2016年12月25日日曜日

情報サイト休止 影響力の大きさ自覚を

 
 情報サイト休止 影響力の大きさ自覚を
 IT大手が運営する情報サイトが相次いで休止したり、記事が削除されたりする事態となった。内容の誤りや他サイトからの無断転用があると指摘されたからだ。メディアとしての自覚と責任を改めて確認すべきだ。
 問題となったのは、医療・健康やフアッション、観光・旅行など利用者の関心が高い特定のテーマごとにまとめられた情報サイトで、手軽に情報を得られるため人気になっていた。発端はディー・エヌ・エー(DeNA)が運営する健康情報サイトで、掲載記事に医学的な根拠のない誤った内容が多く含まれていると問題視された。
 ネットメディアは大きな影響力を持っている。にもかかわらず、問題のあったサイトでは、専門家による監修を受けずに医療情報を提供したり、ライターに他サイトからの無断転用を推奨しているかのような指示もあったりしたという。一方でこうしたサイトには広告が掲載され、利用者の閲覧回数が増えれば増えるほど広告料収益が増える仕組みになっている。
 業界を代表する大手企業が利益を優先し、記事の正確性などメディアとして重要な要素を後回しにしていたとすれば、あってはならないことだ。特に医療や健康関連の情報は、その影響に配慮するのは当然だ。情報を発信しておいて真偽の判断は利用者任せというわけにはいかない。
 DeNAは「成長を追い求めて正しい情報への配慮を欠いた」として10あった全ての情報サイトを休止。他の大手サイトでも記事の公開中止や削除が行われた。DeNAは弁護士による第三者委員会を設置し、企業風土も含めた原因調査と改善に向けた検討を始めた。メディアとしての公共性や社会的責任を再確認し、信頼回復を図ってもらいたい。情報の確かさを担保するには、コストをかけた裏付け取材や内容のチェックが不可欠となろう。
 検索サイトで検索をかけると常に上位に表示される仕組みも、行き過ぎれば情報の価値をゆがめる恐れがあることに留意する必要がある。サイトの一部では、検索に引っ掛かりやすいように利用者の関心の高いキーワードを織り込んで文書を作るよう指示が行われていたとされる。
 アクセスが多い情報が正しい情報とは限らないことを、利用者側もしつかりと理解しておかなくてはならない。
手軽に入手できるネット情報は玉石混淆(こんこう)だ。いかに良質な情報を手に入れるか。ネットメディアの使い方を理解して活用する能力の必要性は、より一層高まっているといえよう。

【静新平成281225()社説】

2016年12月1日木曜日

国鉄沼津機関区創立百三十年 山梨孝夫(沼朝:言いたいほうだい)




