2019年12月30日月曜日

サクラエビ明治期の売買証明 桜を想起愛称が公称に


サクラエビ明治期の売買証明
 舟運で甲州へ色も珍重
 明治時代に山梨県笛吹市で商店を営んだ民家から、当時、駿河湾産サクラエビを販売したことを記した「勘定書」が残っていたことが、関係者への取材で分かった。同県立博物館が所蔵し、書式などから明治20年代までに作成されたとみられる。静岡県で1895(明治28)年に漁が始まってから、瞬く間に県外に普及していったことがうかがえる。
 勘定書は市街地の一角で薬や雑貨を扱う「薬種問屋」を営んでいた飯田家で見つかった。料金後払いの客のために作った購入録とされ、117日の項目には「酒六合(12)、カヅノ子(37厘、櫻海老(3)」などを売ったと明記。貨幣の種類や書式、使用している紙の種類などから同博物館は「作成時期は遅くとも明治20年代」と分析する。勘定書によると、サクラエビは酒1合より高値だった。一方でカズノコよりも安価だったことから、海産物として人気だったとみられる。この時売ったのは廉価だった素干しのサクラエビと推測される。

 小畑茂雄学芸員(44)は「海産物へのニーズは静岡県の人が想像する以上。サクラエビは目新しく、色もめでたさを想起する。好まれた可能性は高い」と語る。
 海に面していない山梨県の人々にとって「駿州の魚」は一大ブランドとして定着していたようだ。駿河湾で取れたサクラエビは日持ちするよう素干しに加工され、富士市を発着点とした富士川舟運(全長71キロ)などで届けられていたとみられる。毎年、砂糖に匹敵する量の海産物が持ち込まれていた。元船頭への聞き取りの記録には「サクラエビは水揚げしてすぐ同市の岩淵河岸から舟に積み、船頭の賃金をぐんとはずんで2日で運ばせた」とあり、生の状態でも運んでいた。山梨県で鮮魚は特に珍重され、市場では仲買人が買いあさる様子が「虎のけんかのよう」と例えられた。
 舟運と陸路の要衝として栄えた富士川町の鰍沢河岸跡では2005年にマグロの全身の骨が見つかり、沼津市からとみられるイルカや深海魚など2㍍級の大型魚を陸路で運んだことも分かっている。一方、丸ごと食べてしまう小さなサクラエビは骨が残らず、追跡は難しい。飯田家の一枚の勘定書は流通の証拠として存在感を放つ。

 1903年に中央線が甲府駅まで開通し、28年には富士身延鉄道が富土市と甲府市を結んだ。鉄道にとつて代わられた舟運は約300年の幕を閉じた。山梨県教委は「県歴史の道調査報告書 富士川水運」(91)で、この変遷を「南に向いていた甲州の顔は、東に向くようになった」言い表している。(「サクラエビ異変」取材班)
 1894(明治27)年のある夜、偶然大量に網にかかった。翌年から由比、蒲原で漁が本格化して、100年を待たずに静岡を代表する特産に。今や全国区で、海の宝石と称される駿河湾産サクラエビ。「ルビー」はいかに人々をとりこにし、広がっていったか。航跡を探る。
【静新令和元年(2019)1230日一面】




 桜を想起愛称が公称に
 「さくらえび」「桜海老」「櫻蝦」。ー独特な薄紅色や、めでたさを想起させる「言い得て妙」なこの名。これがなかったら、全国に魅力が認知されるのはもっと遅かったかもしれない。いつ、誰が、命名したのか。

 「あなたのひいおじいちゃんが付けた」。静岡市清水区由比今宿のサクラエビ加工業「望仙」店主の望月由喜男さん(72)は、母みつえさん=故人=に聞いて育った。1887(明治20)年に創業した曽租父仙吉さんが甲府に行商に出向いた折、「えびっかー(えびっかす)」と叫びながら歩くと、地元の人に「こんなきれいなエビをその呼び方ではかわいそうだ」と言われた。「じゃあサクラエビと呼ぼう」と思い付いたのが最初という。
 由喜男さんが逸話を聞かされたのは約60年前。漁を控えた夕方になると、屈強な漁師たちが街中にあふれた時代だった。「皆が狙う宝物の名前を自分のひいおじいさんが付けたのだと思うと、誇らしかった」。由喜男さんは回想する。
 大正初期に静岡県が刊行した「県之産業」には「干したエビの色がすこぶる美しく、桜花を想像させる」として97(明治30)年に「甲府の共進会で命名された」とあり、仙吉さん命名説と符合する。ただ、従前からサクラエビはわずかに取れ、由比と蒲原ではその名で呼ばれていたようだ。

