2015年11月6日金曜日

11月のパイプのお知らせ

1ぬましんストリートギャラリー「横森幹男展」




2静岡県立美術館「写真家の眼・版画家眼」展



3ミュージカル「お菓子放浪記」案内



4沼津法人会新春講演会「東国の中心・沼津で歴史を語る」講師:磯田道史氏

2015年10月12日月曜日

400㌔巨体クマに驚き 北海道で駆除

400㌔巨体クマに驚き 北海道で駆除

 北海道紋別市のトウモロコシ畑で9月下旬、体重約400㌔にもなる雄のヒグマが射殺された。地元住民が「メタボ体形」と冗談で呼ぶほどの巨体で、猟友会の男性(71)は「300㌔でも大きい方。40年以上ハンターをしているが、こんなクマは見たことがない」と驚いている。
 紋別市によると、実りの秋を控えた8月ごろから、市内の畑や民家近くでヒグマの足跡が複数見つかり、市や警察などがパトロールを強化していた。コーンの食害に悩んだ農家が猟友会に依頼。畑を刈り取り、隠れ場所を狭め、畑から飛び出してきたヒグマを926日にハンターが仕留めた。
 旭山動物園(旭川市)もうじゅう館担当職員の大西敏文さんは「駆除された中では過去最大級だろう。畑はクマにとって楽園。冬ごもり前は食欲旺盛で、太ってしまつたのでしょう」と話した。

【静新平成271011()朝刊】

2015年9月26日土曜日

築山工事10月再開へ 牧水会が抗議の記者会見

築山工事10月再開へ
 牧水会が抗議の記者会見

 沼津牧水会の林茂樹理事長らは二十五日、千本郷林の若山牧水記念館で記者会見し=写真、中断している千本松原内への津波避難用人口高台「築山」建設工事について、「十月一日に再開する」と市が地元自治会に通知したのを受け、問題は何も解決していないと抗議するとともに、クロマツを守るために築山標高を十五㍍から十一㍍にするよう求めた。
 林理事長は、戦国時代に荒れた千本松原は増誉上人の植栽によって再生が始まり、千本松原を愛し沼津に終の棲家を求めた牧水が県のクロマツ伐採計画に反対し守られてきたことを説明。今年四月、移植のために根回ししたクロマツ三本の発根状況を確認しないままの工事再開を疑問視した。
 さらに、予定地の地盤標高は六㍍で、津波による想定浸水深五・五㍍に対して防潮堤が八㍍あり、「津波が襲う想定はない」と指摘。
 工事再開を知って二十二日に牧水会理事会を開き、一委任状を含む十五人の理事と監事全員が「市が計画する築山標高十五㍍は容認できない」ことを確認したという。
 この決定を受けて二十四日朝、市長宛てに嘆願書を提出。クロマツを一本も切らずに築山を造成することは英断だと評価する反面、田子の浦港の浚渫土をコンクリートで固めた超重量級の築山によって山裾から三㍍以内にあるクロマツの根が圧迫によって将来的に枯死する心配を訴えた。
 また、築山を覆う三〇㌢の表土が、近年度々起きる豪雨によって流出し近接のクロマツの根元に堆積し呼吸を妨げる悪影響を与える可能性がありさらに、浚渫土にはダイオキシンが含有されていることは周知のことだとし、危険物質が雨によって溶出し生長を阻害することを危惧。
 築山の形状は、低木の植栽さえも不可能なセメントで固めた山で、自然との共生を希望した牧水が愛した千本松原にはふさわしくなく、千本松原を愛する者にとって受け入れがたい、と結論付けた。
 嘆願書に対し市は同日夕、栗原裕康市長名で回答書を届け、「高尾山古墳の例を見るまでもなく、市民間には対立する意見が常に存在いたします。古墳保存と道路建設を両立させるための検討会で参加委員が指摘されたとおり、お互い八〇%の出来で満足するよう合意形成を図るべきで、どちらかが自分の主張を一〇〇%達成しようとすると、話はまとまらないとのことは、この築山造成にも当てはまると考えます」などと応じた。
 記者会見では、市が同会に提出した計画平面図を基に作った立体模型を同会理事で建築士の河辺龍二さんが持参。