 国鉄沼津機関区創立百三十年 山梨孝夫
 年輩の方はご存知と思いますが、今から三十年前の昭和六十二年まで、沼津駅北口の、現在プラサヴェルデがある場所に国鉄沼津機関区がありました。
 沼津機関区の前身である沼津機関庫は、東海道鉄道の建設拠点として明治十九年十二月一日に創設されましたので、きょう十二月一日は創立百三十年の記念日になります。
 建設工事は驚異的な速度で進展し、明治二十二年二月一日に国府津~静岡間が開業、続いて七月一日に新橋~神戸間が全通しました。
 全線開通後の沼津機関庫には、急勾配が連続する箱根越え区間の補助機関車の基地としての任務が与えられ、昭和九年十二月に丹那トンネルが開通するまでの四十五年間、東海道本線の最難関区間を運転する蒸気機関車の運転と検修の基地として、重要な役目を果たしてきました。
 昭和五年から運転された超特急「燕」の運転と機関車の整備を任されたことは、当時の沼津機関区が第一級の機関区として認められていたことを物語っています。
 丹那トンネルが開通し沼津まで電化されると、最重要幹線である東海道本線で首都東京の入り口に位置する、電気機関車の運転拠点としての役割が与えられました。
 戦後、電化が西進するとともに、その役割も変化してきましたが、後にディーゼル動車や電車も配置され、引き続き東海道本線の主要な運転基地として位置付けられてきました。
 しかし、モータリゼーションの変化に伴い、国鉄貨物輸送のシェアが減少し、国鉄の果たす役割が変化する中で、昭和六十年代になると、国鉄の分割・民営化が論議されるようになりました。
 そして、民営化を前にした昭和六十一年十一月一日のダイヤ改正で機関車の配置が無くなり、機関区の名称も変更されることになりましたが、「九十九年九カ月で沼津機関区の名前が消えてしまうことは避けたい」との関係者の思いを各方面へ訴えた結果、辛うじて沼津機関区のままで昭和六十一年十二月一日の創立百年の記念日を迎えることができました。
 その後、分割・民営化直前の昭和六十二年三月一日に、沼津運転区と名称変更したことにより百年と三カ月の沼津機関区の歴史に幕を降ろしました。
 昭和六十一年の夏には創立百周年記念行事として、「ロコモティブフェアーイン沼津」として機関車展示会を開催、沼津機関区百年史を刊行し、百周年を祝いました。
 キラメッセぬまづの北側歩道に、「この場所に国鉄沼津機関区があった」ということを示すモニュメントが沼津市により設置されています。また、先月二十八日からプラサヴェルデ一階と二階の廊下に、沼津機関区に関係する写真を展示しています。
 沼津駅北口へおいでの際にモニュメントや写真をご覧いただき、三十年前までこの地に国鉄沼津機関区があったことを、市民の皆様の記憶の片隅に残していただけたら幸いです。(元沼津機関区職員、西添町)

【沼朝平成28121()「言いたいほうだい」】




2016年11月4日金曜日

平成28年11月4日(金)午前7時30分ごろ、旧国道添地交差点(歩道橋)交通事故現場写真

平成28年11月4日(金)午前7時30分ごろ、旧国道添地交差点(歩道橋)交通事故現場写真
よく分からないが、未確認ですが、歩道橋から人が落ち、車とぶつかったか、
車が止まっていた前に落ちたか、車道を人が渡っていて車とぶつかった分からない。
現場撮影時には人はいなく、血痕が道路に、警察官が歩道橋の上で調べいた。

2016年10月18日火曜日

紅野氏、沼津商議所次期会頭 就任を辞退

沼津信金元職員1・2億着服
 御殿場南支店勤務 顧客定期預金解約
 沼津信用金庫(紅野正裕理事長)は17日、御殿場南支店に勤務していた40代男性の元職員が2010年1月ごろから16年9月にかけて、顧客の定期預金解約金などを着服していたと発表した。これまでに判明した金額は約1億2300万円。同信金は9月26日付で元職員を懲戒解雇した。刑事告訴についても準備を進めているという。
 8月中旬に、顧客から定期預金について不審な点があると同支店に連絡があった。同信金が内部調査を実施したところ、9月21日までに、12件の顧客の定期預金から現金をだまし取っていたことが分かつた。元職員は在職時、渉外担当で、着服した金は遊興費などに充てていたという。同信金は外部弁護士を含む調査委員会を設置して事実関係の確認を進すめ、被害額全額を弁済するという。
 同信金は「お客さまに多大なご迷惑をおかけし、心よりおわび申し上げます」とコメントした。今後、役員や関係職員の管理責任を明確化し、処分を行う方針。

 沼津商議所新会頭岩崎氏昇任へ
 紅野氏、就任を辞退
 10月末に任期満了で退任する意向を表明した沼津商工会議所の市川厚会頭(82)=石川建材工業相談役=の後任として浮上していた紅野正裕副会頭(62)=沼津信用金庫理事長=が、信金内の不祥事を受け会頭就任を辞退したことが、17日までの同商議所関係者への取材で分かつた。
 石川会頭の後任には岩崎一雄筆頭副会頭
(76)=税理士法人イワサキ代表社員=を昇任させる人事案で固まった。19日の常議員会で内定し、28日の臨時議員総会で決定する。
 岩崎副会頭は2007年に同会議所常議員に就任。10年から副会頭を務めている。
【静新平成28年10月18日(火)朝刊】

