2015年7月28日火曜日

沼津史談会「沼津ふるさとづくり塾」郷土史研究と地域づくり

平成27年8月15日(土)13時30分~
沼津市立図書館4階講座室
「郷土史研究と地域づくり」
講師:西まさる氏・吉田政文氏

2015年7月18日土曜日

広報沼津 平成27年7月15日号

広報沼津 平成27年7月15日号より
平成27年度 市政功労者表彰記念写真


















第68回沼津夏まつりスケジュール表


2015年7月10日金曜日

高尾山古墳原形保存を申し入れ(静新記事)高尾山古墳の原型保存求める(沼朝記事)

高尾山古墳原形保存を申し入れ
 沼津市に6市議
 630日の沼津市議会定例会で高尾山古墳(同市東熊堂)の発掘調査費を盛り込んだ本年度一般会計補正予算案に反対した6市議が9日、同古墳の原形保存を求める栗原裕康市長宛ての申し入れ書を市に提出した。
 6市議は川勝平太知事や日本考古学協会の発言や声明などを踏まえた上で、古墳を「夢と希望あるまちづくりの中心的な国民的財産」と位置付け、建設中の都市計画道路「沼津南一色線」と古墳の原形保存の両立を訴えた。
 書面は市政策企画課秘書室の担当者が受け取った。
【静新平成27710()朝刊】

高尾山古墳の原型保存求める
市議6人が市長に要望書
 沼津市議の六人が九日、栗原裕康市長に対して高尾山古墳の原形保存要望の申し入れを行った。市長代理として秘書室長が要望書を受け取った。
 申し入れを行ったのは、川口三男(共産党市議団)、中田孝幸()、山下冨美子(未来の風)、江本浩二()、殿岡修()、梅沢弘(無所属)の六市議。いずれも六月議会で古墳の取り壊し調査予算を含む補正予算案に反対していた。
 要望書の提出後、六人を代表して川口市議が取材に応じ、「古墳保存問題を検討するために開催される協議会が、出席者の人選過程も含めてオープンな形で進められることも口頭で要望した。『国民共有の文化遺産』との評価もある古墳の存在は、閉塞感の中にある市民に夢やロマンを与える材料にもなり得る。これは、まちづくりの問題でもある」と話した。
 今回の要望書は栗原市長宛てだったが、代理人による受け取りとなった。市長は、様々な立場に対する公平を期するため、高尾山古墳や沼津南一色線に関する要望書については、現在ではいかなる立場からのものであっても代理受け取りをする意向だという。
 提出された「原形保存を前提にした高尾山古墳の保存についての申し入れ」と題する要望書の要旨は次の通り。
 ▽古墳の原形保存と道路建設の両立を要望する。
 ▽補正予算案可決後、市長が予算執行を見送ると報道発表したことは「英断」であり、大いに評価すべきものとして受け止めている。
 ▽古墳保存を求める有識者や市民、両立を望むと発言した県知事などの様々な声を踏まえた上で、今後の熟慮も改めて要望する。

