2014年11月27日木曜日

前会長死去受け自治会連合会が新人事

 会長に榊原昭雄副会長

 前会長死去受け自治会連合会が新人事
 市目治会連合会は二十日開催の定例会で、新人事を決定した。
 高木孝・前会の死去に伴うもので、新会長には会長職務代理者だった榊原昭雄副会長(第四地区西連合自治会長)が就任する。後任の会長職務代理者は丹羽定彦副会長(内浦地区同)
 高木前会長の死去当初、新会長は来年四月に選出されるのではとの観測もあったが、連合会として外部と契約したり通帳の管理などを行ったりする際、連合会トップが会長職務代理者のままでは不都合が生じることから選出が早まった。
 新役員は次の通り(敬称略)
 ▽会長=榊原昭雄▽副会長=丹羽定彦(留任)、佐藤静雄(第五西地区連合自治会長、同)、佐野親邦(門池地区同、新任)▽幹事=新居啓司(第二地区北同、留)、杉沢正昭(浮島地区同、新)▽監査=鈴木邦親(原西部地区同、留)、大川岩男(今沢地区同、新)
 新役員の任期は十二月一日から平成二十八年三月三十一日まで。

(静新平成261127日朝刊)

2014年11月15日土曜日

宮脇名誉教授が築山を視察

宮脇名誉教授が築山を視察
 「命の大切さ」強調し、賛意
 栗原裕康市長の基本政策の一つ「エコのまち沼津」推進の一環として二〇一〇年八月に始まった「いのちを守る森づくりーぬまづの森整備事業」。この事業を指導する横浜国大名誉教授の宮脇昭さんが十三日、市長の要請で千本松原内に計画されている津波避難用人工高台(築山)予定地を視察。宮脇さんは視察後、市長、クロマツ伐採の中止を求める沼津牧水会理事長の林茂樹乗運寺住職らと若山牧水記念館で話し合った。その後の記者会見で宮脇さんは「命の大切さ」を強調し、築山造成に賛意を示した。
 築山造成は計画通りに
 芝生から潜在植生の林に大幅変更
 宮脇さんは、職員が掘った直径約一㍍、深さ約一・五㍍の穴の中を見て、予定地内クロマツ林の土壌・根の張り具合を確認。その後、現場で市長、林住職と話し合った。
 宮脇さんは「一番大事なのは命」だとし、地球と人類の誕生から今日までの生命と遺伝子の連鎖、また照葉樹林の持つ意味、本来その土地に生育する潜在植生などについて持論を展開。
 その上で、日本は世界一美しい国だが、自然災害が最も多い国だとし、命を守るにはどうしたらいいかと投げ掛け、海岸では松がいいと考えられ、「松を一枝切ったら一手、一首を切る」という掟を作って松林を守ってきたことを紹介。
 一方、照葉樹林は日本文化の源だとし、市長提唱による沼津での命を守る森づくりを評価。風害、塩害もある厳しい自然条件下の沼津で「いのちの森づくり」が成功すれば全国に波及すると期待。強風が吹きすさぶ中での取材は聴き取り難く、会場を近くの牧水記念館に移し、再度、宮脇さん、林住職ら牧水会役員、市長ほか築山を担当する市危機管理課職員が別室で会合を持った。
 終了後の記者会見で市長は「現計画を見直すことにする。(当初計画の築山は)芝生が多く、ぬまづの森づくり(計画面積)と逆にし、潜在植生の林にする」と見直し内容を話した。
 また、築山の高さについて市長は「(当初計画の)一五層は基本的に変えない」、松の移植については「費用が掛かる」と、宮脇さんが移植より新たに植える方を勧めていることを示した。
 林住職は「宮脇さんが木々に寄り添っていることが分かった。(若山牧水が称えている)松だけではない千本松原の価値を認めてくれた」とする一方、築山の高さについては「高さの考え方は(市長と)私と違う。(市長は)松を切ることも仕方ないと言われたが納得できない。松は切らないという私の考えは全く変わらない」とし、「より良いものにするため智恵を出し合うことで宮脇先生と一致した」と話し合いを評価。