2016年8月20日土曜日

水葉亭、月末閉館へ
 熱海の景況に影響も
 熱海市伊豆山のホテル水葉亭が8月末で営業を終えることが、19日までの複数の関係者への取材で分かった。市内有数の大規模ホテルの廃業は、宿泊客増に沸く熱海温泉の今後の景況に影響を与える可能性がある。
 売却され新施設に生まれ変わることも想定されるが、関係者に具体的方針などは明示されていないという。水葉亭の幹部は静岡新聞社の取材に対し「答えられない」としている。
 水葉亭を巡っては3月ごろ、旅館ホテルの再生事業を全国で展開する企業に売り渡されるとの情報が広まったが、最終局面に入って交渉が決裂していた。施設は一部老朽化し、新たな事業者が宿泊施設の形態を続ける場合もリニューアル工事が必要になるという。
 ホームページなどによると、水葉亭は地上11階建て、70室以上の客室を誇る伊豆山地区を代表する地元資本のホテル。国道135号に面した斜面に建ち、相模湾を一望できる大露天風呂や大宴会場などが名物。
(熱海支局・荻島浩太)
 宿泊客数激減を懸念
 熱海温泉屈指の大型宿泊施設ホテル水葉亭の閉館が19日までに明らかになり、地元の観光業関係者は驚きの声を漏らすとともに、今後の対応に頭を悩ませた。
 2015年度の市内宿泊客数は14年ぶりに300万人を突破し、業界は好況感に沸く。市内各地区の旅館組合でつくる連合会の幹部は「負債などはないと聞くが、従業員の雇用をどうするかなど詳細が分からない」と今後の行方を不安視し、「近隣や中心部の加盟ホテル・旅館の稼働率を高めるなど対応策を迅速に講じ、影響を最小限に食い止めたい」と話した。
 水葉亭は100人規模の大宴会場を有し、県内外の団体客をはじめ地元の各種組織も愛用してきた。社交飲食業に携わる男性(47)は「夜の魅力を提供できる場がまた一つ減る」と影響を懸念する。
 企業などの一大保養地として知られた熱海温泉だが、団体客受け入れの象徴的存在だった熱海後楽園ホテルの旧館「みさき館」も8月末で営業を終える。みさき館と水葉亭で年間計20万人前後を受け入れてきたといわれ、秋以降の宿泊客数が大幅に減る事態が懸念される。
【静新平成28年8月20日(土)朝刊】

