地のにぎわ.いづくりになっているが、コロナ禍のため一昨年は式典のみ実施。

 昨年は町制施行130周年記念事業と合わせて「神輿巡幸」を実施。人が担ぐと密になるため台車に載せて引く形式で初めて行い、法被を着て提灯や御幣、幟旗を持った先導役に神輿が続き、宮司をはじめ格衣を着た町内会役員らが町内を練り歩き、頼重市長も参列した。

 原田会長は「今年は昨年同様の巡幸に加え、子ども達も法被を着て、のぼり旗を手に歩く。市長にも参加してもらいたい」と依頼し、本部長を務める町内会総務部長の藤原維仁さんが「父母の会の協力で子ども達にも参加してもらうことになり、のぼり旗に願いごとを書いて自由にデザインしてもらう」と話した。

 また、1000円で販売する記念手ぬぐいは、原田会長の娘でデザイナーの原田真理子さん、ポスターは沼津デザインセンター代表の大木真実さんがデザインを担当したことを紹介した。

 父母の会の杉山恵理会長は「児童34人と父親を中心に30人が参加する予定。コロナ禍でも感染予防対策をし、子ども達に町内の伝統行事や城岡神社について知ってもらう機会にしたい」と話した。 祭典は28日午前10時から大手町を拠点に活動する、よさこいチーム「りぐる」が「奉納の舞」。29日は神社本殿から神輿に御神体を移した後、午後1時に神社を出発。さんさん通りを北上して沼津駅前で左折し、仲見世、新仲見世の各商店街を抜けて同神社に戻るまで、約1時間半をかけて練り歩。  

 頼重市長は「子ども達が、どんな願い事を書くか、見るのが楽しみ。祭りへの疹加を機に、城岡神社の成り立ちや、かつて沼津城があった歴史も学んでほしい」と話した。

 一方、町内会の杉山高明副会長は、自身が組合の副理事長として関わり、「大手町5丁目第一地区開発事業」の名称で、再開発計画が始動したことを話し、「仲見世商店街には8区画あるが、これを第一地区として再開発を加速させたい。三交イン沼津駅前やプアミリーマートを除き、マルサン書店やワシントン靴店がある1区画について34年以内に建物を取り壊し、1階に商業施設、上層部は居住層となる建物を建設して2030年頃までの完成を目指す。地権者の一部に反対はあるが、説得していきたい」とした。

【沼朝2022(令和4)521日(土)】


原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年5月21日(土)赤口」「満身創痍」旧暦4月21日

 






2022年5月20日金曜日

チェコスロバキアの記憶

 

220515江原素六生誕180周年・没後100周年記念祭式典as (沼朝記事加筆)


 近代沼津の礎築いた江原素六

 生誕180年、没後100年で式典

 沼津にとっての大恩人へ江原素六翁。あす519日は翁100回目の命日、と同時に180回目の生誕日。天保13(1842)519日に生まれ、大正11(1922)519日に他界した、生没月日が同じという稀有な生涯。幕末・維新の大変革期、歩んだ人生は波乱に富むが、その中で終の住みかに選んだ沼津に多大な足跡と功績を残した。その翁の遺徳を偲び、感謝の意を表す「江原素六生誕180周年・没後100周年記念祭式典」が15日、プラサヴェルデコンベンションホヨルAで開かれた。各方面、各分野からの参列者の中、追悼の言葉などが述べられたが、会場の注目を集めたのは、生前の翁が歩く様子を捉えた「生きた江原素六」の姿だった。式典終了後は会場を沼津駅北口広場に移し、市内3体目となる翁の像の除幕が行われた。

 貴重な翁生前の動画上映

 沼津駅北口広場に3体目の像

 記念祭は例年、519日に近い日曜日、西熊堂の江原素六先生記念公園で開かれ、続いての献茶式で江原翁の銅像に新茶を捧げているが、この2年間は新型コロナウイルス感染拡大防止のため多人数の出席を求めることができず、駿河台の江原家墓所で江原素六先生顕彰会(土屋新一会長)の役員、会員らで献花する程度に縮小して行われていた。このため、記念祭自体が3年ぶりの開催となった。

 式典は、飛龍高和太鼓部の演奏で幕開け。開会の後、式典実行委員会委員長の土屋顕彰会会長の式辞、川勝平太知事、頼重秀一市長らが翁への追憶の言葉を述べた後、壇上の翁の写真の前への献花が行われた。