 宮脇さんは、千本松原も人間の手を加えずに放っておけば潜在植生の林になるとし、今あるクロマツを残すことが一番いいのか、ベターからベストにしなければならないとし、「何があっても命を守る森をつくる。築山に森づくりをする。やらなければならない」と力を込めた。
 来年三月末までの完成を予定し九月の工事着手後、中断されている工事の再開時期を問われた市長は、市民の声を聞いて数カ月程で結論を出したいとし、年度内の完成にこだわらないことを明かした。
 視察前日の十二日午後、予定地で市担当課職員から説明を受けている宮脇さんは、築山の高さ見直しについて「高さは、高ければ高いに越したことはない」と持論を述べた。
 解脱 驚いたのは築山提案者の市長が、造成するに当たってクロマツを伐採することを知らなかったこと。と言うことは、事前に予定地の下見をしていなかったということだ。
 また、東日本大震災直後なら住民に津波に対する恐怖感があって、築山造成のためにクロマツを切ることは問題にならなかっただろうとの発言。クロマツ伐採に反対している市民は、震災直後であろうがなかろうが、「千本松原は沼津の宝」だとの思いが強い。
 防災研究者ではない植物学者の宮脇さんを築山造成の諾否判断者に、なぜ招いたのか。市長は、築山計画と「ぬまづの森づくり」を結び付けなかったのかも知れないが、当初計画では築山の大部分か芝生張り。
 保育所の園児達が斜面滑りを楽しめるように。クロマツを伐採する罪滅ぼしなのか、ぬまづの森づくりは南側に一七〇平方㍍計画されていたが、築山全体面積の約四%。この面積を芝生面積と逆にするという。
 また、高さを一五㍍とした根拠は、クロマツ伐採の説明を受けていなかった市議会の地震・津波対策調査特別委員会の「どうせ造るなら展望機能も持たせた方がいい」があったから。だが、ぬまづの森づくりを築山で進めたら木々によって眺望は消失する。
 宮脇さんは「県の第四次地震被害想定では、津波は防潮堤を越えないとされているが」の質問に対し、学者でも自然の力を計算することは出来ない、と想定外の津波が来るかも知れないと答えた。
 東日本大震災後、宮脇さんはコンクリートではない震災瓦礫と土で築く防潮堤に潜在植生を植樹することを提案しているが、連続性のない「点」でしかない築山を造成してどうなるのか。
 宮脇さんは、沼津で造ったものか県内、全国に波及すれば、と構想を語った。また盛んに、この地域の潜在植生であるタブノキ、シイ、カシの有用性を説いたが、これらの植物を築山に植えたら根はどうなるのか。
 築山は、田子ノ浦港の浚渫土をセメントで固めた上に土を五〇㌢被せる計画を見直し、より土の厚さを増やすという。だが、宮脇さんは四年前の「ぬまづの森づくり講演会」でタブノキ、スダジイ、カシを植える理由について、「これらは深根性で三-五㍍の根が伸びることから山の崩壊がない」と話している。
 築山を覆う土砂は、宮脇理論では最低でも三㍍必要となるが、設計見直しで築山の強度面を考えて可能なのか。穴を掘ったのは、築山の覆土に利用できるかを確認するためだったというが、三㍍も砂丘の砂を積んで崩れはしないのか。
 宮脇さんが言う「命は大事だ」は、市担当者が言う「人の命と松の命とどっちが大事ですか」と五十歩百歩で何ら説得力を持たない。なぜ予定地に一五㍍の築山が必要なのかの理由を聞くことはできなかった。
 また、市長は「築山は必要」だとした宮脇発言で「お墨付きをもらった」と考えているのかも知れないが、何の解決策にもならないことは明らか。議論の基は、県が発表した第四次地震被害想定の地震・津波ハザードマップにおける予定地の予想浸水深六・五㍍ではないのか。
 築山計画に、ほとんどなかった「ぬまづの森づくり」が、いつの間に出てきたのか、コロコロ変わる市当局の姿勢に疑問を禁じ得ない。千本松原で長年にわたりクロマツを植えてきた男性は「なぜ宮脇さんを呼んだのか理解出来ない」と話した。
(沼朝平成26年11月15日号)

