2015年8月30日日曜日

開花について 真木美紗子

開花について 真木美紗子
 四十八年も前に亡くなった父のことである。
 明治三十三年、伊豆の石廊崎生まれで、今生きていれば百十六歳にもなる。青春時代をこの沼津で、沼商生として四年間(ひょっとして五年)を過ごしたという。地元や地方出の数人が、よく話題に上ったが、友達に恵まれて良い刺激を受けながら楽しく、豊かに過ごしたようだった。
 当時、沼商はスポーツが盛んで、父は剣道をやっていて、かなり強かったらしい。その腕は戦時中、在郷軍人として銃剣術の試合で発揮され、旧満州新京(現中国東北部吉林省長春)での大会で優勝したことでも証明されている。
 父は昭和はじめごろ満州に渡り、二十九年に沼津に引っ越した。満州以降、ずっとご無沙汰だった、あの沼商時代の人達と、やっと旧交を温めることができて、それは楽しそうだった。
 小山町からHさんが出てくると、必ず集まって一杯やっていた。そのたびに、話題はいつのまにか沼商時代のことになっているのには笑った。
 沼中(現沼津東高)といつも対立していたこと、御成橋の脇のAさんは大きな声を出して格好は良かったが、実は剣道ほ余り強くなかったこと、師範学校の生徒が、ちよっと年上だけに、えらく大人に見えたことなど、当時、もう六十代のおじさん達が飽きずに話していたことだ。
 中でも「開花」に下宿していたというHさんは、よく開花のことを話題にした。自宅通いの0さん、1さん、そして、うるさい大家さんのもとにいた父達は、よく開花に行ったと言っていた。
 父は下小路に下宿していたらしいが、当時の開花がどこにあったかは聞かずじまいだった。私は勝手に、今の旭町の開花を思っていたが、先日のこの欄で、当時は下本町にあったということを知った。今となっては確かめる術も無い。
 ずっと後になって、私の子ども達が、開花が実家であるピアノの先生に長く教えていただいた縁で、先生の姉上と話をする機会があり、父達のことを話したら、「渡辺さん(父)やHさんは覚えていますよ」と言ってくださった。
 百年も前に少年だった父達が年中行かせてもらい、お世話になった開花が、ここで閉じるという。感慨深いものがある。
(主婦、西熊堂)
【沼朝平成27年8月30日言いたいほうだい】

2015年8月27日木曜日

「開花」の灯を惜しむ 坂本紹一

 「開花」の灯を惜しむ 坂本紹一
沼津市旭町の割烹「開花」が八月で閉店するとのこと、割烹料理の古い文化を伝えてきた店だけに、惜しい気持ちである。
割烹とは、もともとは「割く、煮る」の意味であるが、転じて高級料理店の意味で使われてきたようである。芸者などを呼ぶことができて、格式が高い料亭であったという。
建物も風情があり、道路から水が打たれたスロープを上がって玄関へ向かう雰囲気が独特であった。赤じゅうたんの廊下や階段、トイレも広くて、古風な趣があった。大小の部屋と大宴会場や会議室があり、いろいろな客層のニーズに対応していたようである。
扱う季節の食材も吟味したもので、器も商級なものが多く使われていた。私も、秋に訪れると出される「マツタケの茶わん蒸し」が楽しみであった。
明治二十七年に下本町で創業し、昭和二十五年に現在の地に移ったとのこと。長い歴史を刻んできた店だけに閉店が惜しまれる。それぞれの時代の多くの顧客の様々な思いを込めた宴席として使われてきたことは想像に難くない。
当主の杉山文一氏は沼津東高の出身で、私は沼中東商の百年史の編集委員であったことから、文一氏が所蔵していた貴重な資料や写真をお借りすることができた。「開花」が東高の各期の同窓会などで多く使われたので、資料や写真が自然と集まってきたようであった。
「開花」は、東高の関係者からは、オアシスのように癒される場所として使われていたという一面も持っていた。
聞くところでは、今日の経済情勢の中で、今後とも利用者の要望に応えていくためには、設備の充実、経営の改善、後継者の育成などの課題があるとのこと。
時代の流れとして難しい問題はあるかと思うと、残念であるが「あっぱれ」と声をかけて、閉店を見守るしかない。
(社会福祉士、長泉町)
【沼朝平成27年8月27日(木)言いたいほうだい】

