2022年8月27日土曜日

220827沼津にお城があったころ人物編AS

沼津城の大型パネル展示  あすまで中央公園、想像図描く(静新記事)中央公園に沼津城が出現  2分のーの二重櫓パネルで再現(沼朝記事)

 


 沼津城の大型パネル展示

 あすまで中央公園、想像図描く


 沼津工高同窓会や沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の会員らでつくる「『沼津に城があったころ』再現実行委員会」は26日、沼津城の本丸や二重櫓(やぐら)があった同市の中央公園に、城の想像図を描いた手作りの大型パネルを展示した。

 パネルは縦横約5㍍で、実物の約半分の大きさ。沼津城の櫓(やぐら)や堀、垣根まで再現し、精彩に描かれている。

 同校体育祭で生徒が展示する「アーチ」と呼ばれる大型パネルの製作法を応用。初日は市外からも見物人が訪れ、見上げるほどの大きな作品を写真に収めていた。

 制作に携わった同窓会の中谷春二さんは「大きな作品なので、絵のバランスが難しかった」と話した。実行委の渡辺美和会長(69)は「作品をきっかけに、沼津の歴史を学ぶきっかけになれば」と述べた。

 展示は28日午後3時まで。

(東部総局・小西龍也)

【静新令和4827日(土)朝刊】

 

 

 中央公園に沼津城が出現

 2分のーの二重櫓パネルで再現



 沼津史談会と沼工同窓会で構成する「沼津に城があったころ」再現実行委員会(渡邉美和代表)は、旧沼津城の二重櫓(やぐら)を史料に基づいて再現した約5㍍四方の平面パ一ネルを26日、大手町の中央公園に仮設。あす28日午後3時まで展示し、沼津城についての解説が行われている。

 沼津城は戦国時代末期に武田氏によって築かれた古城(三枚橋城)、江戸時代後半の1777(安永6)年以後の新城(沼津城)が現在の大手町地区にあったが、明治時代になって廃城になり、取り壊されて本丸跡の同公園に「本丸跡の碑」や石垣の遺構がわずかに残るのみ。

 「多くの市民が、この場所に城があったことを知らない。郷土の歴史を知ってほしい」と願い、今回の展示を企画。渡邉代表が所属する沼津史談会と沼工同窓生有志で実行委員会を組織し、今年度の沼津市民間支援まちづくりファンドに採択され、沼工同窓生が平面パネルに描いた。

 今回描かれた二重櫓は1832(天保3)年に完成。1847(弘化4)年に火災に遭ったと見られ、その7年後には安政大地震で損壊。補修が行われた記録も残されている。

 史料を基に、沼工同窓生の中谷春二さんが中心となって描いたが、「画面が大きいので、バランスを取るのが難しかった。構造がはっきりと分からない部分は想像で描き、石垣の質感を出すのに苦労した」と振り返っている。

 二重櫓は中央公園東側に位置する場所にあり、あまねガード辺りにも「隅櫓(すみやぐら)」と呼ばれる二重櫓があったという。再現に当たっては安全対策のために杭やアンカーを打ち込む必要があったため、当時見られた風景とは逆の位置、公園西側の芝生広場に置いた。

 平面パネルは実際の大きさの2分の1の縮尺で、沼工生が約70年前から工業教育の一環として体育祭で建設する「アーチ」と呼ばれる足場組み仮建設のノウハウを生かし、26日午前、2時間をかけて設置した。

 出現した巨大パネルを来園者は足を止めて眺め、日中は渡邉代表ら沼津史談会メンバーが常駐し、沼津城に関する資料や「まちなか歴史MAP」を配って解説。資料では次のようなことを説明している。

 戦国時代末期、武田氏により三枚橋城が築かれ、徳川時代に入って三河譜代の家臣、大久保忠佐(ただすけ)が初めての沼津三枚橋城主となり、兄の大久保忠世(ただよ)は小田原城主として兄弟で活躍。忠佐が亡くなると跡継ぎがないため沼津城は廃城となり、150年程、城がない時代が続いた。

 江戸時代後半に水野家が藩主となってからは城下町の時代が再び始まったが、平和な時代のため建物は簡素で平凡。幕末には相次ぐ震災等により施設を維持・管理するのも大変だったと見られている。

 明治維新後、徳川家が静岡に移ることになり、沼津藩は上総国菊間に移封。沼津城は幕臣だった江原素六翁などが設立責任者となり、城岡神社南西側にあった広大な二の丸御殿を校舎とする徳川家の沼津兵学校として活用された。