 かねてから甲信地万に積極的に商品を売り込み、現地の需要を熟知していた仙吉さん。漁の本格化を機に「特別なエビ」と位置付け、商機を見いだした可能性もある。由喜男さんは「ひいおじいさんは、局地的な愛称を甲府で公称にした、という方が正しいのかも」とみる。
 命名の3年前の12月、仙吉さんと同じ由比今宿の漁師望月平七さんと渡辺忠兵衛さんがアジ漁に出た際、当時の3年分の水揚げ畳に匹敵するサクラエビの群れを当てた。2人は浮きを忘れたとされ、普段より深く沈んだ網が、日没後、プランクトンを狙つて海底から海面へと浮上してきた大集団を偶然包んだ。仙吉さんは孫だったみつえさんに「あまりに大量で扱いに困った」と明かしたという。


 95(明治28)年に由比、翌年に蒲原でサクラエビ漁が本格化。「2時間で100日分の収入」とされ、陸路や富士市の岩淵河岸に発着する帆掛け船に大量に積み込み、富士川舟運で2日で山梨県に届けられた。
 偶然の発見から125年。未曽有の不漁という逆風にさらされる今、その名が「後世にずっと残されること」を由喜男さんは願ってやまない。
 (「サクラエビ異変」取材班)
【静新令和元年(2019)1231(火曜日)

2019年12月29日日曜日

まちのお菓子屋さん「大黒屋」 煎り豆製造から始めて100年の歴史刻む(沼朝記事)


まちのお菓子屋さん「大黒屋」
 アーケード名店街にある「大黒屋」が今年で創業100年を迎えた。地域の人や子どもから「まちのお菓子屋さん」として親しまれている。
 100年という長い歴史には様々な変遷があった。

 創業は大正8年。初代の海野清さんが煎り豆製造を始めたのが、その起こり。
 20歳の頃、台湾に渡った清さんは、現地の人が煎り豆をしているのに興味を覚え、その技術を習得。日本に戻ると、天秤棒を担いで売り歩くようになった。
 現在の場所に店舗を構えたのは昭和8年。ここで煎り豆と共に菓子も扱うようになった。
 20年の沼津大空襲で市街地が全焼。仮店舗を構え、額縁と、アイスクリームの製造販売を開始。喫茶を営みアイスを出していたという。しかし、統制により店舗営業ができなくなると、パチンコの景品となる菓子の製造販売を行ったこともある。
 22年に統制が解除になり、煎り豆の製造と一般菓子の取次販売も再開。
 その頃、店で煎って販売していた豆を、雑貨店などの小売店から分けてほしいと請われ、小分けにして配達するようになったのが、卸売りの始まり。やがて一般菓子の取り次ぎもするようになった。
 24年、2代目の清次さん(故人)が代表取締役に就任。ちょうどその頃、柳下家から、清次さんのもとに佳子さんが嫁いで来る。奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)を卒業後、母校の沼津高等女学校(現西高)の教諭を務めていたが、結婚後は清次さんと共に力を合わせて大黒屋を支え、発展を牽引した。
 仕入れは、佳子さんが味をみて、認めた味の菓子だけを仕入れた。砂糖か人工甘味料かは味で分かったし、煎餅も、どんな米を使って作られたかで味は違う。売り込みに来る業者は、味見をする佳子さんの顔をじっと見ていたという。
 卸した先の店では「大黒屋さんのお菓子はよく売れる」と評判となり、事業は大きくなった。
 28年には、アーケード名店街の一員として新装開店。斬新な造りの商店街には、全国各地から見学に訪れる人も多く、大黒屋も最盛期を迎える。
 映画館や遊技場が立ち並び、にぎわう街の中に、煎った豆の香りが流れ、多くのお客を呼んだ。
 節分の時期になると店は連日、お客でいっぱいになった。煎り上がった豆が店頭の木箱に入れられると、それを升で計って売った。寒い季節、温かな豆の中に、お客が手を入れていることもあったという。
 当時、住み込みの従業員は男女10人以上いて、中学を卒業後、すぐに来た子もいれば、高校を出てから来た子もいた。佳子さんは、この子達の親代わりとなり、同じ食卓を囲んで、同じものを食べ、稽古ごとをさせ、慰安旅行にも連れて行った。
 その後、商売はさらに大きくなり、42年には卸売流通業を本格始動。玉江町に広大な土地を得て社屋を造った。清次さんは病を乗り越えながら、佳子さんと販路を切り開き、駅や自衛隊、企業、そして小売店や大型店舗にも菓子を納入するようになり、事業は順調に拡大。
 平成になり、長男の伸男さんが代表取締役に就任。大手菓子問屋と業務提携を結ぶなど事業形態を変革。大規模スーパーの進出などで流通の様相が変わり、取引の価格も規模も大きくなった時期だった。しかし、変化の波は予想以上に大きく、玉江町の大黒屋卸部は解体。
 小売部は、伸男さんが代表となってすぐに独立させ、妻の美保子さんに切り盛りを任せて継続。そして今日まで変わらぬ場所で営業を続けている。
 創業者の清さんが亡くなる前に、涙を流しながら「あとは頼んだぞ」と佳子さんに言ったという。その時から佳子さんは覚悟を決めて、100年を見据えながら大黒屋の看板を守ってきた。
 社会構造の変革を乗り越えての「大黒屋の100年」。