2015年8月24日月曜日

ブルートレイン歴史に幕

ブルートレイン歴史に幕
 最終「北斗星」上野到着
 寝台特急ブルートレイン「北斗星」の最終列車が23日午前、終点のJR上野駅に到着した。現役ブルトレの最後の運行で、かつて列島各地を結んで活躍したブルトレの歴史にピリオドが打たれた。鉄道ファンら約2500人(JR東日本発表)がホームで迎え、引退を惜しんだ。
 最終列車は客車11両で定員188人。JR札幌駅を22日午後4時12分に出発し、23日午前9時25分、定刻通り上野駅に着いた。乗客が降りた後、車両基地へと向かう姿を見送ったファンからは「ありがとう」と声が上がり、乗務員も手を振って応えた。
 ブルトレは1958年に登場。高度経済成長期はビジネスの足として活躍したが、新幹線や飛行機、夜行バスに押されて乗客が減少、廃止が進んだ。北斗星は88年、青函トンネル開業に合わせてデビュー。今年3月に定期運行を終え、4月から臨時列車として、上野発、札幌発それぞれ週3日程度の運行を続けていた。
【静新平成27年8月24日(月)朝刊】

2015年8月21日金曜日

 割烹開花の閉店 千野慎一郎

 割烹開花の閉店 千野慎一郎
沼津の老舗料理店が、また姿を消します。創業百二十余年の割烹開花が八月末日をもつて閉店します。長年、沼津の食文化・お座敷文化を支えてきた老舗の廃業は時代の流れとは言え、一市民として、また、現在の建物建設に関わった一人として寂しい限りです。
開花の創業は明治二十六年頃と聞いています。当時の沼津の町は明治二十二年の東海道線開通・沼津駅開設と二十六年の沼津御用邸の造営により会国的に保養地としての名を広め、商業の町としても着実に発展していました。
平成二年発行の沼津料理組合百年史によると、明治二十七年に沼津料理飲食業組合が設立され、開花初代の杉山吉太郎氏が役員に名を連ねています。
また、明治三十四年発行の「沼津の華」の中で沼津の全商店を紹介した沼津繁昌記には開花楼として詳しく紹介されています。
その中の概要ですが、当時の開花は下本町の浅間神社北側にあり、宏壮優美な和風二階建で楼上からは北に富士山、南に浅間神社越しに干本松原を望み、料理は食材の魚介野菜が新鮮で味が良く低廉で、女中の応待も良く昼夜繁昌していた、と記載されています。
開花のあった本町付近は、大正から昭和前期にかけての沼津の中心街で劇場や寄席小屋、数多くの料理店、飲食店、カフェーが軒を並べ、芸妓置屋や芸妓見番もある花街の中心でもありました。
組合役員名簿によると、大正五年に初代杉山吉太郎氏が組合長に就任。十五年には、二代目の杉山龍吉氏が副組合長に、さらに昭和四年には商工会議所議員に当選し、二代にわたり組合活動に尽刀されています。
昭和二十年七月の沼津大空襲で市域の半分以上が焼き尽くされ、大正の大火では被災を逃れた開花も焼失しました。
戦後の混乱期を過ぎた二十六年に現在の旭町に移転し開業します。二十八年に二代目龍吉民の急逝により、現店主の杉山文一氏が修業先より戻り、二十代の若さで三代目を引き継ぎます。
文一氏は店を順調に発展させる一方で、新たに発足した沼津料理店営業組合胃年部員としても大きな貢献をされ、昭和五十三年二月には区画整理事業に合わせて待望の新店舗を竣工させました。築三十七年を過ぎた現在でも維持管理が良く、和風三層の凛とした風格を保っています。
時代も平成に移り、急速にライフスタイルや食文化の変化が進み、多くの料理店が店を閉めたり業態を変えたりしていきました。
古いものや伝統への関心、愛着が希薄な沼津の中で、伝統的なスタイルで地道に暖簾を守ってきた開花の閉店は沼津のお座敷文化の終焉と言っても過言ではありません。
終わりに開花の建物の処分はまだ決まっていないようですが、何らかの形で活用されてほしいと願っています。(建築士、宮本)
【沼朝平成27年8月21日(金)言いたいほうだい】

2015年8月13日木曜日