2022年4月28日木曜日

220427レタス(飯田農園)の花 柳屋屋上菜園as







原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月28日(木)赤口」「平々凡々」旧暦3月28日

 


赤口(しゃっこう/しゃっく)

「火の元や刃物に注意すべき日」と言われており、凶や死のイメージが付きまとうため、お祝いごとでは次で紹介する「仏滅」より避けられることが多いです。 この日は午の刻(午前11時ごろから午後1時頃まで)のみ吉で、それ以外は1日大凶となります。



2022年4月27日水曜日

ウクライナから避難ネジェリコさん

 

ウクライナから避難ネジェリコさん

 


「早く戦争終わって」三島市長訪問

 ロシアの軍事侵攻を受けるウクライナ東部のドニプロから三島市に避難している家族4人が26日、三島市役所に豊岡武士市長を訪問した。ネジェリコ・マリーナさん(62)はロシアに対し、「ウクライナ人にも考えられないこと。ファシストもやっていない」と批判した。

 ほかに避難しているのはネジェリコさんの娘コベリエバ・ジュリアさん(37)と孫のミランさん(13)、ルカ君(3)。戦闘の激化を受けて5日にドンバス地方の西隣に位置するドニプロを出発し、ポーランドのワルシャワから政府が座席を確保した民間機に乗って16日に日本に到着した。現在は14年前から結婚を機に三島市に住む娘の原アンナさん(40)の自宅に身を寄せている。

 ネジェリコさんは現地の様子について「今「までの人生を全部壊している。安全な場所はどこにもない」と語り、「一日も早く戦争が終わってほしい」と切実な思いを訴えた。

 市は避難者の受け入れに向け、市民課や子育て支擾課など8課でつくる支援体制を整えた、豊岡市長はウクライナの花のヒマワリを贈り、「安心して暮らせるよう全力でサポートする」と話した。

(三島支局・金野真仁)

【静新令和4(2022)427(水曜日)20面】

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月27日(水)大安」「他力本願」旧暦3月27日

 


2022年4月23日土曜日

220423餃子の中央亭移転オープンas

220423マキヤ「ウクライナ人道危機救援金としてご寄付  金 5,000,000 円」as

餃子の中央亭が添地町に移転オープン

 




 相変わらずの人気で開店前から行列

 餃子の中央亭が添地町に移転オープン

 餃子の中央亭は、大手町の旧店舗から添地町(しゃんぴによん西側)に新築移転し、22日にオープンした。

 たくさんの花輪で彩られた店舗前には開店時刻の午前11時を前に、「オープン初日に食べたい」と9時ごろから順番待ちの行列ができ始め、店舗裏まで続いた=写真。

 年間の餃子購入額で宇都宮と競う鮫子の本場、浜松市から旅行で訪れた30代の女性は「オープン初日とは知らなかったけれど、中央亭はテレビで見て行きたいと思っていて浜松でも有名。出来たてを味わいたい」と、2時間待ち。

 静岡市から訪れた40代の夫妻は「きょうがオープンだとSNSで知って食べに来た。これまでも度々来ているが本当においしい。静岡市にも出店してほしい」と願っていた。

 市内に住む高齢の女性は「子どもの頃から何十年も通っているが、昔から変わらないおいしさ。人気が高すぎてテイクアウトの予約が順番待ちになったので、一度に大量に注文して親戚にも配っている。行列に並んででも出来たてをその場で食べるのが一番」だと話していた。 市内から妻と訪れた40代の男性は「昔からのファンで、今度は駐車場が近くにあって来やすい場所なので、移転オープンを待っていた。皮がモチッとしていて味は最高。これからも今まで以上に通いたい」と、オープンを祝っていた。

【沼朝令和4423日(土)号】

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月23日(土)先勝」「一喜一憂」旧暦3月23日

 


2022年4月22日金曜日

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月22日(金)赤口」「愛別離苦」旧暦3月22日

 


赤口とは六輝(ろっき)のひとつで、何事も避けた方が無難な日とされますが、正午(11時から13時)のみ吉とされます。六輝は六曜(ろくよう)とも呼ばれ、大安、友引、先勝、先負、赤口、仏滅のことです。 結婚式の日取り選びのときには必ずといっていいほど登場します。 全てがうまくいく日といわれ、結婚式や結納にいいといわれる日。


2022年4月21日木曜日

若い世代の”代弁者”求む

 