 河辺さんは模型を使い、造成によって枯れる危険性があるクロマツを赤と黄、緑に色分けして説明してから、「牧水が守った松を、さらに我々が守る」との決意を示し、「枯らすことは、切ることと何ら変わりない」と釘を刺した。
 また、やはり建築士の鈴木弘行監事は「セメント固化はダイオキシンを含んだ浚渫土の最終処分として実施するもので、それを築山に持ってくるのは疑問」だとした。
 林理事長は回答文にある「八〇%」に対し、全く合意形成などされていないことを指摘するとともに、「回答文には、我々の疑問に対するものは一切ない。誠実さが見られない」と批判した。
 同会が築山標高を十一㍍とする根拠は、一昨年二月十九日、市長が全国市長会で「地域力を活かした防災体制の構築-沼津市の地震・津波対策」と題した講演で、そこには「普段はお子さんが遊んだりお年寄りが遊べるような広場にして、いざという時に逃げ込めるような築山。大体標高十一㍍ぐらい、海抜十一㍍ぐらいのものを造っていこうという風に思っています」とある。
 市長は、この発言に関し、「私の講話は、この築山計画の構想段階(アイデアのみ)での話でありますので、ご承知おき頂きたいと存じます」と回答又に記している。

【沼朝平成27926()号】

2015年9月13日日曜日

「地域資源を生かした産業の創出・集積」事業評価

 防災人材効果評価割れる
 県事業レビュー初日
 県民らが県の事業効果を評価する本年度の「県事業レビュー」が12日、県庁で始まり、抽選で選ばれた県民評価者95人と専門委員12人が2会場で「地域資源を生かした産業の創出・集積」と「地震・津波対策の推進」の2テーマ4事業を点検した。地域防災力向上人材育成事業は防災人材と地域との関わりが希薄などとする指摘が相次ぎ、「一定の効果がある」と「あまり効果がない」の判定が同数に割れた。
 県民評価者の多数決で評価を決めるため、同事業の評価結果は両論が併記される。このほかの3事業は「一定の効果がある」と判定された。
 議論では、本県は自主防災組織の組織率が100%近い水準を誇る一方、知事が認証するふじのくに防災士が自主防と十分に連携せず、「平時の地域防災に人材を生かし切れていない」との批判が出た。
 防災マイスターや地域防災指導員など、防災士と同様に「ふじのくに」の冠を付けた知事認証制度が複数あることを念頭に、出席者が「防災人材に対する県のスタンス、位置付けが曖昧」と苦言を呈する場面もあった。
 県産食材の消費拡大を目的に掲げた「食の都づくり」推進事業は、成果指標に「地産地消率」を設定していることを取り上げ、「(県産食材の)県外での消費や輸出の指標も持つべきでは」と再考を求める意見が出た。県産食材を積極活用する料理人らを表彰する「ふじのくに食の都づくり仕事人」についても「県産食材の消費拡大に結びついているか不透明」「仕事人の数を増やすより、いかに仕事人を活用するかが大事」などの指摘があった。
 13日は観光や実学推進フロンティアなどをテーマに実施する。


【静新平成27913()
刊】









2015年9月10日木曜日

決定版「沼津商業界戦後昭和史pdf」です。

各位、
平成27年正月より更新しておりました「沼津商業界戦後昭和史」の最終版、決定版の「沼津商業界戦後昭和史pdf最新版」を発信します。
決定版沼津商業界戦後昭和史pdf