2016年8月19日金曜日

2016年6月2日木曜日

大腸がん治療の最前線


大腸がん治療の最前線
 国際ソロプチミスト駿河特別講演会
 県がんセンター絹笠祐介医師が解説
 国際ソロプチミスト駿河は、特別講演会(一般市民公開講座)を先月、ホテル沼津キャッスルで開催。県がんセンター大腸外科部長の絹笠祐介医師による「"手術支援ロボット"による大腸がん治療の最前線」をテーマとした話を聴いた。
 優れた手術支援ロボット
 がんセンター大腸では活用例が全国1
 絹笠医師は、大腸では便とガスが作られ、栄養を摂取する臓器ではないので、なくても生きていけるため、病気によっては全部を取る場合があることや「ポリープ」と言うと病気をイメージする人も多いが、「ポリープ」は病気の名前ではなく「盛り上がっているものは全部、そう呼んでいる」ことなどを説明した。
 大腸ポリープの80%は腺腫と呼ばれるもので、大腸がんの多くはこの腺腫から発生すると考えられている。腺腫は悪化すると大腸の壁の中に入っていく進み方をするといい、腸壁内部にはリンパ節や血管があるので、リンパに転移したり別の臓器に転移したりすることになる。
 大腸がんは、ステージゼロではポリープと同じ立ち居振る舞いをするので保険が下りないが、ステージゼロというのは適切な処理をすれば一〇〇%治ることを意味する。ステージⅡになると立派な進行がんと呼ばれ、さらに進んだステージ皿で発見されることが多いという。
 がんは、放置されたままでいいというものは、ほとんどないため、早期発見と早期治療が大事になってくるが、大腸がんはステージⅢでも五年生存率が七七%で、多くの人が手術すれば治る。
 便に血が混じって大腸がんが分かることもあるが、日本人の多くは痔を持っていて痔の血を区別するのは難しい。
 内視鏡検査でも、腫瘍などで塞がっている個所があると、そこから先にカメラが進めないため診断ができず、見つかった腫瘍を取り除いた後の一年後の検査で前回検査で判別できなかった場所からがんが見つかるようなこともある。
 このため、仮想内視鏡診断という検査方法を使うことが年々増加していて、今は内視鏡検査とほぼ同数、検査が行われている。
 これは、現実の腸ではなくCG(コンピュータグラフィックス)を用いて再現した腸の内部を映して診断するものだが、現実のものを見るように内部を再現できる。
 検査前に腸を空っぽにしておくのは内視鏡検査と同じ。
 絹笠医師は手術について「腸を取ること自体はそれほど難しい手術ではない。(それより)リンパの手術をする方が難しい」とし、リンパは腸のような単純な構造でなく腸壁の内部に隠れた場所であることと器官の細かさが手術を難しくさせていることを説明した。
 また、狭い隙間や肛門が近い部位の手術も困難だといい、外科医の技術レベルによって「(ある病院で)『肛門が残せない』と言っても、残せる(技術を持った)所(病院)もある」という。
 排尿や性機能の器官の近くは特に難しく、「手術を受ける医療機関をしっかり選ぶべきだ」とアドバイスした。
 次に、腹腔鏡手術について説明を移すと、開腹手術の代わりに腹腔鏡手術を行うことが現在は増えている、と説明。傷と痛みが少ないのが大きな理由だが、がんを退治することに命を懸けている医者の立場からすると、開腹して、しっかり見た方が安心できるという。
 また、国内トップの病院三十を比べると、開腹手術後に合併症などを起こしたケースの割合は大きな違いはないが、腹腔鏡手術ではトップ30でも合併症が起きる割合に大きな違いがあり、腹腔鏡手術の技術には、まだ大きな差があるという。
 「腹腔鏡手術が、なぜ難しいのか。この手術は三人で行うが、三人が共に、この手術に精通していることが求められる。腹腔鏡手術は習熟に時間を要する。多くの経験が必要になる」とした。
 しかし、経験を積めば精度の高い手術ができるようになる、という。
 県がんセンターでは平成二十三年十二月から稼動している手術支援ロボット「ダ・ヴィンチ」による大腸手術の件数が、全国でも圧倒的に一位。
 絹笠医師は、腹腔鏡手術では三人の医師の腕を六本使うが、ダ・ヴィンチでは一人で四本の腕を操ることができ、助手の手を借りる場面が少なくなってきたことを説明。
 「まるで患者さんの、お腹に乗り込んで手術をしているような感覚になる。小さい自分の小さな手が、お腹の中に入って手する感覚」だと話した。
(沼朝平成28年6月2日号)