 若い世代の”代弁者”求む

 17日に告示された沼津市長選は、現職の頼重秀一氏の無投票当選となった。実は告示の3日前、立候補を目指し、選挙管理委員会に届け出書類を取りに来た60代の男性がいた。男性に会いに行くと、「供託金の100万円が集まったら出たい」という。

 結局、出馬には至らなかったが、男性は「頼重さんより若い人が出馬してほしいと思った。誰も出ないなら、年寄りの私でも出ようと思った」と語った。

 市長選に向けた連載記事の取材で、沼津市から最も人口が流出している世代は、2024歳の女性と知った。人口減を食い止めるためには、若い女性が住みたいまちになることが、即効性があると感じる。来年は市議選がある。若い世代の"代弁者“が多く市政に挑戦することを期待したい。

(東部総局・尾藤旭)

【静新令和4421日(木)「清流」】

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月21日(木)大安」「言語道断」旧暦3月21日

 


 文芸サークルが文集  メンバー手作りで第2集(沼朝令和4年4月21日号記事加工)

 


 文芸サークルが文集

 メンバー手作りで第2

 文芸サークルほのぼの舎(佐野貢主宰)は、メンバーが昨年1年間に書いたショートエッセイをまとめた文集「たんぽぽ」の第2集を発行した。B598ページを印刷して手作りで製本したもので、佐野主宰を含む12人が515編ずつ、110編余を収録した。

 同サークルでは、毎月第13水曜日にやさしいショートエッセイ講座、第4水曜日に川柳入門と句会を片浜地区センター会議室で開き、佐野主宰が文章やエッセイ(随筆)の基礎、川柳を指導している。

 同サークルは2017年に発足し、「創作意欲を高めるきっかけになれば」と一昨年、初の文集を発行。今回は、佐野主宰の高校時代の同級生、飯田善行さんが編集長を務めた。飯田さんは東京の出版社を退職後、沼津に戻り、同サークルに入会したプロの編集者で、手作り文集のグレードもアップした。

 エッセイは月ごとのテーマ、自由題で概ね800字程度で書き上げ、「内容は各人の心の原風景を 基にした自分史とも言えるもの。個々人の人生行路を垣間見ることができる」と飯田さん。「還暦や喜寿、傘寿を過ぎた人生のベテラン達だけに、コクのある文章をものにしている」と評している。

 エッセイは、メンバーそれぞれに小学校教諭時代の思い出、ダンスパーティーでの失敗、株価の大暴落、庭の栗の木の思い出、亡き母への感謝、海外での仕事、仕事上の失敗、家族や夫婦の思い出など様々で、佐野主宰が青春時代の恋物語を書いた。

 同サークルの大庭康作統括運営委員長は「研鎖の成果として発行した文集。自分自身の過去を見つめ、生きた足跡につながれば幸い」としている。

 なお、同サークルでは「川柳体験会」を27日午前9時半から11時半まで片浜地区センター会議室で開くが、参加者を募集している。

 「ひっかけクイズ」などの言葉遊びで脳トレを行い、初めての人でも川柳が楽しめるよう佐野主宰が指導。受講無料。筆記用具を持参する。

 申し込みと問い合わせは佐野主宰(電話08036528466、または9666037)

【沼朝2022(令和4)421(木曜日)


2022年4月19日火曜日

頼重秀一沼津市長 無投票再選(静岡新聞令和4年4月18日朝刊)(沼朝令和4年4月19日号)

 











市長選 頼重氏が再選


 他に届出なく無投票で2期目へ

 今月28日に任期満了を迎える市長選挙が17日に告示され、2期目を目指す現職の頼重秀一氏(53)が立候補を届出。届出と同時に支援者が市内全域の選挙掲示板にポスターを貼り、午前10時に沼津駅北口で出陣式を開いたが、立候補届の受け付け終了時刻の午後5時までに立候補者はなく、無投票当選が確定した。

 このため、選挙活動を終了し、5時過ぎに寿町の事務所前で支援者を前に当選を祝った。市長選での無投票当選は、いずれも2期目の1994年の桜田光雄氏、2000年の斎藤衛氏に次ぐ。

 出陣式には、駆け付けた多くの支援者とグータッチであいさつを交わしながら頼重氏が選挙カーの前に登場。山崎亨後援会長のあいさつに続き、自民党の勝俣孝明衆議院議員が「相手の顔が見えませんが気を引き締めてまいりましょう」と鼓舞。「コロナ禍で厳しい局面の中、真摯に低姿勢で市民に接し、市政の舵取」りをして、鉄道高架事業にも道筋をうけた」と評価。