【沼朝平成27710()号】

2015年7月4日土曜日

150704鉄道トーク:山梨孝夫氏




静岡県鉄道発祥の地沼津

平成27年7月4日(土)13時~14時

会場:沼津商連会館1階
蛇松線は明治20年3月17日に蒸気機関車が試運転された。


沼津鉄道事始め

「陸上げされた機関車は沼津機関庫で組立られ,明治20年(1887)3月17日松薪を燃料として蛇松線で試運転を施行した」

沼津では狩野川の河口から沼津に至る区間,延長2.7kmの資材運搬線(後の蛇松線)と狩野川の河口に長さ約23.8mの桟橋(明治26年10月撤去)を建設した。

駿河湾の江の浦まで海上輸送された資材は,ハシケによって河口付近の御料局用地に設けられた資材置き場にいったん陸揚げされ,順次蛇松線を経由して現地への配給が行われた。
これらのことを示す資料として,逓信公文書に蛇松線の営業を求めて,明治31年(1898)12月10日に地元岳陽運送株式会社社長,真野佐右衛門外11名から「蛇松よりの仮線路をして営業線として使用の充許あらんこと」を請願した文書がある。その中で「旧きに鉄道開始に当たり用材運輸の為め造設せられたる字蛇松より本線へ連絡を通ぜられたる鉄道の存在するあり」と述べ,さらにこの請願を受けた鉄道局側の上申文書には「仰蛇松線は沼津停車場より分岐し同町の南方を迂回し駿河湾を去る数町狩野川に接したる字蛇松に至り終る延長一哩(マイル)四十五鎖の線路なり本線路は専ら建築用として使用せられ」と述べている。この請願上申の結果,明治32年(1899)6月15日から蛇松線の貨物の運輸営業が開始されたが,これらの文書が沼津機関庫創設当時の状況を問接的にしめしている。
沼津に始めて登場した機関車は5号機関車である。5号機関車は我が国最初の機関車10両のうちの1両であり,明治4年(1971)年イギリス・アボンサイドエンジン社で製造された,軸配置1Bのタンク機関車である。
5号機関車は東海道の建設工事が開始されると,新橋工場で完全修理を受け海上輸送されてきた。陸上げされた機関車は沼津機関庫で組立られ,明治20年(1887)3月17日松薪を燃料として蛇松線で試運転を施行した。当時ようすを明治20年(1887)の「静岡大務新聞」は次のように伝えている。
2月16日鉄道工事沼津駅の部分の模様を聞くに1司所物揚場なる狩野川下流の蛇松河岸より城内町の北裏なる停車場までの仮線路及び同停車場より木瀬川筋の本線路は巳にレールを敷き終り木瀬川架橋工事最中なり(同川の工事は東海道の木瀬川橋より凡そ十余町の上流に位す)停車場の建築も去る十日頃より棟上に着手したるが三四軒の官宅は巳に落成し蓮光寺内に設置ありし鉄道事務所は同官宅へ引移されて事務を取扱ひ居る由又停車場へ通ずる一等往還は上土町通り警察署を取払ひ治安裁判所測候所等を右に郡役所旧中学校を左に見て旧城の土手及び堀を平均て一直線に為すとの事なるが同停車場の近傍の田畑を宅地になす見込にて売買を為す者あるが其値段は一坪壱円より壱円七八十銭なりという
2月18日 四五日前江の浦より沼津停車場へ機関車数両到着せしにつき今明日頃より鉄道用材の運搬を始むるとか又同停車場は問口十二間奥行四間にて前後へ葺きおろす見込みなりといふ 3月1日沼津停車場へ機関車数両取寄せられし由は前日の紙上に掲げしが昨今近村より見物人をなす程にて停車場最寄へ露店二三軒を張り飴菓子を売る者あり又同機関車にて用材を運搬するは両三日のうちなるべしとの事なり汽笛一声沼津市中一万の夢を覚ますは愉快なる次第なり
(沼津機関区百年史より)