 オランダ帰りの元開成(学問)所教授の西周が頭取を務めた「沼津兵学校」は当時の最高学府と言える高度な教育を行い、日本の近代化を進める重要な原動力となったが、187(明治5)年に廃止。沼津兵学校附属陸軍医局は存続し、その後、沼津市立病院に歴史が引き継がれた。

 鑑賞に訪れた市内に住む80歳の男性は「沼津城があったことは知っていたが、歴史にあまり興味がないので、どこにあったかは知らなかった。解説を聴いて知ることができ、良かった」と話していた。

 渡邉代表は「延べ約50人の協力で平面パネルの設置が完了した。今回、どれくらいの人に見に来てもらえるか分からないが、評価が高ければ来年以降も継続したい。現在の新仲見世商店街テレビのイマイ付近に、かつてあった高さ約10㍍の大手門もパネルで復元したい」と話している。

【沼朝令和4827日(土)号】




原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年8月27日(土)友引 八せん始め」「意気消沈」旧暦8月1日

 


2022年8月26日金曜日

220826沼津にお城があったころas

安倍元首相銃撃検証 SPら動向秒刻みで

 

安倍元首相銃撃検証 SPら動向秒刻みで

 演説直前後方警戒「空白」に 1発目は午前11316秒 安倍晋三元首相銃撃事件を受け、警察庁が防犯カメラ映像や奈良県警の担当者らの聞き取り調査を基にまとめ、25日公表した検証結果で、山上徹也容疑者(41)=殺人容疑で送検、鑑定留置中=や警護担当者らの動きが分刻み、秒刻みで分かった。1発目の発砲は、78日午前11316秒ごろだった。

 県警が、遊説場所を近鉄大和西大寺駅北口と把握したのは77日午後4時半。同じ場所で6月に茂木敏充自民党幹事長が遊説し、その状況から多数の聴衆は想定したが、特別な危険を意識することはなかった。鬼塚友章本部長の警護計画決裁は8日午前9時ごろ。6月の態勢を踏襲し、制服警察官の配置、交通規制は検討されなかった。

 午前10時ごろ、半袖ポロシャツに作業ズボン姿、ショルダーバッグを持った容疑者が駅に到着。近くの商業施設に立ち寄り、周辺を歩いていた。

 1110分ごろ、参院選候補者らの演説が始まる。17分ごろ、駅前ロータリー沿いの歩道で警戒中の統括役の県警幹部から12㍍離れたところに容疑者がいたが、拍手をする姿に不審者と感じることはなかった。

 演説場所はガードレールに囲まれた道路中央で、警視庁のSP(警護官)1人と県警の担当者3人が警戒。安倍氏の演説直前、26分ごろまでに、ガードレール内にいた担当が、外側で後方を警戒した担当に内側に入るよう指示した。この配置変更は無線ではなく直接行われ、県警幹部は見ていたが、後方警戒の「空白」を補強しなかった。

 2842秒ごろ、安倍氏が登壇。SPは約2㍍離れて立ち、県警の3人と前方の聴衆や違法行為への警戒を強めた。

 容疑者は2951秒ごろ周囲を見渡し、3056秒ごろまでにロータリーに進入。バッグに手を入れて歩き、313秒ごろ銃を取り出し、6秒ごろ1発目、約27秒後の8秒ごろ2発目を撃った。



 SPらは聴衆のほか、付近を通過した自転車や台車を押す人に顔を向け、背後から接近する容疑者に気何かなかった。1発目は銃声と分からず、振り返って容疑者を認識。防弾仕様のカバンを掲げたり、容疑者との間に入ろうとしたりしたが2発目を防げなかった。1発目は安倍氏に当たらなかった。

【静新令和4(2022)826(金曜日)朝刊】


原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年8月26日(金)大安 富士吉田ひまつり」「信賞必罰」旧暦7月29日

 


2022年8月24日水曜日

220824郵便ポスト化粧直し後半仕上げに向かってas

220824郵便ポスト化粧直しas

原えつお四文字ひめくりカレンダー「令和4年8月24日(水)先負 京都地蔵盆」「雲散霧消」旧暦7月27日

 


沼津城二重櫓をパネルで再現  26~28日 本丸跡の中央公園に展示 「城下町沼津の歴史知って:静新記事追加」

 

 城下町沼津の歴史知って

 本丸跡に手作りパネル

 市民有志2628日中央公園

 明治時代以降、建物や堀など、ほとんどの遺構が失われた沼津城を地元沼津市民に語り継ぐため、市民有志が2628日、城の本丸や二重櫓(やぐら)があった同市の中央公園に、櫓の想像図を描いた5㍍四方ある手作りの大型パネルを展示する。主催者は「城下町だった沼津の歴史を多くの人に知ってほしい」と願う。