↑クリックして読んで頂けるとありがたいです。


上本通り商店街(当時文化劇場前)を闊歩する若い女性達

2015年9月8日火曜日

高安智美さん地元沼津で初公演。

 沼津出身高安さん結成の団体
 地元で初演劇
 沼津市出身の高安智実さん(34)が5日夜、
所属する東京の即興演劇集団TILT(ティルト)の同僚2人と結成したグループ「つるかめ企画」の地元での初公演を、同市大手町の飲食店「蕎麦DE JAZZ DEN」で行った。
 上演作「こもれび荘からこんにちは」は3階建てアパートが舞台で、個性的な住人や管理人がさまざまな人生ドラマを繰り広げる悲喜劇。高安さんとグループの一員宮崎優里さん(33)が台本を作り、それぞれが4役を演じた。ピアノ伴奏はジャズピアニストの伊沢知恵さん(36)=函南町出身=が担当した。
 高安さんの家族や友人が公演会場を用意した。高安さんは「地元での公演は念願だった。第2弾も考えている」と話した。
【静新平成27年9月8日(火)朝刊】

2015年8月30日日曜日

開花について 真木美紗子

開花について 真木美紗子
 四十八年も前に亡くなった父のことである。
 明治三十三年、伊豆の石廊崎生まれで、今生きていれば百十六歳にもなる。青春時代をこの沼津で、沼商生として四年間(ひょっとして五年)を過ごしたという。地元や地方出の数人が、よく話題に上ったが、友達に恵まれて良い刺激を受けながら楽しく、豊かに過ごしたようだった。
 当時、沼商はスポーツが盛んで、父は剣道をやっていて、かなり強かったらしい。その腕は戦時中、在郷軍人として銃剣術の試合で発揮され、旧満州新京(現中国東北部吉林省長春)での大会で優勝したことでも証明されている。
 父は昭和はじめごろ満州に渡り、二十九年に沼津に引っ越した。満州以降、ずっとご無沙汰だった、あの沼商時代の人達と、やっと旧交を温めることができて、それは楽しそうだった。
 小山町からHさんが出てくると、必ず集まって一杯やっていた。そのたびに、話題はいつのまにか沼商時代のことになっているのには笑った。
 沼中(現沼津東高)といつも対立していたこと、御成橋の脇のAさんは大きな声を出して格好は良かったが、実は剣道ほ余り強くなかったこと、師範学校の生徒が、ちよっと年上だけに、えらく大人に見えたことなど、当時、もう六十代のおじさん達が飽きずに話していたことだ。
 中でも「開花」に下宿していたというHさんは、よく開花のことを話題にした。自宅通いの0さん、1さん、そして、うるさい大家さんのもとにいた父達は、よく開花に行ったと言っていた。
 父は下小路に下宿していたらしいが、当時の開花がどこにあったかは聞かずじまいだった。私は勝手に、今の旭町の開花を思っていたが、先日のこの欄で、当時は下本町にあったということを知った。今となっては確かめる術も無い。
 ずっと後になって、私の子ども達が、開花が実家であるピアノの先生に長く教えていただいた縁で、先生の姉上と話をする機会があり、父達のことを話したら、「渡辺さん(父)やHさんは覚えていますよ」と言ってくださった。
 百年も前に少年だった父達が年中行かせてもらい、お世話になった開花が、ここで閉じるという。感慨深いものがある。
(主婦、西熊堂)
【沼朝平成27年8月30日言いたいほうだい】

