160327泉水源地一般公開 from 河谷杯歩 on Vimeo.
「海軍の遺産・沼津水源地・抜粋」 著者 今井 三好
・・・・・ちょうど其の頃、東京水道局はこの地方の水源から水をとって箱根越えで東京迄水を引く計画があるのを知って、水道局を訪れ情報を聞こうとしたが海軍に取られては困ると考えてか詳細には教えて貰えず、やむなく自力で現地を調べることになり、沼津駅から徒歩で半日も歩いて現在の沼津市水源池である柿田川湧水にたどりつきました。それまで写真伝送や伊豆大島でラジオビーコンの送信所の建設をしていて、水に悩まされ続けていた私を驚かせたのは、一日の水量が何と一二〇万トンという清らかな水が渾々と湧き出していることであった。
早速この豊富な水を利用することに決まり、艦政本部ではすぐ予算をつけてくれたが、同時に地元の利害をも考え市と相談し、経費節減の意味からも半額を出して貰って市にも水をやるようにとの事であった。
早速、名取沼津市長に其の旨申上げて議会に上程したが、急なことでもあり市財政の赤字を理由に断って来たので止を得ず海軍だけでつくる事になった。
水源地は静岡県駿東郡清水村八幡泉で清水製紙焼跡一帯がえらばれた。
工事は横須賀海軍施設部が直営で、私はオーナー格で指揮に当っていた。工事の中途で、韮山の江川代官がつくったという用水取水口が出て来た。当時ここから田方平野に水を引いていたと思われる代官の偉大さと遠大さにうたれました。
工事については狩野川の底を通す送水管の前例が我が国にはないので、技研の文献室にドイツの文献を取り寄せて貰い、ライン川の川底の事例を頼りに川底工事に成功いたしました。送水管の径一二〇ミリのものであった。こうして川底を渡した水をいったん高台の五〇〇トン入り貯水池にポンプアップして、最高時で一五〇〇人もいた技研の人達の生活用水と、研究用プールの使用にあてた。その外の水源地としては江の浦の基地用と多比の工場用をつくりました。
その頃沼津海軍工廠が出来ることになって、東京市水道局から嘱託として海軍工廠に猿渡さんが来られ、私に協力を求められましたので音響研究部の工事の忙しい中を許可を得て香貫山中腹海抜五〇米のところに配水池を建造した(送水管径五〇〇ミリ)。工事はカンテラを吊して素掘工事であった。
現在の市水道の水瓶である(現在貯水池を香貫山の中腹に貯えてポンプアップして大容量の準備が出来ている)当時は海軍工廠に引く迄には至らなかったが貯水池は完成していた。
終戦直後沼津市としてもこの水道を移管して貰いたいとの事で芝辻一郎沼津市長から混乱のさなか市産業課長青木昇平(県会議員)さんを随行させるからという事で横須賀海軍施設本部の焼津の疎開先又横須賀の鎮守府にと懸命に廻り管財局に仮移管を御願した。
そのことは沼津市水道事業の沿革の一節に沼津市が旧海軍から水道の移管を受けた当時の経緯が記されている。
今にして思えば、沼津市の皆さんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水が出ていたので、何も高い施設費を払って水道をつくることはないという一般的な考えがあって、当時赤字財政を理由に水道投資の辞退を申出たのでしょうが、それにしても朝に晩にこの水を飲むことが出来る市民は幸である。
現在二〇万人口で八五パーセントが日量一〇万トンのこの水でうるおって居り、水道料金も全国一安いといわれている。
(一)清水村八幡に水を洩らす話
或る日、八幡の代表数名の方が見えて地元の私達に海軍の水を分けて貰い度いとの要求がありました。地元という事で上司に報告したところ、公然と水を分けてやる事は出来ないが、洩れる分には致し方なかろうという事で、私は地元に水を洩らすことになり、これが現在の清水町に水が行くことになった元だと思います。・・・・・
これは概略の部分ですが、今井さんの著書の一部です、海軍の上水道施設が沼津市のものになった経緯が分かると思います。
↓pdf資料
海軍の遺産・沼津水源地 from thorudes
清水町史資料より泉水源関連資料↓
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