 現在は、まちのお菓子屋さんとして、地域の人、とりわけ子ども達に愛されている。昔ながらの懐かしい菓子や、10円、20円の駄菓子も並び、今も昔と変わることなく、子どもの心をときめかせる。
 最近では、伸男さんの息子、伸悟さんが今川焼の製造販売を始めた。豆を煎って売った大黒屋の原点に立ち返り、新たな商店街を考えるヒントになれば、との思いがあるようだ。
 店内には椅子とテーブルが置かれ、訪れたた人が座ってゆっくり話をしていくこともあり、子ども達のちょっとした社交場にもなっている。時には中学生が伸男さんと美保子さんに話を聴いてもらいに来ることもある。
 ラブライバーにも親しまれ、休日になれば県外から訪れる人も多い。どんなお客も自然体で迎えるのが、大黒屋だ。
 伸男さんは地域の役員などを歴任し奉仕を続けている。母親の佳子さんも、最も多忙な時期から民生委員や市民福祉相談員をはじめ、数々の責任ある役を預かってきた。
 大黒屋に住み込みで働いていた人達は、年に1回開かれていた「思い出会」で佳子さんのもとに集まり、心楽しい思い出を語らっていた。
 事業をつないでいく要となるのは、やはり人と人とのつながりなのだろう。そう思わせるものが、ここにはある。
【沼朝2019(令和1)1229(日曜日)号】

2019年12月27日金曜日

59年の歴史 富士急名店会館 閉館







 沼津富士急百貨店解体へ
 跡地高架見据え検討 12月にも着手
 富士急行がことし12月にも、JR沼津駅南口の沼津市大手町に土地・建物を所有する富士急百貨店沼津店ビルの解体に着手する方針を固めたことが、7日までに分かった。地元や同社など複数の関係者が明らかにした。
 建物の老朽化に伴う解体で、作業は6カ月以上になる見通しという。跡地(約1820平万㍍)は売却せず、当面は同社が低層の建築物で物販施設などを整備する案が浮上している。沼津駅周辺で今後本格化するとみられる駅周辺鉄道高架事業の進展を見据え、将来の構想を検討する。
 富士急百貨店沼津店のオープンは1965年。鉄筋コンクリート造りで、売り場は地下1階から地上6階までの延べ約7千平方㍍(全床面積は1万1600平万㍍。2002年に耐震化などの大規模なリニューアルを実施したが09年ごろから化粧品店の移転など退店が加速。耐震化実施時に、12年までの最長10年間を期限とした定期借家権契約を各テナントと交わし、以降はグループ会社のオフィスや飲食店、100円ショップが入っていた。飲食店などには既に解体を伝えている。
 同店前はグループ会社の富士急シティバスが運行する路線バスの発着所となっていて、平日1日当たり185本が往来する。解体作業中にはこうしたターミナル機能の一時的な移転も必要になるため同社は今後、発着所の移転先について関係機関と調整に入る方針。
 地元にぎわい期待
 沼津市はJR沼津駅付近鉄道高架化童業に伴う駅前再開発に向け中心市街地のまちづくり戦略を議論中。頼重秀一市長は今回の解体方針について富士急行に「駅周辺は歩行者中心の空間に再編する方針。都市計画に理解をいただければ」と望んだ。松田和孝沼津大手町商店街振興組合理事長は「人を呼び込む力はある場所。にぎわいが生まれる活用をしてほしい」と期待した。
【静新令和元年6月8日(土)朝刊】