2015年8月27日木曜日

「開花」の灯を惜しむ 坂本紹一

 「開花」の灯を惜しむ 坂本紹一
沼津市旭町の割烹「開花」が八月で閉店するとのこと、割烹料理の古い文化を伝えてきた店だけに、惜しい気持ちである。
割烹とは、もともとは「割く、煮る」の意味であるが、転じて高級料理店の意味で使われてきたようである。芸者などを呼ぶことができて、格式が高い料亭であったという。
建物も風情があり、道路から水が打たれたスロープを上がって玄関へ向かう雰囲気が独特であった。赤じゅうたんの廊下や階段、トイレも広くて、古風な趣があった。大小の部屋と大宴会場や会議室があり、いろいろな客層のニーズに対応していたようである。
扱う季節の食材も吟味したもので、器も商級なものが多く使われていた。私も、秋に訪れると出される「マツタケの茶わん蒸し」が楽しみであった。
明治二十七年に下本町で創業し、昭和二十五年に現在の地に移ったとのこと。長い歴史を刻んできた店だけに閉店が惜しまれる。それぞれの時代の多くの顧客の様々な思いを込めた宴席として使われてきたことは想像に難くない。
当主の杉山文一氏は沼津東高の出身で、私は沼中東商の百年史の編集委員であったことから、文一氏が所蔵していた貴重な資料や写真をお借りすることができた。「開花」が東高の各期の同窓会などで多く使われたので、資料や写真が自然と集まってきたようであった。
「開花」は、東高の関係者からは、オアシスのように癒される場所として使われていたという一面も持っていた。
聞くところでは、今日の経済情勢の中で、今後とも利用者の要望に応えていくためには、設備の充実、経営の改善、後継者の育成などの課題があるとのこと。
時代の流れとして難しい問題はあるかと思うと、残念であるが「あっぱれ」と声をかけて、閉店を見守るしかない。
(社会福祉士、長泉町)
【沼朝平成27年8月27日(木)言いたいほうだい】

2015年8月24日月曜日

ブルートレイン歴史に幕

ブルートレイン歴史に幕
 最終「北斗星」上野到着
 寝台特急ブルートレイン「北斗星」の最終列車が23日午前、終点のJR上野駅に到着した。現役ブルトレの最後の運行で、かつて列島各地を結んで活躍したブルトレの歴史にピリオドが打たれた。鉄道ファンら約2500人(JR東日本発表)がホームで迎え、引退を惜しんだ。
 最終列車は客車11両で定員188人。JR札幌駅を22日午後4時12分に出発し、23日午前9時25分、定刻通り上野駅に着いた。乗客が降りた後、車両基地へと向かう姿を見送ったファンからは「ありがとう」と声が上がり、乗務員も手を振って応えた。
 ブルトレは1958年に登場。高度経済成長期はビジネスの足として活躍したが、新幹線や飛行機、夜行バスに押されて乗客が減少、廃止が進んだ。北斗星は88年、青函トンネル開業に合わせてデビュー。今年3月に定期運行を終え、4月から臨時列車として、上野発、札幌発それぞれ週3日程度の運行を続けていた。
【静新平成27年8月24日(月)朝刊】