2016年5月5日木曜日

まつり出演へ甲冑作り

まつり出演へ甲冑作り
 沼津内浦小 段ボールを加工
 沼津市立内浦小の4~6年生17人でつくる「内浦小甲胃(かつちゅう)隊」がこのほど、自分たちが着ける段ボール製の甲胃を同校で作った。同市で22日に開かれる「第2回長浜城北条水軍まつり」で身にまとい踊りを披露する。
 同市観光交流課担当者らの指導の下、切れ目の入っている段ボールから甲胃の部品をくり抜き、開いている約300カ所の穴に荷造り用の紙テープを通してつなぎ合わせた。甲冑の胴や肩の部分の袖、腰回りの草摺(くさずり)を作った。胴の部分に好きな絵を描いて、自分だけの甲冑に仕上げる児童もいた。
 甲胃作りと同まつりへの出演は昨年に続き2年目。6年生の土屋颯河君(11)は「昨年は自分の分を作ったので、今年は下級生の甲冑作りを手伝った。まつりでは楽しんで踊りたい」と話した。
【静新平成28年5月5日(木)朝刊】

2016年3月27日日曜日

沼津市 送水管理センター完成 建て替えで災害時対応強化


160327泉水源地一般公開 from 河谷杯歩 on Vimeo.

「海軍の遺産・沼津水源地・抜粋」 著者 今井 三好 

・・・・・ちょうど其の頃、東京水道局はこの地方の水源から水をとって箱根越えで東京迄水を引く計画があるのを知って、水道局を訪れ情報を聞こうとしたが海軍に取られては困ると考えてか詳細には教えて貰えず、やむなく自力で現地を調べることになり、沼津駅から徒歩で半日も歩いて現在の沼津市水源池である柿田川湧水にたどりつきました。それまで写真伝送や伊豆大島でラジオビーコンの送信所の建設をしていて、水に悩まされ続けていた私を驚かせたのは、一日の水量が何と一二〇万トンという清らかな水が渾々と湧き出していることであった。
 早速この豊富な水を利用することに決まり、艦政本部ではすぐ予算をつけてくれたが、同時に地元の利害をも考え市と相談し、経費節減の意味からも半額を出して貰って市にも水をやるようにとの事であった。
 早速、名取沼津市長に其の旨申上げて議会に上程したが、急なことでもあり市財政の赤字を理由に断って来たので止を得ず海軍だけでつくる事になった。
 水源地は静岡県駿東郡清水村八幡泉で清水製紙焼跡一帯がえらばれた。
 工事は横須賀海軍施設部が直営で、私はオーナー格で指揮に当っていた。工事の中途で、韮山の江川代官がつくったという用水取水口が出て来た。当時ここから田方平野に水を引いていたと思われる代官の偉大さと遠大さにうたれました。
 工事については狩野川の底を通す送水管の前例が我が国にはないので、技研の文献室にドイツの文献を取り寄せて貰い、ライン川の川底の事例を頼りに川底工事に成功いたしました。送水管の径一二〇ミリのものであった。こうして川底を渡した水をいったん高台の五〇〇トン入り貯水池にポンプアップして、最高時で一五〇〇人もいた技研の人達の生活用水と、研究用プールの使用にあてた。その外の水源地としては江の浦の基地用と多比の工場用をつくりました。
 その頃沼津海軍工廠が出来ることになって、東京市水道局から嘱託として海軍工廠に猿渡さんが来られ、私に協力を求められましたので音響研究部の工事の忙しい中を許可を得て香貫山中腹海抜五〇米のところに配水池を建造した(送水管径五〇〇ミリ)。工事はカンテラを吊して素掘工事であった。
 現在の市水道の水瓶である(現在貯水池を香貫山の中腹に貯えてポンプアップして大容量の準備が出来ている)当時は海軍工廠に引く迄には至らなかったが貯水池は完成していた。
 終戦直後沼津市としてもこの水道を移管して貰いたいとの事で芝辻一郎沼津市長から混乱のさなか市産業課長青木昇平(県会議員)さんを随行させるからという事で横須賀海軍施設本部の焼津の疎開先又横須賀の鎮守府にと懸命に廻り管財局に仮移管を御願した。
 そのことは沼津市水道事業の沿革の一節に沼津市が旧海軍から水道の移管を受けた当時の経緯が記されている。
 今にして思えば、沼津市の皆さんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水が出ていたので、何も高い施設費を払って水道をつくることはないという一般的な考えがあって、当時赤字財政を理由に水道投資の辞退を申出たのでしょうが、それにしても朝に晩にこの水を飲むことが出来る市民は幸である。
 現在二〇万人口で八五パーセントが日量一〇万トンのこの水でうるおって居り、水道料金も全国一安いといわれている。
(一)清水村八幡に水を洩らす話
 或る日、八幡の代表数名の方が見えて地元の私達に海軍の水を分けて貰い度いとの要求がありました。地元という事で上司に報告したところ、公然と水を分けてやる事は出来ないが、洩れる分には致し方なかろうという事で、私は地元に水を洩らすことになり、これが現在の清水町に水が行くことになった元だと思います。・・・・・
 これは概略の部分ですが、今井さんの著書の一部です、海軍の上水道施設が沼津市のものになった経緯が分かると思います。