 続いて、記念事業として江原記念公園の銅像、明治史料館の胸像に続く翁の像が沼津駅北口に建立されたことが紹介された後、静岡市出身の講談師、田辺鶴遊師が講談「江原素六伝」を演じ、幼少時から沼津移住までの翁の半生を楽しく、分かりやすく伝えた。

 また、西高芸術科書道専攻の4人がステージで、翁の座右の銘「克己制欲」を一字ずつ書き上げる書道パフォーマンスを披露。立てた面への揮毫と難しさが要求される中での見事な動きに会場からは大きな拍手が送られた。

 さらに、翁が創設した麻布学園麻布中・高の平秀明校長が「江原素六と私たち」と題し、翁の生い立ちを話し、翁の人物像については「誠」「清」「聖」「政」「青」「生」の6文字を挙げて、誠を尽くした一生、清貧に甘んじたつましい生活、政治家として世のために働き、青年達の友としてあった姿など六つの「せい」で言い表した。

 圧巻だったのは、翁の生前、歩く姿を撮影した動画。ライオンの創業者、小林富次郎が亡くなった際の葬列で棺を載せた馬車のすぐ横を歩く69歳の翁の姿が映し出されている。このフィルムは歴史資料として国の重要文化財になっている。

 式典は、この後、翁の曾孫で麻布学園理事の江原素有氏が江原家謝辞を述べ、最後に顕彰会の佐藤孝行副会長が閉式の辞を述べた。

 この中で佐藤副会長は「静岡県には偉人が2人いる。西の金原明善、東の江原素六。金原明善は信玄堤を造った武田信玄と並び、天竜川の治水で知られるが、江原翁は、もう一つだ。きょうの日を契機に翁について、もっと発信していきたい」などと思いを語った。

 場所を移して行われた銅像の除幕は、川勝知事、頼重市長と、来賓に像を制作した彫刻家の堤直美氏、台座に揮毫した周智郡森町出身の書家、杭迫柏樹氏に麻布中学の生徒へ、翁にゆかりの地元の小学生らも参加して行われた。

 この後、沼津茶業振興協議会による像への献茶式。川勝知事をはじめ来賓らが献茶した。

 ◇

 江原翁は沼津のため、産業、教育、宗教など多方面にわたって尽力、足跡を残し、とりわけ官有地・御料地の愛鷹山払い下げに傾注して実現させ、その恩恵は沼津にとどまらず近隣市町に及び、また、それによって沼津の茶業の礎を築くなど今なお関係方面だけでなく多くの人の尊敬と感謝の的となっている。

 翁は徳川幕府御家人の家に生まれたが、御家人とは名ばかりの貧苦の中に幼一少期を過ごした。それでも家計を助ける中で勉学の道をあきらめることはなく、また翁の才を見出して支援の手を差し延べる人もあり、当時最高の教育機関だった昌平黌(しようへいこう=昌平坂学問所)に学び、出仕すると頭角を現し始める。

 しかし、幕末・維新の動乱期の中で十分に力を発揮できないまま、やむをえない事情から一時は官軍と戦い、大けがを負って身を隠すなど賊軍として逃げなければならない立場に置かれる。

 ところが、ここでも翁の優秀さを知る人(式典で行われた講談では勝海舟の名が挙がった)の計らいで許され、駿河に移封となった徳川家に参じるが、自分が静岡にいたのでは迷惑がかかるからと沼津に居を構えることにし、以後、沼津を拠点とした活躍が始まる。(後、中央での仕事が増え、在京の時間が増える) 沼津では、幕府時代に構想した陸軍学問所を念頭に沼津兵学校の創立にかかわったが、新しい日本を築くため、軍学だけでなく西洋の近代的学問も積極的に取り入れるとともに、武士に限らず生徒を受け入れ、優秀な人材が集まった。

 教育界では、静岡師範学校や沼津中学校(現在の沼津東高につながる旧制沼中とは別)の校長を務めるなど教育界における活躍も多岐にわたり、東京では麻布中学校を創設。現在は中・高校一貫の全国有数の進学校となっている。

 さらに、教育の重要性を説いて、男子にとどまらず女子教育のために私立の駿東女学校を創設。後に郡立女学校から県立沼津高等女学校となり、現在の沼津西高となる。男尊女卑思想の強い時代にあって、今で言うならジェンダーフリーを実践した先覚者でもあった。