 続いて立憲民主党の渡辺周衆議院議員が「市民目線の活動の成果が表れている。沼津市活性化のための大きなプロジェクトの中で、誰も置き去りにしない、きめの細かい政策を進めてほしい」と期待した。

 自民党の牧野京夫参議院議員は「鉄道高架事業が現実のものとなり、沼川新放水路の整備が急ピッチで進められ、東部拠点都市としての準備が整いつつある。各方面に働きかけた成果」だと強調。

 市内選出の杉山盛雄、蓮池章平、曳田卓、加藤元章各県議が順に登壇し、「歴代市長にできなかった鉄道高架化問題を解決。災害対応は素晴らしかった」、「来年市政100周年を迎えるが、若さと実行力で次の100年に向けたスタートを」などと、それぞれがエールを送った。

 これを受けて頼重氏は「全身全霊をもって取り組んできた」と4年間を振り返り、鉄道高架事業が「政争の具」となり、推進派と反対派で市民が分断された状態が長期にわたって続き、「足の引っ張り合いによる対立で多くのチャンスを逃してきた」と主張。「沼津を本来あるべき姿に戻すには課題を解決し、国や県と強固に連携して、県東部の中核をなす豊かなまちづくりをしなければならない」とし、「市艮、市政が一つにまとまり、融和、融合することが必須条件。これから4年間、沼津を一つにして力を結集し、まちづくりに取り組む」とした。 沼津版スマートシティと組み合わせた広域交通ネットワークの整備、スポーツを活用したまちづくり、コロナ禍を考慮した行財政運営、防災対策、定住・関係・交流人口の拡大、特産品のブランド化徹底、担当部課を横断した企業誘致活動などを挙げ、「コロナ禍やウクライナ情勢など先行き不透明な時代の中、極めて困難が生じることも覚悟し、沼津の課題を共有して明るく輝く沼津市にしたい」と訴えた。

 引き続き、ダルマに片目を入れてガンバロー三唱を行い、選挙カーに乗り込んだ頼重氏は、市内を巡って支援を呼ぴ掛けた。

 立候補届の受け付け終了時刻の午後5時前には、寿町の事務所前に支援者が集まり、5時過ぎに後援会の大橋裕之幹事長から対立候補がなかったため当選が確定したことが伝えられると、拍手に迎えられた頼重市長が登壇し、支援者と共に万歳三唱、花束贈呈があり、ダルマに目を入れた。

 頼重市長は「4年間いばらの道だったが、9年間代議士秘書、4期市議を務めてきた実績と経験で乗り切ることができた。コロナ禍の中、世界的に大きな紛争も起きており、2期目を目指すのは並大抵の決意ではなかった。今回の選挙で身を引いてくれた人、応援してくれる人達のバックアップで今回の結果が得られた」と振り返り、支援に感謝。

 また、「これまで培ってきた経験、支えてくれた人達の人脈は、私にとっての宝。これを原動力に、『東部地区は、やはり沼津』だと言われるよう、東部地区を盛り上げたい。近隣市町との連携も重要で、国、県と連携して沼津を盛り上げていきたい」と話した。

 なお、現在、市内全域に設置された選挙掲示板は20日までに撤去し、頼重市長には25日に当選証書が付与される。

【沼朝2022(令和4)419(火曜日)




原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月19日(火)先負」「森羅万象」旧暦3月19日

 


2022年4月18日月曜日

「伊豆石文化探究会」(剣持佳季会長) 伊豆石の建造物 沼津に293棟分布

 

 伊豆石の建造物


沼津に293棟分布

探究会まとめ県東部412

 沼津市の「伊豆石文化探究会」(剣持佳季会長)はこのほど、県内の伊豆石で作られた石造建造物の分布調査の結果をまとめ、県東部の5市町(沼津、三島、長泉、清水、函南)には計412棟の分布を確認したことを明らかにした。剣持会長は「このうち沼津市には293棟が存在する。日本を支えた伊豆石産業だが、なかでも県東部が重要な地であることが分かる」と結果を分析する。

 同探究会によると、伊豆石は伊豆半島やその周辺で採れた石材の総称で、江戸ー昭和初期に建てられた建物の多くに使用されたという。

 調査は2019年から約3年間かけ行い、会員が5市町内の道を歩き建物を探した。建物の位置と特徴を記録、写真を撮影し、データ化してまとめたという。聞き取り調査も行った。