2015年8月21日金曜日

 割烹開花の閉店 千野慎一郎

 割烹開花の閉店 千野慎一郎
沼津の老舗料理店が、また姿を消します。創業百二十余年の割烹開花が八月末日をもつて閉店します。長年、沼津の食文化・お座敷文化を支えてきた老舗の廃業は時代の流れとは言え、一市民として、また、現在の建物建設に関わった一人として寂しい限りです。
開花の創業は明治二十六年頃と聞いています。当時の沼津の町は明治二十二年の東海道線開通・沼津駅開設と二十六年の沼津御用邸の造営により会国的に保養地としての名を広め、商業の町としても着実に発展していました。
平成二年発行の沼津料理組合百年史によると、明治二十七年に沼津料理飲食業組合が設立され、開花初代の杉山吉太郎氏が役員に名を連ねています。
また、明治三十四年発行の「沼津の華」の中で沼津の全商店を紹介した沼津繁昌記には開花楼として詳しく紹介されています。
その中の概要ですが、当時の開花は下本町の浅間神社北側にあり、宏壮優美な和風二階建で楼上からは北に富士山、南に浅間神社越しに干本松原を望み、料理は食材の魚介野菜が新鮮で味が良く低廉で、女中の応待も良く昼夜繁昌していた、と記載されています。
開花のあった本町付近は、大正から昭和前期にかけての沼津の中心街で劇場や寄席小屋、数多くの料理店、飲食店、カフェーが軒を並べ、芸妓置屋や芸妓見番もある花街の中心でもありました。
組合役員名簿によると、大正五年に初代杉山吉太郎氏が組合長に就任。十五年には、二代目の杉山龍吉氏が副組合長に、さらに昭和四年には商工会議所議員に当選し、二代にわたり組合活動に尽刀されています。
昭和二十年七月の沼津大空襲で市域の半分以上が焼き尽くされ、大正の大火では被災を逃れた開花も焼失しました。
戦後の混乱期を過ぎた二十六年に現在の旭町に移転し開業します。二十八年に二代目龍吉民の急逝により、現店主の杉山文一氏が修業先より戻り、二十代の若さで三代目を引き継ぎます。
文一氏は店を順調に発展させる一方で、新たに発足した沼津料理店営業組合胃年部員としても大きな貢献をされ、昭和五十三年二月には区画整理事業に合わせて待望の新店舗を竣工させました。築三十七年を過ぎた現在でも維持管理が良く、和風三層の凛とした風格を保っています。
時代も平成に移り、急速にライフスタイルや食文化の変化が進み、多くの料理店が店を閉めたり業態を変えたりしていきました。
古いものや伝統への関心、愛着が希薄な沼津の中で、伝統的なスタイルで地道に暖簾を守ってきた開花の閉店は沼津のお座敷文化の終焉と言っても過言ではありません。
終わりに開花の建物の処分はまだ決まっていないようですが、何らかの形で活用されてほしいと願っています。(建築士、宮本)
【沼朝平成27年8月21日(金)言いたいほうだい】

2015年8月13日木曜日

2015年7月28日火曜日

沼津史談会「沼津ふるさとづくり塾」郷土史研究と地域づくり

平成27年8月15日(土)13時30分~
沼津市立図書館4階講座室
「郷土史研究と地域づくり」
講師:西まさる氏・吉田政文氏

2015年7月18日土曜日

広報沼津 平成27年7月15日号

広報沼津 平成27年7月15日号より
平成27年度 市政功労者表彰記念写真


















第68回沼津夏まつりスケジュール表


2015年7月10日金曜日

高尾山古墳原形保存を申し入れ(静新記事)高尾山古墳の原型保存求める(沼朝記事)

高尾山古墳原形保存を申し入れ
 沼津市に6市議
 630日の沼津市議会定例会で高尾山古墳(同市東熊堂)の発掘調査費を盛り込んだ本年度一般会計補正予算案に反対した6市議が9日、同古墳の原形保存を求める栗原裕康市長宛ての申し入れ書を市に提出した。
 6市議は川勝平太知事や日本考古学協会の発言や声明などを踏まえた上で、古墳を「夢と希望あるまちづくりの中心的な国民的財産」と位置付け、建設中の都市計画道路「沼津南一色線」と古墳の原形保存の両立を訴えた。
 書面は市政策企画課秘書室の担当者が受け取った。
【静新平成27710()朝刊】

高尾山古墳の原型保存求める
市議6人が市長に要望書
 沼津市議の六人が九日、栗原裕康市長に対して高尾山古墳の原形保存要望の申し入れを行った。市長代理として秘書室長が要望書を受け取った。
 申し入れを行ったのは、川口三男(共産党市議団)、中田孝幸()、山下冨美子(未来の風)、江本浩二()、殿岡修()、梅沢弘(無所属)の六市議。いずれも六月議会で古墳の取り壊し調査予算を含む補正予算案に反対していた。
 要望書の提出後、六人を代表して川口市議が取材に応じ、「古墳保存問題を検討するために開催される協議会が、出席者の人選過程も含めてオープンな形で進められることも口頭で要望した。『国民共有の文化遺産』との評価もある古墳の存在は、閉塞感の中にある市民に夢やロマンを与える材料にもなり得る。これは、まちづくりの問題でもある」と話した。
 今回の要望書は栗原市長宛てだったが、代理人による受け取りとなった。市長は、様々な立場に対する公平を期するため、高尾山古墳や沼津南一色線に関する要望書については、現在ではいかなる立場からのものであっても代理受け取りをする意向だという。
 提出された「原形保存を前提にした高尾山古墳の保存についての申し入れ」と題する要望書の要旨は次の通り。
 ▽古墳の原形保存と道路建設の両立を要望する。
 ▽補正予算案可決後、市長が予算執行を見送ると報道発表したことは「英断」であり、大いに評価すべきものとして受け止めている。
 ▽古墳保存を求める有識者や市民、両立を望むと発言した県知事などの様々な声を踏まえた上で、今後の熟慮も改めて要望する。