↓pdf資料



清水町史資料より泉水源関連資料↓

2016年3月25日金曜日

満開の桜「だいこくや」さんの壁彩る

 卒園児の満開の桜菓子店の壁彩る 沼津
 沼津市内の6幼稚園の園児による合同卒園製作「みんなで花を咲かせましょ」が4月10日まで、沼津市町方町の沼津アーケード名店街の菓子店「だいこくや」で開かれている。桜の木をイメージした園児らによる巨大アートが花開き、店内の壁を彩っている。
 県東部ゆかりのクリエーターでつくる「EN」が企画した。4月に小学校に入学する中央、梅花、原町、春の木、みくに、ルンビニの6幼稚園の園児約230人が手形を押した紙を花びらに見立て、ENのメンバーが壁に立体的な幹を作って大きな桜の木を完成させた。
 園児は「サッカー選手になりたい」「100点を取る」など、将来の夢や入学後の目標も書き込み、来店客は満開の桜のアートを楽しんでいる。
 同店は26、27日のそれぞれ午前10時半と午後2時から、チョコレート菓子やせんべいにデコレーションする「お菓子のワークショップ」を開く。参加費300円。問い合わせはだいこくや〈電055(962)0619〉へ。
【静新平成28年3月25日(金)朝刊】

2016年2月20日土曜日

スカンジナビア建造90年 記念の講演会と思い出語る会

スカンジナビア建造90年
記念の講演会と思い出語る会
西浦木負のカフェ&ランチ海のステージは、「ステラ・ポラリス(スカンジナビア)の航海」と題した建造九十年記念講演と、思い出を語る会を二十七日午後一時半から店内で開く。
スカンジナビア号は一九二六年、クルーズ客船「ステラ・ポラリス」としてスウェーデンで建造。四〇年にナチスドイツ軍に接収され、Uボート乗組員の休憩所に使われた後、戦後の四六年にスウェーデンに戻ってクルーズ船に復帰したが、七〇年に日本の企業に売却された。
日本では西浦木負に係留され、フローティングホテル・スカンジナビアとして営業を開始。長年市民に親しまれ、その後、レストラン事業に業態を変更したが、業績悪化で二〇〇五年に営業を終了した。
〇六年にスウェーデン企業への売却が決まり、中国上海で修繕するため八月三十一日、タグボートに引かれて木負を出航したが、九月二日、和歌山県沖で沈没した。
同店では、スカンジナビア号を偲ぶ資料館を店内に設けて縁の品を集め、出港前に譲り受けた思い出の品と共に一般公開しており、沈没から十年を迎えるのを前に企画
した。
マリンジャーナリスト会議の田久保雅己会長が記念講演を行い、ワールドシップソサエティ日本代表の府川義辰さん、スカンジナビアを保存する会代表の太田黒敦夫さんら四人を交えて対談する。
引き続き映像を見ながらケーキとお茶を楽しみ、思い出を語り合うティーパーティーを行う。 参加費二千円。定員四十人で事前予約制。
問い合わせは同店(電話九四六ー二八〇〇)。
【沼朝平成28年2月20日(土)号】


