 企画したのは、沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の会員らでつくる「『沼津に城があったころ』再現実行委員会」。沼津史談会はこれまで、現在と江戸時代の地図を重ね合わせたマップを作製し、史料も少ない沼津城の歴史を伝えてきた。

 史談会副会長で実行委の渡辺美和代表(69)が母校の沼津工高で毎年、体育祭で生徒が製作して展示する「アーチ」と呼ばれる大型パネルに着目。「アーチの製作法を応用してパネルに描き、大きな櫓が建っていた姿を想像してほしい」と企画し、同校の同窓会の協力を仰いだ。

 大きさは安全上の配慮から、実物のおよそ半分の高さにした。7月から1カ月かけ、同窓会員らがベニヤ板18枚を重ね合わせ、大きな1枚の絵として描いた、協力した同窓会長で看板会社を営む野口繁明さん(69)は「卒業生たちの高校時代の経験が役立った」と振り返る。

 渡辺代表は「中央公園の再整備も計画されている。城下町を感じさせる施設整備を考えるきっかけになれば」と思い描く。

 展示は26日午前11時ごろから28日午後3時まで。史談会員が来場者に説明する。強風時や荒天時は取りやめる。

(東部総局・尾藤旭)

★沼津城 1777(安永6)年に沼津藩主となった水野忠友が、戦国時代に武由氏が築いた三枚橋城とほぼ同じ場所に築城した。現在の大手町25丁目が城の範囲と重なる。明治維新後は城跡に沼津兵学校が一時置かれたが、大火や道路の新設などで遺構はほぼ残っていない。

【静新令和4824日(水)朝刊「ワイドしずおか」】




沼津城二重櫓をパネルで再現

 2628日 本丸跡の中央公園に展示



 沼津史談会と沼工同窓生有志で構成する「沼津に城があったころ」再現実行委員会(渡邉美和代表)は、史料に基づいて沼津城二重櫓(やぐら)を描き、約5㍍四方の平面パネルで再現。26日から28日まで大手町の中央公園で展示し、史談会メンバーが解説する。

 江戸時代には現在の大手町地区に沼津城があり、今回描かれた二重櫓は1832(天保3)に完成。47(弘化4)に火災に遭ったと見られ、54年には安政の大地震で損壊。その後、補修した記録も残されているが、今は跡形もなく、本丸跡に同公園が整備されている。

 江戸時代の沼津は宿場町であると同時に城下町でもあり、江戸を発って東海道を伊勢や京に向かう旅人は、小田原城に続く2番目の城として、現在の川廓通りを通っていた東海道から、この城を目にし、3番目の城、静岡の駿府城を目指して歩いた。

 当時は沼津のシンボルとも言える二重櫓を構えた城が存在していたことは、史料によって確実と見られているが、天守閣代わりの三重櫓の存在については史料もなく、今なお不朋のまま。

 沼津城の再現図については、これまでも何度か製作されているが、市民に広く認知されていないことから、渡邉代表が「多くの市民に、かつて沼津に城のあったことや、郷土の歴史を知ってもらいたい」と、今回の展示を企画。

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市内及び近隣ゆかりの登場人物も多いことから、郷土史への関心喚起と沼津市をアピールする絶好の機会と捉え、自身が所属する沼津史談会と沼工同窓会の協力を得て実行委員会を立ち上げ、市が募集した今年度の民間支援まちづくりファンドに応募。上限10万円までを助成する「スタート支援型事業」に採択され、実現できることになった。

 城のパネルは、沼一工敷地内に建つ同窓会館「不撓館」で製作。看板製作会社の経営に携わる野口繁明同窓会長をはじめ、沼工同窓会美術工芸展に参加する絵が得意な同窓生有志約10人が実際の大きさの「2分の1の縮尺でベニァ板18枚に分割して描いた。

 このパネルの掲示には、約70年前から沼工生が工業教育の一環として体育祭に合わせてグラウンドに建設する「アーチ」と呼ばれる足場組みによる仮建設のノウハウを生かし、同窓生が中心となって26日の午前中に設置する。

 展示は同日の午前11時頃から28日の午後3時。日中は史談会メンバーが常駐し、沼津城や郷土の歴史について来場者に解説する。



 渡邉代表は「安全管理の都合上、3日間と短期間の展示になったが、多くの人に会場へ足を運んでもらい、この場所で江戸時代の人達が見ていた沼津城の風票を感じながら、写真撮影などを楽しんでほしい」としている。

【沼朝令和4823日(火)号】