 同探究会は、3月中旬には頼重秀-市長へ研究成果を示した。剣持会長は「伊豆半島にとどまらず、日本各地に影響を及ほした伊豆石文化圏をより明確に分析し、再評価につなげたい」と今後の研究への意欲を語った。

 同探究会は、来年の沼津市制100周年を機に一新する「ぬまづの宝100選」に、伊豆石が新たに選ばれるよう活動を続けている。

【静新令和4418日(月)ワイドしずおか】

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年4月18日(月)友引」「温故知新」旧暦3月18日

 


2022年4月17日日曜日

両総戦争で重傷負った江原翁  助けた名主の子孫らが来沼 【沼朝令和4年4月17日(日)号】

 

 両総戦争で重傷負った江原翁

 助けた名主の子孫らが来沼


 千葉県船橋市山野町で郷土史を研究する「かつしか歴史と民話の会」の会員らが先月29日、沼津を訪れ、江原素六生誕180周年・没後100周年記念事業への寄付などを行った。

 時代が明治に変わる直前、両総戦争(市川・船橋戦争)に参加し重傷を負った幕臣の江原翁は地元住民達の世話を受け、名主の石井金左工門ほか3軒が1カ月間、江原翁をかくまった。

 最近になり、山野町で郷土史を研究する人達によって、こうした事実が明らかにされてきた。同会の新川博さんは、山野の歩みを研究する中で江原翁とのかかわりを発見した。

 江原素六先生顕彰会の土屋新一会長とも交流を図るようになり、今回の来沼の運びとなった。

 新川さんを先導役に、金左工門の子孫で山野町内会副会長の石井秋弘さん、「かつしか歴史と民話の会」代表の佐藤百代さんが頼重秀一市長を表敬訪問。記念事業に対して山野町町内会からの寄付金を個人的な寄付金と合わせて土屋会長に贈呈した。

 石井さんは「うちが名主だったことも、江原素六をかくまったということも最近になって初めて知った」と言う。

 新川さんらが調べたところによれば、山野の人達は名主のもと、皆で合意。穴を掘って脱走兵らを隠すなどしてかくまった。当時、官軍に対抗していた勢力の脱走兵をかくまうのは極めて危険なことだったが、山野の人は「脱走様」と呼んで助けた。

 江原翁は銃弾を受けていて、ここで手当てを受けるなどして過ごした後に江戸に戻った。

 山野の人達は、こうした施しについて声を大にして言うことはなかったため、子孫にさえ、その事実が伝わってはいなかった。

 【1枚の文書から】こうしたことを新川さんが調べた際、講談師の田辺鶴遊(かくゆう)さんを介して、沼津の土屋会長と通じるようになり、土屋会長は手がかりを明治史料館に求めた。

 同史料館の学芸員は所蔵する膨大な史料の中から、ほどなく1枚の覚書を探し出した。13万点程ある所蔵史料の中に、江原翁関連のものだけでも8000点近くあると言い、その中から、たった1枚の文書を探し当てるのは容易なことではないはずだが、それが学芸員の学芸員たる所以か。

 この覚書は、江原翁の次男、次郎氏が書き付けたもので、「亡父が慶應四年両総戦争の時関係したる人々」として、「名主石井金左工門 藤田勘左工門 鶴岡伊右工門 三須次郎兵工」の名が連ねられ、「曽て父上船橋町佐渡屋旅館ニ右諸氏を呼ビ報恩ノ宴ヲ張レリ」とあり、これによって山野の人達とのかかわりが明らかになった。

 最初に江原翁をかくまったとされる藤田勘左工門の子孫に当たる人は今回の来沼はかなわなかったが、メッセージを寄せ、「江原素六が体を休めたのが偶然、わが家だった。1世紀半も前のことだが、祖先の善行を誇りに思う」と綴った。

 戦いの時代、死の崖縁も見た江原翁 強さと心根の優しさ兼ね備えた人物像が 【武人としての江原翁】 時代が江戸(慶応)から明治に変わると江原翁は沼津に移り住み、教育者や政治家として数々の功績を残したとは、よく知られているが、戊辰戦争では武人として大隊を率い、戦いに臨んだ。当時の名は「江原鋳三郎」。


 1859(安政6)年、17歳で幕臣となると、やがて頭角を現し出世。1868(慶応4)1月、鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍が敗走する混乱の中、冷静な判断で撤退。江戸に帰ると撤兵頭に昇進した。