2015年7月2日木曜日

ああ高尾山古墳ー保存すべき貴重な文化財ー 小野眞一

ああ高尾山古墳
 ー保存すべき貴重な文化財ー 小野眞一
 高尾山古墳の最初の発見者であり、その名付け親でもある小野眞一氏から、同古墳に対する思い入れ深い投稿が寄せられた。小野氏は昭和四年生まれ。富士市在住。加藤学園考古学研究所所長を長く務めたほか、常葉短大教授、日本考古学協会理事などを歴任。沼津市内の埋蔵文化財に対する造詣が深い。
 最近、沼津市内北部の史跡「高尾山古墳」に関する報道が盛んに行われ、破壊や保存を巡る論戦が高まっている。
 そこで、小生も大きな関心を持ち、ここに一筆を記することにした。
 ◇
 まず、この古墳の所在地であるが、拙著『目で見る沼津市の歴史』(昭和五十三年、緑星社刊)に記されているとおり、愛鷹山地の低台地にあり、現在の沼津市東熊堂地域の北辺に存在している。
 この古墳の「発見」は昭和四十年代。当時、加藤学園考古学研究所に勤務し、県東部高校郷土研究連盟(十九校加盟)の顧問をしていた小生が、友人の笹津海祥師(妙海寺先代、故人)と共に、東名高速道路建設に伴う愛鷹山地の遺跡踏査中、偶然見つけたものだった。
 そして、前掲の『目で見る沼津市の歴史』に、当地方屈指の古代墳墓として発表した次第である。
 早速、当地の地主達が所有していた『金岡地区地図帳』に見られる大字(おおあざ)東熊堂の中にある小字の「辻畑(つじばたけ)」が古墳所在地に該当すると思い「辻畑古墳」とも記したが、実際には、その傍らの高尾山穂見神社の境内地であることから、拙著では「高尾山古墳」として修正した。
 この「高尾山」の名称は、立地が小「高」い「尾」根上にあるため生まれたもので、南麓の集落から仰ぎ見られる高所に由来している。
 また、墳丘が南方に低く傾斜する尾根上にあり、方形であったため、当初は方墳(四角い古墳)として拙著に掲載した。しかし、平成二十年に始まった都市計画道路沼津南一色線の建設工事のために穂見神社の移転工事も行われ、その調査の中で方形墳丘の南側に一段低い前方部が発見され、前方後方墳であることが判明した。
 その規模は南北前長六二㍍、南側の前方部の東西幅約二四㍍、北側の後方部の幅約三五㍍と判明し、後方部の盛り土の高さは約四㍍と推定された。しかも、後方部の頂上には被葬者を埋納した主体部があり、低い前方部は祭祀場であった。
 ◇
 次に年代であるが、主体部をはじめ、周溝(古墳を囲む溝)から多く出土した土器類は、廻間(はさま)式と呼ばれる古い素焼きの土師器(はじき)で、国内で広く分布し、また北陸や近江(滋賀)系の土器が見られ、これらの地との交流の様子が知られるようで
ある。
 この他、鉄鏃(てつぞく=矢の鉄製の先端部分)をはじめ、槍などの鉄製武器や、装身具の勾玉(まがたま)などが出土しており、これらを納めた木棺跡には青銅製の鏡(獣帯鏡)も存在していた。
 以上のことから、この高尾山古墳の築造は西暦二三〇年説、すなわち三世紀前半代のものと推定されている。
 ◇
 中国の史書『漢書』地理志によると、一世紀から三世紀にかけての日本の国土は「分かれて百余国をなす」とあり、多数の小国家が分立していた。『後漢書』東夷伝には、その中の「奴()」と呼ばれる国の国王が西暦五七年と一〇七年に使者を後漢(当時の中国を支配していた王朝)に送り、光武帝から印綬(いんじゅ=印鑑と専用のひも)を授与されている。そして、この金印が江戸時代に博多湾の志賀島(しかのしま)から発見され、それには「漢委()奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻印されている。
 後漢は三世紀の初頭に滅亡し、続いて魏()、呉()、蜀(しょく)の三国時代に移行したが、その魏国の史書『魏志』に含まれる「倭人伝」によると、一世紀後半には倭国(わこく=日本)に大乱が起き、三世紀後半に倭国の卑弥呼(ひみこ)という女性が諸国より推されて女王になったと記されている。
 その国は邪馬台国(やまたいこく)と言われ、約三〇の小国を支配していた。そして西暦二一二九年に卑弥呼は魏の皇帝に使者を送り、親魏倭王(しんぎわおう)の称号と銅鎮百枚などを下賜れたが、やがて死去し大きな塚(直径百余歩大古墳)が築造されたという。
 現在、高尾山古墳は築造が二三〇年頃、埋葬が二五〇年頃と推測され、日本国内最古級のものと考えられているが、これは卑弥呼の墓と言われる奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳とほぼ同時代である。
 ◇
 奈良県天理市の黒塚古墳(推定全長約一三〇㍍)、京都府木津川市の椿井(つばい)大塚山古墳(推定全長約一八〇㍍)も、ほぼ同じ頃の古墳と見られ、いずれも三角縁神獣鏡(銅鏡)が三十面以上出土し、箸墓古墳と並ぶ前方後円墳であることが知られている。
 これらは畿内をはじめ、全国各地に分布する首長級の墳墓で、古代の近畿を支配した大和政権の本拠地から諸国へ伝播(でんぱ)した。この時期は大和政権による国土統一が進行した時期で、文献史上では大和時代、考古学上では古墳時代と呼ばれている。
 そして、その中期(四世紀から五世紀)には履中(りちゅう)天皇、応神天皇、仁徳天皇の日本三大古墳も見られ、特に仁徳陵は全長四八六㍍の世界最大のものとして知られている。
 沼津市内では、古墳時代前・中期の大型古墳として、松長の神明塚古墳前方後円墳)、中沢田の大中寺裏の道尾塚(どおつか)古墳(形状不明、一角縁神獣鏡出土)が知られている。
 続く六世紀から七世紀にかけての古墳時代後期の市内大型古墳としては、東沢田の長塚古墳(前方後円墳)、西沢田の子ノ神(ねのかみ)古墳(前方後円墳)が知られている。
 七世紀中葉の西暦六四五年には、ほぼ全国が統一され、大化改新となり、珠流河(するが)国は富士川から大井川までの庵原(いおはら)国や伊豆国と共に駿河国となった。その後、伊豆国は、また分離した。
 ◇
 こうした長い歴史の中で、古墳時代最古の古墳として存在した沼津市の高尾山古墳を考えると、その出土品と共に貴重な文化財として、復原かつ永久に残すべきではなかろうか。それが今、風前の灯になったのは残念至極。その復原費用は大であろうが、沼津を中心に私のような富士市民、さらには静岡県民からの協力も含めて、未来永劫、子々孫々に保存しようではないか。

