2014年11月2日日曜日

遺跡になった地下名店街 (上・下) 高地 英壽:沼朝寄稿記事

遺跡になった地下名店街 () 高地 英壽

 いま思うと、夢のような話である。
 もう、かれこれ五十年になろうか。沼津市の繁華街に、風変わりな、いや、ちょっと心ときめく地下名店街がオープンした。
 あるとき、散歩の途中立ち寄った大手町のカフェで、そのことが話題になった。
 「あの地下街は、随分、深いところにあったんだよ」「東富士と今沢の基地を結んで、旧国一を米軍や目衛隊の重い戦車が走るので、深くしたんですね」
 常連さんたちはコーヒーを味わいながら、かすかな記憶を頼りに、遠くに霞んでしまった時代を懐かしんでいた。
 街から若者の姿が減り、「地方消滅」の言葉が跋扈(ばっこ)するご時世である。
 だが、そんな現実が嘘のような話ではないかと、私はひどく刺激された。
 この街はかつて、進取の心意気にあふれ、斬新かつ向こう見ず、どえらいことに挑戦する、遠州流「やらまいか」の精神が溢れていたのだと、感慨を深くしたものである。
 地下街といえば、東京の八重洲、名古屋・セントラルパーク、川崎・アゼリア…名だたる都市の地下街は、消費文化の先端を走るファッションの総本山に成長している。
 なのに、地下に埋もれたままの沼津「味のちか道名店街」は、すでに人々の記憶の片隅に眠る思い出に過ぎない。
 しかし、この地下街にも沼津を彩った光陰の物語があっただろう。
 敗戦の傷も癒えた昭和三十年代といえば、所得倍増の掛け声の下に人々は懸命に働き、驚異的な経済成長を成し遂げた輝かしい時代だ。わが沼津,も好況に背中を押され、堂々たる中核都市の顔つきを見せていた。
 東京オリンピックの二年前、戦後のヤミ屋街が装いも新たに、洒落たアーケードの仲見世商店街に生まれ変わった。
 お洒落のシンボルはとりわけ、都会のファッションに憧れる若いお嬢さんたちをとりこにしたようだ。
 界隈には沼津商工会議所や、地元スルガ(当時は駿河)銀行、沼津信用金庫、それに三和、東海の両銀行など金融機関が集中し、人いきれするほどの賑わいだった。
 仲見世と、新仲見世の間に国道一号線が走っていた。車の交通量が多い国一を、朝、夕、それにランチどき、危険を顧みず横断する歩行者が後を絶たない。歩行者の安全を守ろうと、地下道建設計画が持ち上がった。
 市役所も商店街も行け行けどんどん、怖いものなし。明るい、酒落た地下道にしようと、名店街を誘致したのである。
 かくして、全国初の商店街付き国道下地下街が昭和四十年三月二十日、デビューした。
 地下街には、中央に幅六㍍、長さ十六㍍の通路があり、その両脇に一区画二十平万㍍ほどの商店八軒が並んでいた。南側に公衆トイレ、地下道の天井や壁に十六基の蛍光灯が点り、近代的な地下名店街を演出した。
 「味のちか道本日開店」ーこの日、三段の広告が沼津朝日新聞の紙面を飾っている。
 その開店案内には、通路の片側に、喫茶店、蕎麦とうどんの店、おにぎり屋、ふとん店がある。
 もう片方には、鰻屋、紳士服のテーラー、金魚と熱帯魚を売る養魚店、それに仲見世商店街事務局。事務局には真新しい公衆電話が置かれ、たばこやジュースを扱っていた。国道の両側の歩道に二か所ずつ、H型の出入り口があり、大都市の地下鉄の出入り口を思わせた。
 遺跡となった名店街は、いま、どんな姿で眠っているのだろう。
 ひょっとすると、街の再生を願う沼津の人々に何かを問いかけているのかもしれない。(つづく)(高沢町)
(沼朝平成26111日号寄稿記事)

 遺跡になった地下名店街()高地 英壽
 遺跡に思いを巡らせていたある日、地下街を閉鎖する際、撒収作業をしたという男性に出会った。
 「もう、三十年も前のこと。どうなっているかねえ。旧国一の歩道にはマンホールと、排気口があるんだがね」
 その人の言葉は、そんなに関心があるなら一度、遺跡を覗いてみたらどうだい、と、私の気持ちをかきたてるようなニュアンスを含んでいた。
 たしかに、マンホールと排気口はあった。数日後、遺跡を管理している市役所を訪ねた。
 上司に取り次いでくれた女性は、味のちか道のことをよく知っていた。
 「ええ、ありました、ありました。昔、私たち、あの地下街をよく歩きましたもの…」
 懐かしそうに語る表情は、かつての仲見世ファッションのお得意さんを思わせた。
 「せっかくのお尋ねですが、ちょっとご要望には添いかねます。もしものことがあったら…」
 恰幅のいい上司は、不測の事態を理由に、丁重にやんわりと断わり、私を説き伏せた。
 七十歳老人、マンホールから地下道に転落して大ケガー
 なるほど、これでは恥ずかしくて人に合わせる顔がない。
 総工費三千六百万円をかけた半官半民の地下街に入居した店は、それぞれ二百万円を市に預け、毎月五千円の家賃を払っていたそうだ。
 店の入れ替えもあり、理容店、カレーの店、やきとり屋が店を構えていた時期もあった。
 開店から閉鎖まで十七年間、地下街とお付き合いしたのが、紳士服のテーラー「トガシ」である。今も浅間町に店舗を構え、営業を続けている。
 店の代表で一級技能士の冨樫功さんは、仕事の手を休めて振り返る。
 「もの珍しさもあって、地下街は賑やかでしたよ。うちもハイカラな店構えをしたものです。自衛隊員や米国の宣教師が訪れ、紳士服を注文してくれました。地下は深かったせいか、空気が薄くて、よく睡魔に襲われましたよ」
 シャッターを下ろす店舗が目立つ昨今と違い、店を出せば売れる時代。地下街に進出したい人は多かったようだ。
 しかし、人々の生活が豊かになって、「便利さ」や「合理性」に価値を求め、体力がなまると、地下道は敬遠されるようになった。
 「階段が面倒だ。すべり台をつくってくれ」という人もいた。
 階段は三十八段もあった。沼津駅前の地下道が二十段であるから、深さは二倍。楽をしたい気持ちも分からないではない。
 階段にはひと休みする踊り場があった。その壁に、プロ野球で活躍中の巨人軍の長島、王選手の看板があり、「私たちは、階段で足腰を鍛えました」というような言葉が書かれていた。
 地下街に人を呼び込む苦肉の策だったが、国道に信号機付き横断歩道が現れると、地下道の利用者はめっきり減った。そして無用の長物となった地下道は昭和五十七年四月、ついに閉鎖に追い込まれた。
 足腰を鍛えようと、健康で長生きを唱える今日なら、世間の考え方も違っていたかもしれない。味のちか道名店街ー一席のお粗末である。
 街は生き物だ。満ち潮もあれば引き潮もある。地下名店街は、どこかで見通しを誤った公と、民が力を合わせてこしらえた、ささやかな記念碑である。私は、そう思う。
 高齢化。少子化。人口減少。難問が立ちはだかり、進むべき新しい道筋を描けずに苦しんでいるこの街に、記念碑が語るべき言葉はないか。
 「さあ?反面教師しかないでしょ」仲見世商店街の若手リーダーは、ほろ苦そうな顔をした。(おわり)(高沢町)

(沼朝平成26112日号寄稿記事)

大手町時代の商工会議所前の国道地下街入口の写真

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