スカンジナビア"航跡"後世に
和歌山沖沈没から10年


















27日沼津 地元有志がシンポ
1970年に沼津市西浦木負の沖合に係留され、ホテル・レストランとして親しまれた豪華客船「スカンジナビア」(旧名ステラポラリス)が和歌山沖で沈没して10年目。ことしは進水式から90年の節目でもあり、地元関係者らが27日に同市内でシンポジウムを開く。船の遺品の展示も交え、同客船の"航跡"と文化的意義を検証する。
シンポジウムの会場は客船が浮かんでいた海辺にある飲食店「海のステージ」。同店オーナーで、客船の現地保存を訴えた「スカンジナビアを保存する会」元事務局長の前島希久也さん(76)が「スカンジナビアは沼津の海の文化の一側面。『伝説の船』の意義を後世に伝えたい」と企画した。
ヨットやボートの専門出版社「舵社」(東京都港区)の常務取締役の田久保雅己さん(62)が講演し、「保存する会」元会長の大田黒敦雄さん(59)=長泉町=らを交えて思い出を語る。田久保さんは「上流社会の人々が世界を巡る客船の先駆け。客室、調度品、メニューなど全てが現代の豪華客船の原型になった」と評価する。
関連企画として、27日から3月訂日まで海のステージ内資料館で特別展を行う。約90年前に作成された大判の設計図、進水式で用いた銀製のフルーツ器、ガラスレリーフなど同客船の備品約80点を公開する。前島さんは「スカンジナビアの優美な雰囲気を感じてほしい」と願う。
シンポジウムは事前申し込みが必要。参加費は茶会、献花を含め2千円。問い合わせは海のステージ〈電055(946)2801〉へ。
※ スカンジナビア 1925年、ノルウェーの船会社がスウェーデンの造船所に発注したクルーズ専用船。26年の進水式で「ステラポラリス(北極星)」と命名され、翌年完成した。全長127㍍、全幅16・7㍍、全高44㍍。当時としては画期的なディーゼルエンジンで、60年代まで欧米の富裕層を乗せて世界中を巡った。70年に沼津市で「スカンジナビア」に改名し、ホテル、レストランの営業開始。2005年までに約350万人が利用した。06年、スウェーデンの企業に売却され、同国へえい航中の9月2日、和歌山県串本町の沖合で沈んだ。
【静新平成28年2月24日(水)夕刊】

2016年2月3日水曜日

画家桜井さん個展

画家桜井さん個展
「富士山」の大作も沼津
 1988年に「画壇の芥川賞」と言われた安井賞を受賞した画家桜井孝美さん(71)=山梨県富士吉田市"の個展が28日まで、沼津市大手町の沼津信用金庫で開かれている。
 油彩画15点を店内外に展示した。約20年前から親交があるノーベル医学生理学賞の大村智北里大特別栄誉教授と桜井さんの家族を織り込んだ200号の新作を飾った。昨年1~3月、大村さんが館長を務める韮崎大村美術館(山梨県韮崎市)で個展を開いた際の風景をモチーフにした。
 店外のストリートギャラリーには2月23日の「冨士山の日」にちなみ、主要な題材である富士山を描いた大作を並べた。桜井
さんは「作品を通じて生きる喜びを感じてもらえたら」と話した。
【静新平成28年2月3日(水)朝刊】