2019年12月26日木曜日

深良用水地域潤し350年  裾野 トンネル一般同行公募へ


 深良用水地域潤し350年  裾野
江戸 時代の工事跡今も
 トンネル一般同行公募へ

 世界かんがい施設遺産に登録されている裾野市の深良用水が2020年、通水350周年の節目を迎える。渇水地域だったとされる同市を中心とした地域に「恵みの水」をもたらした同用水は、江戸時代の測量や掘削技術の痕跡が今も残る。貴重な価値を発信する機会と捉え、地元や同用水を運営する県芦湖水利組合、市が記念事業の準備を進めている。
 メイン事業として検討しているのが、春の水路トンネル点検への一般参加。トンネルは毎年春と秋に計2回行う用水流域関係者らによる点検作業を除き、立ち入りを原則禁じている。今回は通水記念の425日に合わせて実施し、特別に一般からの同行者を募る方向で調整している。
 深良用水は寛文10(1670)425日に農業用水として通水した。トンネル工事に費やした期間は約4年。内部の岩
盤には作業員がのみで掘った痕や、通気口とされる人が通れる大きさの穴といった工事の痕跡が至る所に残る。点検で入った同組合の小林威水配長(77)は「風雨にさらされていないので何も傷んでいない。岩盤が頑丈で崩れてもいない」と様子を語る。
同組合には点検の時期が近づくと、研究者などから同行の要望が寄せられるという。ただ、内部が極端に暗いなど安全上の理由から同行者の募集はこれまで実施していない。
 裾野市の担当者は「安全面の課題はあるが、トンネル内部に入って自分の目で見て、深良用水の価値を知ってほしい」と趣旨を話す。(東部総局・福田雄一)
 〈メモ〉深良用水のトンネルは神奈川県の芦ノ湖(箱根町)から裾野市まで約1280㍍。建設工事は寛文6(1666)年に開始し、芦ノ湖、
裾野両方から手作業で掘り進め、寛文10(1670)2月に完成した。通水したのは同年425日。芦ノ湖から引いた水は裾野、御殿場、長泉、清水の4市町で主に農業用水として使われている。20149月に世界かんがい施設遺産に登録されている。
【静新令和11225日(水)夕刊】

2019年12月22日日曜日

淡島ホテル 旧運営会社破産手続き 負債400億円、債権者2000人


淡島ホテル
旧運営会社破産手続き
負債400億円、債権者2000
 沼津市の高級リゾートホテル「淡島ホテル」を運営していた株式会社淡島ホテルが静岡地裁沼津支部から破産手続きの開始決定を受けた問題で、負債額は400億円、債権者は2千人に上る見込みと、21日記者会見した関係者が明らかにした。破産規模は県内の過去20年間で最大規模とされる。ただ、「現段階で概要は把握できていない」(県弁護士会消費者問題委員会の山本洋祐委員長)とし、破産管財人などは情報収集を進める。
 負債額と債権者は山本委員長が破産管財人の文書を読み上げる形で公表。併せて破産手続き開始決定を正式発表した。
 同委員会によると、株式会社淡島ホテルは1983年設立で資本金は1千万円。グループ企業が運営する「ホテル長泉ガーデン」(長泉町)の会員権を販売するなどしていたとみられ、その後、会員である債権者から募った出資金や社傭などの弁済ができなくなったという。同ガーデンに居住するなどしていた約10人の債権者が7月、地裁沼津支部に破産を申し立て、今月20日に決定となった。
 旧運宮会社は破産手続き開始決定前の20184月、株式を第三者の名古屋市の家賃保証会社に譲渡。現在は同社の関連企業が運営している。今後について、同社の担当者は「今回の破産手続き開始決定は株式会社淡一島ホテルに対するもので、実際に業務を運営しているわが社とは関係がない。営業は変わりなく続ける」と営業継続の方針を説明した。
 山本委員長によると、債権者の多くは東京や神奈川など首都圏の居住者とみられるという。「大規模な被害になる可能性がある。今後の進め方を実りあるものにするために情報を寄せてほしい」と述べた。