 官軍に対する徹底抗戦を叫ぶ者が多い中で、江原翁自身は勝海舟の恭順論に賛成で、官軍の求める武装解除を受けるつもりだった。

 しかし4月、江戸開城の直前、江原翁の上官である撤兵隊長の福田八郎右衛門は、隊士2000人を率いて江戸を脱走し、木更津に陣を置くと「徳川義軍府」と称した。江原翁もやむを得ず部下の後を追い、脱走軍に身を投じることになった。

 徳川義軍府は本営を真里谷(まりやつ)に移すと、上総・下総で勢力の拡大を図り、第一、二、三の各大隊を市川、船橋、姉ヶ崎まで北上させ、江戸に迫ろうとした。

 江原翁は第一大隊の300人を指揮して、法華経寺(市川)に布陣し、ここが官軍との最前線となった。

 はじめは官軍との間で和平交渉が続けられたが決裂し、第一大隊が八幡駐屯の官軍を急襲すると、戦闘が開始された。この日の戦いは市川と船橋を中心に行われたので、両総戦争の中でも「市川・船橋戦争」と呼ぼれている。

 江原軍は、はじめのうち善戦し、江原翁も宮軍から奪った大砲を自ら操作するなど奮闘。しかし、やがて盛り返した官軍に圧倒されることになる。

 そんな最中、江原翁は市川の海神(現在は船橋市の地名)で、官軍の小室弥四郎と格闘。この時のことは古川宣誉(ふるかわ・のぶよし=幕臣、後に陸軍中将)が後に「脱走始末私記」に書いているが、まさに取っ組み合いとも言える格闘で、江原翁は丸腰で小室に突っ込んでいった。

 その時、古川が斬るように言ったにもかかわらず、江原翁は格闘し、ついには組み伏せられて喉元に脇差を突きつけられたが、すんでのところで助けられた。古川の剣により命を落としたのは小室の方だった。

 しかし、この直後、銃を持つ敵方が江原翁を撃ち、左腿に貫通する銃創を負わせた。大動脈を外れていたため一命は取り留めたものの、江原翁は動けなくなり、戦線を離脱せざるをえなかった。


 ここで江原翁を助けたのが山野の人達。賊軍をかくまうことは自らの身に危険が及ぶことでもあったはずが、名主である石井金左工門が率先。村民達も協力して江原翁をかくまった。

 その後、出版された『当世武勇伝』には、いかにも強靭そうな小室弥四郎が錦絵に描かれている=右の写真(明治史料館蔵)。この人物に格闘を挑んだ江原翁も強く勇ましい姿であったことは想像に難くない。

 江原翁は後年、小室の遺族があれば扶助したいと、その存否を尋ねたが、見つけることはできなかった。

 さらに、山野で世話を受けた人達に対しては、「報恩の宴」を設けて恩返ししていたことが覚書から明らかになった。

 【内面の強さをあらわした素六像】江原素六生誕180周年・没後100周年記念事業の一環として、沼津駅北口に江原翁の銅像が建立され、515日に披露される。

 制作者である彫刻家の堤直美氏は、その人物の内面を映し出すような彫像でなければならないと考えている。江原翁については「あらゆる本を手に入れて徹底的に調べた」と言い、昨年、銅像の原型が披露された際には力強さが滲み出るような姿がうかがえた。

 沼津では教育者、政治家、産業人、キリスト教者として人々のために尽くした。晩年の江原翁を思えば、穏やかで優しい印象が浮かぶという人は多いだろう。

 江原素六先生顕彰会の土屋会長は「動乱の時代に戦いを生き抜く強さがなければ、その後の実績もなかっただろう」と話す。

 貧しかった子ども時代から、強い向学心を持って自分の道を切り開き、幕臣となってからは下級武士から大隊長にまで上り詰めた。「意志が強い人であったことは間違いない」と土屋会長は言う。

 さらに、「山野の人に助けられたのも江原先生の人柄に人をひきつけるものがあったからではないか」と見ている。

 死に直面する体験もあったからこそ、後年には滅私と言えるほど人のため尽くすことができたのかもしれない。さまざまな社会事業にも関与し、女性、子ども、労働者、外国人、病人など社会的弱者のために活動した。

 強さと心根の優しさを兼ね備えた人物像が浮かび上がる。

【沼朝令和4417日(日)号】