 沼津市長、「築山」予定地視察
 一部計画変更明言 数カ月で結論

 沼津市の栗原裕康市長は13日、市が同市本で進める津波避難用の人工高台「築山」の建設に伴って千本松原の松を伐採する計画に対し、見直しを求めている沼津牧水会の関係者や、植物の専門家と建設予定地を視察した。視察後、築山ののり面などに芝生を整備する計画を一部変更し、できるだけ広い範囲に松を含めシイやカシなどの木を植樹する方針を明らかにした。
 現計画で伐採予定の約90本の松は「できるだけ切る本数を少なくしたい」と述べながらも海抜約15㍍とした築山頂上の高さや避難可能人数など設計の大幅な変更はしない考えで、「松の伐採は避けては通れない場合がある」と話した。植樹本数や松の伐採本数など計画変更の内容は「これから検討し、数カ月で結論を出したい」として、それまで工事を中断する考えを示した。
 栗原市長と視察や協議をしたのは、沼津ゆかりの歌人若山牧水をたたえる沼津牧水会の林茂樹理事長と、国内外で命を守る森づくりを展開する横浜国立大の宮脇昭名誉教授(植物生態学)
 林理事長は「松を一本も切らないでほしいという考えは今も変わっていない。まだ市の計画の変更内容が具体的に見えないので、今後も話し合いを続けていきたい」と語った。宮脇名誉教授は「しっかり議論して、結果的には市民の命を守る物を造れるように努力してほしい」と話した。

(静新平成26年11月14日朝刊)

2014年11月2日日曜日

遺跡になった地下名店街 (上・下) 高地 英壽:沼朝寄稿記事

遺跡になった地下名店街 () 高地 英壽

 いま思うと、夢のような話である。
 もう、かれこれ五十年になろうか。沼津市の繁華街に、風変わりな、いや、ちょっと心ときめく地下名店街がオープンした。
 あるとき、散歩の途中立ち寄った大手町のカフェで、そのことが話題になった。
 「あの地下街は、随分、深いところにあったんだよ」「東富士と今沢の基地を結んで、旧国一を米軍や目衛隊の重い戦車が走るので、深くしたんですね」
 常連さんたちはコーヒーを味わいながら、かすかな記憶を頼りに、遠くに霞んでしまった時代を懐かしんでいた。
 街から若者の姿が減り、「地方消滅」の言葉が跋扈(ばっこ)するご時世である。
 だが、そんな現実が嘘のような話ではないかと、私はひどく刺激された。
 この街はかつて、進取の心意気にあふれ、斬新かつ向こう見ず、どえらいことに挑戦する、遠州流「やらまいか」の精神が溢れていたのだと、感慨を深くしたものである。
 地下街といえば、東京の八重洲、名古屋・セントラルパーク、川崎・アゼリア…名だたる都市の地下街は、消費文化の先端を走るファッションの総本山に成長している。
 なのに、地下に埋もれたままの沼津「味のちか道名店街」は、すでに人々の記憶の片隅に眠る思い出に過ぎない。
 しかし、この地下街にも沼津を彩った光陰の物語があっただろう。
 敗戦の傷も癒えた昭和三十年代といえば、所得倍増の掛け声の下に人々は懸命に働き、驚異的な経済成長を成し遂げた輝かしい時代だ。わが沼津,も好況に背中を押され、堂々たる中核都市の顔つきを見せていた。
 東京オリンピックの二年前、戦後のヤミ屋街が装いも新たに、洒落たアーケードの仲見世商店街に生まれ変わった。
 お洒落のシンボルはとりわけ、都会のファッションに憧れる若いお嬢さんたちをとりこにしたようだ。
 界隈には沼津商工会議所や、地元スルガ(当時は駿河)銀行、沼津信用金庫、それに三和、東海の両銀行など金融機関が集中し、人いきれするほどの賑わいだった。
 仲見世と、新仲見世の間に国道一号線が走っていた。車の交通量が多い国一を、朝、夕、それにランチどき、危険を顧みず横断する歩行者が後を絶たない。歩行者の安全を守ろうと、地下道建設計画が持ち上がった。
 市役所も商店街も行け行けどんどん、怖いものなし。明るい、酒落た地下道にしようと、名店街を誘致したのである。
 かくして、全国初の商店街付き国道下地下街が昭和四十年三月二十日、デビューした。
 地下街には、中央に幅六㍍、長さ十六㍍の通路があり、その両脇に一区画二十平万㍍ほどの商店八軒が並んでいた。南側に公衆トイレ、地下道の天井や壁に十六基の蛍光灯が点り、近代的な地下名店街を演出した。
 「味のちか道本日開店」ーこの日、三段の広告が沼津朝日新聞の紙面を飾っている。
 その開店案内には、通路の片側に、喫茶店、蕎麦とうどんの店、おにぎり屋、ふとん店がある。
 もう片方には、鰻屋、紳士服のテーラー、金魚と熱帯魚を売る養魚店、それに仲見世商店街事務局。事務局には真新しい公衆電話が置かれ、たばこやジュースを扱っていた。国道の両側の歩道に二か所ずつ、H型の出入り口があり、大都市の地下鉄の出入り口を思わせた。
 遺跡となった名店街は、いま、どんな姿で眠っているのだろう。
 ひょっとすると、街の再生を願う沼津の人々に何かを問いかけているのかもしれない。(つづく)(高沢町)
(沼朝平成26111日号寄稿記事)