 一方、若い頃に学んだのは儒教であり朱子学だったが、明治10(1877)には洗礼を受けキリスト者となり、末広町に教会を設立するとともに、熱心な伝道者にもなった。

 また、俸禄を失った士族のためでもあったが殖産にも腐心し、各分野の産業興隆にも心血を注いだが、この分野では実るものは多くはなかったようだ。

 名誉も金銭もなく、ただ一心に沼津のため、地元のためにと働く翁の姿に、納税資格が必要な初めての衆院議員選挙に推され、お金がないからと固辞するも支援者があり、出馬して当選。連続して衆院議員を務め、後に東京市から出馬して当選し、1912(明治45・大正元)年には貴族院議員に勅撰された。 各方面、各分野で功績を残した翁は、とりわけ青少年の教育に熱心で、亡くなる直前の516日には麻布中学の遠足に同行して箱根に一泊。翌日、生徒達より先に帰京し、翌18日は、いくつかの会議に出席。最後の会議で頭痛を訴えて自宅に戻り、翌19日、脳溢血のため、当時としては長命と言える80年を一期(いちご)として旅立った。高齢者の生き方としても範となるような最期だったと言えるかも知れない。

【沼朝2022(令和4)518(水曜日) 20714号】


220507マルサン書店仲見世店閉店のお知らせ令和4年5月7日制作as (5月20日発行沼朝記事加筆)


 マルサン書店仲見世店31日閉店

 老朽化と再開発、紙媒体縮小響く

 沼津「ラブライブ!」聖地惜しむファンも


 沼津市と清水町に店を構えるマルサン書店は7日までに、旗艦店の仲見世店(同市大手町)を同地区の再開発と建物の老朽化を理由に今月31日を最後の営業日に閉店することを決めた。仲見世店は同市が舞台の人気アニメ「ラブライブ!サンシャイン!」に登場し、今でもファンにとって聖地となっている。閉店を聞きつけ、見納めに多くのファンが訪れている。

 仲見世店は1998年、創業店舗の通横町本店や宝塚店などを統合し当時県内最大級の書店として開店。2016年に放送された同アニメ作品には、登場する国木田花丸の行きつけの書店として取り上げられた。

 閉店の理由は、店がある仲見世店周辺区画の再開発が正式決定したため。営業継続には数千万円の設備投資が必要で、コロナ禍による紙媒体の市場縮小も響き、店存続を断念した。再開発後の活用方針は未定。

  閉店をSNSで知り、急きょ訪れた愛知県知立市の会性員大庭集平さん(26)は「聖地がなくなるのは残念だが、ファンとしては再開発で沼津が発展してほしい。新しくなったらまた来たい」と話した。古沢洋専務は「アニメの放送終了後もこんなに長く支持されると思わず、ありがたかった」と謝意を述べた。

 今後はJR沼津駅北口近くの駅北店と清水町のサントムーン店で営業する。

(東部総局・菊地真生)

【静新令和4年5月8日(日)朝刊】

 マルサン書店仲見世店が閉店へ

 今月31日の営業で終了

 創業120年のマルサン書店(古澤隆社長)は、基幹店の仲見世店を建物の老朽化と売り上げの低迷、一帯で再開発に向けた動きがあることなどを受け、今月31日の営業をもって閉店する。

 仲見世店は1998年にオープンして24年。書店としては市内最大、地下1階から地上3階まで約1500平方㍍の売り場面積と充実した書籍数で、沼津を代表する「まちの本屋」として市民に愛され一時代を築いた。

 仲見世店の立ち上げから携わる古澤洋専務に話を聴いた。

 書店を取り巻く環境は時代の変化に伴い大きく変わり、かつては個人事業主による小規模の書店が多かったが、80年代にコンビニエンスストアの全国総店舗数が15000店を超えて雑誌や書籍の販売では書店並みの売り上げを記録。収益の中核を担うマンガや雑誌類の売り上げの低下が小規模書店の経営を圧迫した。

 90年代に入ると全国的に害店の大型化が進み、広い駐車場を設けた郊外型の中規模店舗も増え、これにバブル崩壊後の出版業界全体の不況や新古書店チェーンの発達なども相まって、経営基盤の弱い書店の閉店が増え始めた。

 書店の売り上げに貢献してきたマンガの総売り上げが95年に、紙の本の出版販売額も翌96年にピークを迎え、パソコンOSMicrosoftWindoWs95」の発売を契機に、インターネットの家庭への普及が加速。ネット時代に突入し、若者を中心にポケットベルから携帯電話への切り替えが進むなど、ライフスタイルも大きく変化した時期。仲見世店がオープンしたのは、こうした激動の時代だった。