【沼朝平成27710()号】

2015年7月4日土曜日

150704鉄道トーク:山梨孝夫氏




静岡県鉄道発祥の地沼津

平成27年7月4日(土)13時~14時

会場:沼津商連会館1階
蛇松線は明治20年3月17日に蒸気機関車が試運転された。


沼津鉄道事始め

「陸上げされた機関車は沼津機関庫で組立られ,明治20年(1887)3月17日松薪を燃料として蛇松線で試運転を施行した」

沼津では狩野川の河口から沼津に至る区間,延長2.7kmの資材運搬線(後の蛇松線)と狩野川の河口に長さ約23.8mの桟橋(明治26年10月撤去)を建設した。

駿河湾の江の浦まで海上輸送された資材は,ハシケによって河口付近の御料局用地に設けられた資材置き場にいったん陸揚げされ,順次蛇松線を経由して現地への配給が行われた。
これらのことを示す資料として,逓信公文書に蛇松線の営業を求めて,明治31年(1898)12月10日に地元岳陽運送株式会社社長,真野佐右衛門外11名から「蛇松よりの仮線路をして営業線として使用の充許あらんこと」を請願した文書がある。その中で「旧きに鉄道開始に当たり用材運輸の為め造設せられたる字蛇松より本線へ連絡を通ぜられたる鉄道の存在するあり」と述べ,さらにこの請願を受けた鉄道局側の上申文書には「仰蛇松線は沼津停車場より分岐し同町の南方を迂回し駿河湾を去る数町狩野川に接したる字蛇松に至り終る延長一哩(マイル)四十五鎖の線路なり本線路は専ら建築用として使用せられ」と述べている。この請願上申の結果,明治32年(1899)6月15日から蛇松線の貨物の運輸営業が開始されたが,これらの文書が沼津機関庫創設当時の状況を問接的にしめしている。
沼津に始めて登場した機関車は5号機関車である。5号機関車は我が国最初の機関車10両のうちの1両であり,明治4年(1971)年イギリス・アボンサイドエンジン社で製造された,軸配置1Bのタンク機関車である。
5号機関車は東海道の建設工事が開始されると,新橋工場で完全修理を受け海上輸送されてきた。陸上げされた機関車は沼津機関庫で組立られ,明治20年(1887)3月17日松薪を燃料として蛇松線で試運転を施行した。当時ようすを明治20年(1887)の「静岡大務新聞」は次のように伝えている。
2月16日鉄道工事沼津駅の部分の模様を聞くに1司所物揚場なる狩野川下流の蛇松河岸より城内町の北裏なる停車場までの仮線路及び同停車場より木瀬川筋の本線路は巳にレールを敷き終り木瀬川架橋工事最中なり(同川の工事は東海道の木瀬川橋より凡そ十余町の上流に位す)停車場の建築も去る十日頃より棟上に着手したるが三四軒の官宅は巳に落成し蓮光寺内に設置ありし鉄道事務所は同官宅へ引移されて事務を取扱ひ居る由又停車場へ通ずる一等往還は上土町通り警察署を取払ひ治安裁判所測候所等を右に郡役所旧中学校を左に見て旧城の土手及び堀を平均て一直線に為すとの事なるが同停車場の近傍の田畑を宅地になす見込にて売買を為す者あるが其値段は一坪壱円より壱円七八十銭なりという
2月18日 四五日前江の浦より沼津停車場へ機関車数両到着せしにつき今明日頃より鉄道用材の運搬を始むるとか又同停車場は問口十二間奥行四間にて前後へ葺きおろす見込みなりといふ 3月1日沼津停車場へ機関車数両取寄せられし由は前日の紙上に掲げしが昨今近村より見物人をなす程にて停車場最寄へ露店二三軒を張り飴菓子を売る者あり又同機関車にて用材を運搬するは両三日のうちなるべしとの事なり汽笛一声沼津市中一万の夢を覚ますは愉快なる次第なり
(沼津機関区百年史より)