2016年1月23日土曜日

東名2スマートIC開通へ 新スマートICの名称「駿河湾沼津」

 東名2スマートIC開通へ
大井川焼津藤枝・・3月12日午後3時
愛鷹・・・・・・・3月19日午後3時

 中日本高速道路などは22日、東名高速道に新設する大井川焼津藤枝スマートインターチェンジ(IC)の開通を3月12日午後3時、愛鷹スマートICの開通を同月19日午後3時にすると発表した。
 焼津市と藤枝市、中日本が事業主体の大井川焼津藤枝スマートICは焼津-吉田IC間に設置し、東名では初の本線直結型スマートIC。
 愛鷹スマートICは東名愛鷹バーキングエリアに接続する。沼津市と中日本が整備し、国道1号市立病院南交差点を北上する市道が主なアクセス道路となる。
【静新平成28年1月23日(土)朝刊】

新スマートICの名称「駿河湾沼津」
 新東名
 沼津市は22日、新東名高速道駿河湾沼津サービスエリアに接続するスマートインターチェンジ(IC)の名称が駿河湾沼津スマートインターチェンジに決まったと発表した。
 同スマートICは2016年度末の開通を目指し工事が進められている。同市内では、東名の愛鷹スマートICに次いで2カ所目のスマートICになる。
 市は、重要港湾や工業団地からのアクセス性向上による産業活動の支援、災害時の復旧支援ルートの確保、市内周遊観光の促進などを期待している。
【静新平成28年1月23日(土)朝刊】

2016年1月6日水曜日

平成28年1月6日(水)沼津若鳶 初はしごのり



鳶職組合がはしご乗り
沼津一年の無事祈る
沼津鳶(とび)職組合は6日、新春恒例のはしご乗りを沼津市役所で行った。若手組合員らが伝統の技を披露し、一年の無事を祈った。
市役所玄関前で演じたのは、若手組合員5人と、公募で昨年に続いて参加した同市中沢田の鈴木香菜さん(26)。高さ約6・3㍍のはしごの上に登り、「肝つぶし」や「逆さ大の字」「屋形返し」などさまざまな妙技を繰り広げた。
近くの保育園児らも見物に駆け付け、一つ一つの技に大きな歓声を上げた。
【静新平成28年1月7日(木)朝刊】

昨年も参加の女性が新技を
沼津鳶職組合が新年恒例の梯子乗り
沼津鳶職組合(西山晃弘組合長)は「新年梯子乗り」を六日朝、市役所玄関前ピロティで行い、組合員と一般公募の応募者が、江戸時代からの伝統を誇る梯子乗りの妙技の数々を披露した。
新年を迎えた喜びのあいさつ、一年の無事を祈願しようと、昭和四十四年から続ける正月恒例の行事。毎年、市内の取引先を回る中で市役所に立ち寄っている。
今年も梯子の乗り手を一般公募し、鈴木香菜さん(26)=中沢田=が二年連続で参加したほか、市内の小学生が応募。昨年十二月上旬から若手鳶職人による指導を受けて練習し、市役所では鈴木さんが新技を加えて成果を披露。小学生は放課後に出番があった。
市役所前では、鈴木さんと鳶職人、合わせて五人が、鳶口で支えられた二十一尺(約六・三㍍)の梯子に駆け上がり、不安定な梯子の上で数々の妙技を披露。市職員や来庁者らが見守り、本郷町の小百合保育園から見学に訪れた園児達は技が決まるたびに歓声を上げた。
鈴木さんは、梯子の先端に座って周囲を見渡す「遠見」、腹だけで体を支える「腹亀」から体を捻る「肝潰し」、梯子に取り付けた輪に足を吊って連続技を見せる「かなびき技」などを決めた。
女性では珍しいという梯子の先端の右側に片膝を乗せ、片手で左側をつかんで体を支える「一本八艘」などの新技も見せた鈴木さんは「下で皆が支えてくれているので不安はなかった。新技も覚えて良い経験になった」と話した。
最後に、若手鳶職人三人が梯子の上に同時に乗って技を繰り出す「三階松」の大技に、会場には拍手が鳴り響いた。
【沼朝平成28年1月7日(木)号】