 遺跡になった地下名店街()高地 英壽
 遺跡に思いを巡らせていたある日、地下街を閉鎖する際、撒収作業をしたという男性に出会った。
 「もう、三十年も前のこと。どうなっているかねえ。旧国一の歩道にはマンホールと、排気口があるんだがね」
 その人の言葉は、そんなに関心があるなら一度、遺跡を覗いてみたらどうだい、と、私の気持ちをかきたてるようなニュアンスを含んでいた。
 たしかに、マンホールと排気口はあった。数日後、遺跡を管理している市役所を訪ねた。
 上司に取り次いでくれた女性は、味のちか道のことをよく知っていた。
 「ええ、ありました、ありました。昔、私たち、あの地下街をよく歩きましたもの…」
 懐かしそうに語る表情は、かつての仲見世ファッションのお得意さんを思わせた。
 「せっかくのお尋ねですが、ちょっとご要望には添いかねます。もしものことがあったら…」
 恰幅のいい上司は、不測の事態を理由に、丁重にやんわりと断わり、私を説き伏せた。
 七十歳老人、マンホールから地下道に転落して大ケガー
 なるほど、これでは恥ずかしくて人に合わせる顔がない。
 総工費三千六百万円をかけた半官半民の地下街に入居した店は、それぞれ二百万円を市に預け、毎月五千円の家賃を払っていたそうだ。
 店の入れ替えもあり、理容店、カレーの店、やきとり屋が店を構えていた時期もあった。
 開店から閉鎖まで十七年間、地下街とお付き合いしたのが、紳士服のテーラー「トガシ」である。今も浅間町に店舗を構え、営業を続けている。
 店の代表で一級技能士の冨樫功さんは、仕事の手を休めて振り返る。
 「もの珍しさもあって、地下街は賑やかでしたよ。うちもハイカラな店構えをしたものです。自衛隊員や米国の宣教師が訪れ、紳士服を注文してくれました。地下は深かったせいか、空気が薄くて、よく睡魔に襲われましたよ」
 シャッターを下ろす店舗が目立つ昨今と違い、店を出せば売れる時代。地下街に進出したい人は多かったようだ。
 しかし、人々の生活が豊かになって、「便利さ」や「合理性」に価値を求め、体力がなまると、地下道は敬遠されるようになった。
 「階段が面倒だ。すべり台をつくってくれ」という人もいた。
 階段は三十八段もあった。沼津駅前の地下道が二十段であるから、深さは二倍。楽をしたい気持ちも分からないではない。
 階段にはひと休みする踊り場があった。その壁に、プロ野球で活躍中の巨人軍の長島、王選手の看板があり、「私たちは、階段で足腰を鍛えました」というような言葉が書かれていた。
 地下街に人を呼び込む苦肉の策だったが、国道に信号機付き横断歩道が現れると、地下道の利用者はめっきり減った。そして無用の長物となった地下道は昭和五十七年四月、ついに閉鎖に追い込まれた。
 足腰を鍛えようと、健康で長生きを唱える今日なら、世間の考え方も違っていたかもしれない。味のちか道名店街ー一席のお粗末である。
 街は生き物だ。満ち潮もあれば引き潮もある。地下名店街は、どこかで見通しを誤った公と、民が力を合わせてこしらえた、ささやかな記念碑である。私は、そう思う。
 高齢化。少子化。人口減少。難問が立ちはだかり、進むべき新しい道筋を描けずに苦しんでいるこの街に、記念碑が語るべき言葉はないか。
 「さあ?反面教師しかないでしょ」仲見世商店街の若手リーダーは、ほろ苦そうな顔をした。(おわり)(高沢町)

(沼朝平成26112日号寄稿記事)

大手町時代の商工会議所前の国道地下街入口の写真