2015年7月2日木曜日

ああ高尾山古墳ー保存すべき貴重な文化財ー 小野眞一

ああ高尾山古墳
 ー保存すべき貴重な文化財ー 小野眞一
 高尾山古墳の最初の発見者であり、その名付け親でもある小野眞一氏から、同古墳に対する思い入れ深い投稿が寄せられた。小野氏は昭和四年生まれ。富士市在住。加藤学園考古学研究所所長を長く務めたほか、常葉短大教授、日本考古学協会理事などを歴任。沼津市内の埋蔵文化財に対する造詣が深い。
 最近、沼津市内北部の史跡「高尾山古墳」に関する報道が盛んに行われ、破壊や保存を巡る論戦が高まっている。
 そこで、小生も大きな関心を持ち、ここに一筆を記することにした。
 ◇
 まず、この古墳の所在地であるが、拙著『目で見る沼津市の歴史』(昭和五十三年、緑星社刊)に記されているとおり、愛鷹山地の低台地にあり、現在の沼津市東熊堂地域の北辺に存在している。
 この古墳の「発見」は昭和四十年代。当時、加藤学園考古学研究所に勤務し、県東部高校郷土研究連盟(十九校加盟)の顧問をしていた小生が、友人の笹津海祥師(妙海寺先代、故人)と共に、東名高速道路建設に伴う愛鷹山地の遺跡踏査中、偶然見つけたものだった。
 そして、前掲の『目で見る沼津市の歴史』に、当地方屈指の古代墳墓として発表した次第である。
 早速、当地の地主達が所有していた『金岡地区地図帳』に見られる大字(おおあざ)東熊堂の中にある小字の「辻畑(つじばたけ)」が古墳所在地に該当すると思い「辻畑古墳」とも記したが、実際には、その傍らの高尾山穂見神社の境内地であることから、拙著では「高尾山古墳」として修正した。
 この「高尾山」の名称は、立地が小「高」い「尾」根上にあるため生まれたもので、南麓の集落から仰ぎ見られる高所に由来している。
 また、墳丘が南方に低く傾斜する尾根上にあり、方形であったため、当初は方墳(四角い古墳)として拙著に掲載した。しかし、平成二十年に始まった都市計画道路沼津南一色線の建設工事のために穂見神社の移転工事も行われ、その調査の中で方形墳丘の南側に一段低い前方部が発見され、前方後方墳であることが判明した。
 その規模は南北前長六二㍍、南側の前方部の東西幅約二四㍍、北側の後方部の幅約三五㍍と判明し、後方部の盛り土の高さは約四㍍と推定された。しかも、後方部の頂上には被葬者を埋納した主体部があり、低い前方部は祭祀場であった。
 ◇
 次に年代であるが、主体部をはじめ、周溝(古墳を囲む溝)から多く出土した土器類は、廻間(はさま)式と呼ばれる古い素焼きの土師器(はじき)で、国内で広く分布し、また北陸や近江(滋賀)系の土器が見られ、これらの地との交流の様子が知られるようで
ある。
 この他、鉄鏃(てつぞく=矢の鉄製の先端部分)をはじめ、槍などの鉄製武器や、装身具の勾玉(まがたま)などが出土しており、これらを納めた木棺跡には青銅製の鏡(獣帯鏡)も存在していた。
 以上のことから、この高尾山古墳の築造は西暦二三〇年説、すなわち三世紀前半代のものと推定されている。
 ◇
