2012年10月28日日曜日

2012年10月7日日曜日

長浜城跡公園整備進


長浜城跡公園整備進
 見張り櫓からの眺望天下一品だが
  県道沼津土肥線を大瀬に向かい内浦長浜を過ぎる頃、海側に小さな山が現れる。ここが一九八八年に国指定史跡となった長浜城跡で、再来年の史跡公園オープンに向けて現在、整備が行われている。既に長浜側にはトイレ、案内看板、城跡の高台に至る階段が完成。高台には見張り櫓(やぐら)や遺構案内看板、風景案内写真陶盤などが設置されている。この見張り櫓から望む沼津アルプス、淡島、内浦湾越しの富士山は天下一品。市は観光名所として集客を期待している。

 南西斜面、樹木伐採し過ぎか
 崩落や落石の一因に
 長浜城が歴史上に現れるのは一五七九(天正七)年で、北条家朱印状に「長浜二船掛庭之普請」とある。同城は、北条水軍の重須湊(おもすみなと)を守るため、内浦湾に突き出た半島状の高さ三〇㍍の台地に築かれ
た。
 この城を処点に武田軍と駿河湾海戦が行われ、この後、豊臣秀吉の小田原攻めの時には土豪の大川兵庫が城を守り、立てこもったが戦闘はなく、一五九〇年、韮山開城とともに廃嘘になったと考えられる。
 同城跡の台地は現在、県道沼津土肥線建設時に山側が掘削されて切り通しとなっていて、台地はホルトノキの大木などが生い茂り島のように見える。国指定史跡となってから九年後の一九九七年、活用を考える長浜城跡整備基本計画策定委員会が発足。
 整備は用地取得に始まり、一九九四年までに約一二、○○○平方㍍、二〇〇三年に一、一〇〇平方㍍を総額三億六千万円で購入。数度の城跡発掘調査を経て〇一年から斜面の修景などの整備に移った。
 また、東側の長浜側上り口には〇八年から〇九年にかけてトイレや看板、階段などを設置。一九八八年から昨年度までの総事業費は六億八千二百万円で、史跡整備費三億千七百万円、土地取得費、管理費など五百万円。
 これまでの総事業費のうち約六〇・三%が国庫補助の四億千百万円、約五・六%が県費補助三千八百万円、約三四・二%が市費二億三千三百万円となっている。来年度予算を加えると総事業費は七億円程。
 今年度の総事業費は史跡整備費二千七百万円、環境整備費(樹木伐採)八百万円、災害復旧費(伐採)二百万円、管理費ほか二百万円となっていて、内訳は国庫補助千七百万円、県費補助二百万円、市費二千万円。
 見張り櫓が完成した時に初めて訪れ、そこから眺める内浦湾と冨士山の累晴らしさに感嘆。「これは素晴らしい富士山眺望地点になる」と確信し、また一つ「沼津の宝」が増えたことを喜んだ。
 だが、八月初め、再度訪れて驚いたのは、南西側の重須地区にかかる斜面一帯の樹木が伐採され山肌を露出していたこと。市教委文化振興課の担当者に尋ねると、「台風によって樹木が倒れ、これからも倒れる可能性があり危険だから伐採した」という。
 実生から生長したのか、植栽されたかは分からないが、樹齢百年を超えるようなクスノキやエノキ、クヌギ、ケヤキ、常緑照葉樹のタブノキやウバメガシ、アラガシなどが伐採され、山裾に横たわっていた。

 一方では、栗原裕康市長の政策の柱の一つでもある「環境先進都市・沼津」のもと、生態学権威の宮脇昭・横浜国大名誉教授を招き「ぬまづの森づくり」を進めているところであり、昨年二月二十三日、香貫山に桜を植栽するため多くの木々が伐採された時、栗原市長は高木孝自治会連合会長から前例のない「勧告書」を突き付けられ、侘びを入れている。
 また、市担当者によれば、長浜城があった高台は城建設のため樹木が全て伐採され、当時、木々はなかったはず、だと言う。
 しかし、その当時のことはともかく、これまで土砂の崩壊、流失を防いでいた木々を伐採したため、南西斜面の土砂は雨で流され山裾にたまっている。七月には直径六〇㌢程の岩が落下。大事には至らなかったものの、沼津土肥線の山側を歩行禁止にするなど通学にも影響を与えている。
 これまで岩の落下はなく、落下した岩は、たまたま運送会社の倉庫前で止まったことから、その会社のフォークリフトで片付けたが、人力では手に負えないほどの大きさ。落下原因は明らかに樹木伐採によるもの。
 重須住民の一人は「工事が始まる前、クレーンで重機や資材を高台に上げるため、樹木が邪魔になるので切らせてほしいと市から要望があり、許可したようだが、ここまで切っちゃうとは」と驚きを見せた。
 歴史的遺構は、構築物だけでなく周辺の樹木や環境なども含まれていると見ることはできないか。長い年月をかけて育ってきた樹木に畏敬の念を持つとともに、愛情をもって接することは大切でなかろうか。
《沼朝平成24107()号》

2012年10月2日火曜日

80年の歴史に幕 富士


80年の歴史に幕 富士
 日本製紙鈴川事業所 先月で生産終了
 
 日本製紙鈴川事業所(富士市今井)の生産が9月いっぱいで終了した。
 コピー用紙や封筒用紙など洋紙を生産する3台の抄紙機のうち、2台を最後に停止した。生産調整で休止している1台も今後、稼働しない。
 操業開始は1933年。2月で一部運転を止めた同社富士事業所(蓼原)とともに、「紙のまち富土」の象徴的な存在だった。
 地元では跡地に関心が集まっているが、同社は当面、事業所の建物を倉庫として利用するという。
 1日に市内で開かれた川勝平太知事と住民の語る会で、出席した市町内会連合会の杉山由隆会長が「火力発電所を建設するとの情報があるが」と質問。知事は「火力発電所とは聞いていないが、何らかの構想はあるようだ」と答える一幕があった。
《静新平成24102()朝刊》