【沼朝平成2772()投稿記事】

2015年7月1日水曜日

「高尾山古墳調査費可決」・市長高尾山調査に慎重な姿勢

「予算直ちに執行するつもりはない」
 市長高尾山調査に慎重な姿勢
 市議会六月定例会最終日の六月三十日午前十時から本会議が開かれ、委員会付託案件などの採決が行われた。
 今定例会に上程された議案のうち、一般会計補正予算案には都市計画道路沼津南一色線の建設に伴う高尾山古墳の取り壊し調査予算案も含まれている。議長を除く二十七議員による採決の結果、補正予算案は賛成二十一、反対六で可決された。
 本会議終了後、栗原裕康市長は記者団の取材に応じ、「補正予算を、直ちに執行するつもりはない」と明言。慎重な姿勢を見せた。
 執行を保留する理由としては「高尾山古墳に対する市民の関心が盛り上がってきている。さらに沼津のイメージの問題もある」と述べ、「予算案が可決されても執行が保留された例は過去にもある」と付け加えた。
 また、古墳の保存問題について栗原市長は、文化庁や国土交通省、県などと改めて協議すること、中立的な学識経験者を交えた議論の場を設けて市民の傍聴も可能とすること、などの意向を表明した。
 公開検討会の開催日程については未定だが、なるべく早期を目指すという。
 また、市長は「私は従来から、道路と古墳の両立が望ましいという立場を取り続けていた」と語るとともに、「(保存問題については)報道や学者の意見を聴くだけでなく、古墳を実際に見て考えてほしい」と市民に呼びかけ、一般質問の答弁時と同様の考え方を改めて示した。
 調査予算案については、古墳保存陳情の審査会や委員会を通じ、反対の立場の議員から「古墳を取り壊すことについての市民への説明が行われていない」という批判があっただけでなく、賛成の立場の議員からも「市民への周知」を求める意見が相次いでいた。市長が公開検討会の開催を決断したのは、こうした動きへの配慮と見られる。
【沼朝平成2771()号】

「高尾山古墳調査費可決」
沼津市議会 市長「時期は保留」
 沼津市議会は30日の6月定例会最終本会議で、市が道路建設のため発掘調査を実施しながら取り壊す方針を決めた高尾山古墳(同市東熊堂)の調査費5100万円が盛り込まれた本年度一般会計補正予算案を賛成多数(賛成21人、反対6)で可決した。
 閉会後に報道陣の取材に応じた栗原裕康市長は、調査に入る時期について「しばらく保留する」と述べた上で、文化庁や国土交通省、県、学識経験者らを交えた協議会を設け、その意見を参考にしながら今後の方針を決める考えを示した。
 協議会について「なるべく早く準備する。内容は市民に公開する」と話し、「もともと古墳と道路の両立を前提に考えてきた。協議する中で、両立の新たなアイデアが出てくるかもしれない」と語った。
 議案の討論では、古墳取り壊しに反対の立場の市議が「国民的な財産、市民の誇りとして、あらためて市民とともに議論するべき」と訴えた。賛成の立場の市議は「必要な予算の追加。ただ、今後も引き続き関係機関と協議しながら最良の保存、活用方法を検討してほしい」と話した。
 これまでに市は2016年度末までの約2年間で古墳の墳丘全体を削り取る発掘調査を行いながら墳丘などを取り壊した後、17年度から古墳跡付近の道路建設工事に着手する方針を示している。
【静新平成2771()朝刊】

道路推進「早期着工を」
古墳存続「慎重に検討」
 高尾山古墳の調査費を盛り込んだ補正予算案の可決について、沼津市が進める都市計画道路「沼津南一色線」の早期着工の要望書を栗原裕康市長に提出した周辺5自治会の一つ、東熊堂自治会長の杉山僖沃さん(67)は「ひとまず良かった。地域住民は転居など多大な犠牲を払っている。文化財を否定するつもりはないが、早期に道路建設を進めてほしい」と訴えた。
 同古墳の存続を求める陳情書を浅原和美市議会議長に出した3市民団体の一つ、「高尾山古墳を考える会」代表の瀬川裕市郎さん(76)=元沼津市歴史民俗資料館学芸員=は議会傍聴後、「道路の取り付け方を含めて慎重に検討してほしい」と要望した。「市民のほとんどが古墳の価値を知らないのが問題」と述べ、陳情書を提出した他の2団体と連携して7月中旬から学習会や街頭署名を行う意向を示した。

【静新平成2771()朝刊】