 中国の史書『漢書』地理志によると、一世紀から三世紀にかけての日本の国土は「分かれて百余国をなす」とあり、多数の小国家が分立していた。『後漢書』東夷伝には、その中の「奴()」と呼ばれる国の国王が西暦五七年と一〇七年に使者を後漢(当時の中国を支配していた王朝)に送り、光武帝から印綬(いんじゅ=印鑑と専用のひも)を授与されている。そして、この金印が江戸時代に博多湾の志賀島(しかのしま)から発見され、それには「漢委()奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻印されている。
 後漢は三世紀の初頭に滅亡し、続いて魏()、呉()、蜀(しょく)の三国時代に移行したが、その魏国の史書『魏志』に含まれる「倭人伝」によると、一世紀後半には倭国(わこく=日本)に大乱が起き、三世紀後半に倭国の卑弥呼(ひみこ)という女性が諸国より推されて女王になったと記されている。
 その国は邪馬台国(やまたいこく)と言われ、約三〇の小国を支配していた。そして西暦二一二九年に卑弥呼は魏の皇帝に使者を送り、親魏倭王(しんぎわおう)の称号と銅鎮百枚などを下賜れたが、やがて死去し大きな塚(直径百余歩大古墳)が築造されたという。
 現在、高尾山古墳は築造が二三〇年頃、埋葬が二五〇年頃と推測され、日本国内最古級のものと考えられているが、これは卑弥呼の墓と言われる奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳とほぼ同時代である。
 ◇
 奈良県天理市の黒塚古墳(推定全長約一三〇㍍)、京都府木津川市の椿井(つばい)大塚山古墳(推定全長約一八〇㍍)も、ほぼ同じ頃の古墳と見られ、いずれも三角縁神獣鏡(銅鏡)が三十面以上出土し、箸墓古墳と並ぶ前方後円墳であることが知られている。
 これらは畿内をはじめ、全国各地に分布する首長級の墳墓で、古代の近畿を支配した大和政権の本拠地から諸国へ伝播(でんぱ)した。この時期は大和政権による国土統一が進行した時期で、文献史上では大和時代、考古学上では古墳時代と呼ばれている。
 そして、その中期(四世紀から五世紀)には履中(りちゅう)天皇、応神天皇、仁徳天皇の日本三大古墳も見られ、特に仁徳陵は全長四八六㍍の世界最大のものとして知られている。
 沼津市内では、古墳時代前・中期の大型古墳として、松長の神明塚古墳前方後円墳)、中沢田の大中寺裏の道尾塚(どおつか)古墳(形状不明、一角縁神獣鏡出土)が知られている。
 続く六世紀から七世紀にかけての古墳時代後期の市内大型古墳としては、東沢田の長塚古墳(前方後円墳)、西沢田の子ノ神(ねのかみ)古墳(前方後円墳)が知られている。
 七世紀中葉の西暦六四五年には、ほぼ全国が統一され、大化改新となり、珠流河(するが)国は富士川から大井川までの庵原(いおはら)国や伊豆国と共に駿河国となった。その後、伊豆国は、また分離した。
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 こうした長い歴史の中で、古墳時代最古の古墳として存在した沼津市の高尾山古墳を考えると、その出土品と共に貴重な文化財として、復原かつ永久に残すべきではなかろうか。それが今、風前の灯になったのは残念至極。その復原費用は大であろうが、沼津を中心に私のような富士市民、さらには静岡県民からの協力も含めて、未来永劫、子々孫々に保存しようではないか。

【沼朝平成2772()投稿記事】