 仲見世店が入るビルは百貨店の「十字屋沼津店」だった建物。十字屋が94年に閉店し、その後、空きビルとなっていたため、賃貸による出店を検討したが、所有者の意向で購入することになり、当時通横町にあった本店(現在スルガ銀行本店駐車場)と大手町の宝塚ビル内にあった宝塚店を統合して誕生した。

 中心市街地に市内最大の書店がオープン。市民に与えるインパクトも大きく、絵本や児童書、専門書、雑誌や漫画も充実し、新刊、ペストセラー、地元ゆかりの作家のコーナー等も設けて幅広いジャンルの書籍が並んだ。

 年間売上高は10年程前にピークを迎えたが、その頃からスマートフォンが急速に普及し、余暇の過ごし方の一つだった「読書の時間」が、スマホによるネットやSNSの利用、電子書籍にシフト。オープン時以上に大きなライフスタイルの変化が紙の本離れにつながり、「現在の売上高は当時の5分の1、総売り場面積は4分のl。売り上げが落ちれば売り場面積も縮小せざるを得ない」と古澤専務。

 古澤専務は、30年程前にアメリカの書店を視察したのを機に現地関係者と交流を持ち、3年ごとの定点観察を行い、アメリカの書籍出版産業に着目しながら市内外への出店や閉店を手掛けた。

 「仲見世店のオープンを前に米国のAmaZon(アマゾン)がオンライン書店としてサービスを開始した。当時、アメリカの大都市には2000坪を超える書店がゴロゴロあったが、人ロ10万人以下の都市には書店自体がなく、スーパーマーケットに売筋の本だけが平積みされているような状況だった。アマゾンの登場により、地方都市でもネット通販で手軽に好きな本が買えるようになる一方、大型書店は打撃を受け、店主の趣味や好みで書籍を集めた小さな本屋が増えた」 さらに、「当初、アマゾンの流通形態は日本になじまないという見方もあったが、スマホの普及でネット通販が手軽になり、流通の問題が解消されると利用者が増え、書店だけでなく小売産業の全てに影響を及ぼすようになった。電子書籍以外にも、音楽や映画などデジタルデータのダウンロード販売や配僧が当たり前になり、書店と同様にCDショップやレンタルビデオ屋の閉店も増えた」と指摘する。

 仲見世店の閉店が決まり、スマホを使わない高齢者からは「これから、どこで本を買えばいいのか」と言われ、アニメ「ラブライブ!サンシャイン!」の作中にも仲見世店が登場し、聖地と位置付けられていることから、ラブライバーからは「思い出が詰まった店舗。ぜひ残してほしい」との声が寄せられている。

 古澤専務は「仲見世店を立ち上げ、私自身も思い入れはあるが、築60年で建物の寿命が近づき、空調からエレベーター、トイレや水回りなどの老朽化で、改修費として数千万円を見積もったが、再開発に向けた動きに賛同した。書籍や雑誌のデジタル化への切り替わりは想定以上に速かった」と閉店への思いを語る。

 また、「コロナ禍の『巣ごもり需要』で、当初は書籍や雑誌の売り上げも伸びたが、その後、人が出歩かなくなり、書店まで出向く人も減って、スマホで手軽に読める電子書籍への切り替え、アマゾンでの書籍購入が加速した」と分析。「長引くコロナ禍も一因」だとする。 書店ではネット検索で見られる内容の本や、電子書籍化が進むマンガや雑誌は以前ほど売れなくなる一方、これまでは書店に置かれることが少なかった堅い内容の本や文学本がアマゾンの通販や電子書籍で売れるようになった。これを管理する出版社にとっても紙の本を印刷するコストを抑えることにつながり、売り上げを伸ばしている。

 古澤専務は「電子書籍化が進む中、書店で手に取り、中を「見て買われる種類の本も見えてきた。インターネットの普及で情報があふれて便利になり、文字を読む機会は格段に増えたが、編集者が関わる確かな情報は少なく、今後も紙の本の需要はなくならないと思う。今後、すぐに書店が立ち行かなくなることはないと思うが、厳しい方向性に向かっていることは覚悟しなければならない」と言い、長年、仲見世店を支えてくれた多くの市民に感謝している。

 なお、マルサン書店は、北高島町の駅北店(フェスタノジマ内)と清水町のサントムーン店での営業は続ける。

【沼朝2022(令和4)520(金曜日)