 2526日電話相談 県弁護士会消費者問題委員会は2526の両日午前10時~午後5時、株式会社淡島ホテルの破産手続きの開始決定に伴う無料電話相談会を行う。専用の3回線を用意し、常時3人以上の弁護士が対応する。相談当日は〈電055(932)6750〉へ。
 ◇訂正 21日付朝刊1面「『淡島ホテル』破産手続き」の記事で、破産手続き開始決定を受けたのは現在の運営会社ではなく、旧運営会社の「株式会社淡島ホテル」で別会社でした。営業形態も会員制ではなくなっていました。写真説明で「運営会社」とあるのは「旧運営会社」でした。

 「営業継続」に地元冷静
 高級リゾートホテル「淡島ホテル」(沼津市内浦重寺)を運営していた株式会社淡島ボテルが静岡地裁沼津支部から破産手続き開始決定を受け、地元の観光や商工などの関係者からは21日、冷静な受け止めが聞かれた。
 今回の破産手続き開始決定を申し立てたのは、ホテル会員権を購入した債権者ら約10人。他の会員権購入者らも別の債権者団体を組織していて、この団体の事務局長は「同じ立場として推移を見守りたい」と話した。
 ホテルは現在、経営権を持つ家賃保証会社の関連企業が営業している。このため、関連会社は今回の破産手続き開始決定とは無関係として、宿泊客や予約などは今後も従来通りに受け入れるという。
 近年はアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の登場人物の実家が経営するホテルのモデルとして人気のスポット。沼津市でこの日開催されたアニメ関連イベントに参加した東京都の会社員岡部誠義さん(32)は「『聖地』の一つとして今まで通り、運営を続けてほしい」と願った。
 地元からは冷静な反応も。近くで観光客をもてなしていた観光案内所の女性職員は「営業が続くのなら、周辺施設などが困ることもないのでは」。沼津市の商工団体関係者も「ホテルの取引先の連鎖倒産など、地域経済への影響は想定していない」と述べた。
【静新令和1年12月22日(日)朝刊3面】

2019年12月21日土曜日

「淡島ホテル」破産手続き


「淡島ホテル」破産手続き
地裁沼津支部開始決定
負債数百億円 債権者申し立て
 
沼津市の会員制高級リゾートホテル「淡島ホテル」が20日、静岡地裁沼津支部から破産手続きの開始決定を受けたことが分かった。関係者によると、負債総額は数百億円とみられる。今回の開始決定は、ホテル会員権を購入した一部債権者が7月に申し立てていた。
 ホテルは20日現在、営業を続けている。近年は人気アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の登場人物の実家が経営するホテルのモデルとして全国からファンが宿泊に訪れ、地域振興にもつながっているだけに、関係者に波紋が広がりそうだ。
 破産手続きの開始決定により、同社の管理処分権は同地裁支部が選任した破産管財人に委ねられる。破産管財人は今後、ホテルが所有する資産などの換価作業などを進めるとみられる。
 同ホテルを巡っては、経宮権を持つ名古屋市の家賃保証会社に対し、リゾートホル会員権を購入した債権者が「預かり金や投資額が返済されない」などと主張。今年9月に債権者100人超が弁済などを求めて債権者団体を結成している。関係者によると、会員権を購入した全体の債権者数は千人以上に上るという。
 同ホテルは1991年、旧東京相和銀行(現東京スター銀行)の故長田庄一元会長が建設。今年9月に死去したフランスのシラク元大統領も訪れたことで知られる。しかし、赤字経営が続き、20184月、長田氏のファミリー企業がホテルの株式を家賃保証会社に譲渡した。
 債権者が企業の破産手続き開始を裁判所に申し立てて認められたケースとしては2010年、熱海市などで温泉ホテルを展開していた会員制リゾートクラブ「岡本倶楽部」などがある。
【静新令和1年12月21日(土)朝刊】

↓淡島ホテルホームページより