2020年1月23日木曜日

EVバス全国初実験「未来のまちPR」静新記事 ・沼津駅・港間で実証実験スタート沼朝記事













自動運転+信号制御出発 沼津駅一港間
 県と沼津市などは22日、電気自動車(EV)バスの自動運転と信号制御技術を組み合わせた全国初の実証実験をJR沼津駅-沼津港間で開始した。新たな公共交通サービスの創出に向けて、技術的検証や観光客・地域佳民のニーズを把握する。31日まで。


EVバス全国初実験「未来のまちPR
 EVバスの車体には、信号を認識する全方位カメラや周囲の景色から位置情報を把握するレーザーセンサーが取り付けられ、県の道路測量データと連動して時速19㌔で自動走行する。実験区間は22㌔。信号機5基を制御して自動運転EVバスが近づくと、青信号の時間が長くなったり、赤信号の時間が短くなったりする。運転手も乗車し、緊急時は手動に切り替える。
 14人乗りで17往復し、乗車した観光客や住民らにアンケート一を実施する。この日、試乗した頼重秀一市長は「安心して乗っていられた。未来志向のまちづくりを進めていくというPRになれば」と話した。
 県交通基盤部の勝又泰宏都市局長は実験の意義を「高齢社会や公共交通のドライバー不足といった問題を、自動運転技術で補填(ほてん)していきたい」と説明する。車体を開発した群馬大次世代モビリティ社会実装研究センターの小木津武樹副センター長は「新たな交通手段として受け入れてもらうきっかけをつくりたい。移動自体を楽しめることは、観光地としての魅力にもなる」と述べた。
(東部総局・山下奈津美)
【静新令和2123日(木)朝刊】

自動運転バス、優先信号で運行
 沼津駅・港間で実証実験スタート
 市は、県が進める「しずおか自動運転ShoWCASEプロジェクト」に協力し、沼津駅と沼津港間を17往復する「自動運転バス」の実証実験を22日に開始。31日まで続ける。22日に出発式が沼津港の沼津みなと新鮮館前で開かれた。

 県は、公共交通への自動運転の導入を目指す同プロジェクトを20185月に発足させ、県を事務局に産学官一体となった施策を進め、地域の交通課題解決に向けた技術的支援や実証実験を行っている。
 自動運転の実証実験はエコパスタジアム内の通路で行うほか、昨年は松崎町と下田市の公道で小型の自動運転自動車を走らせたが、一般の乗客を乗せて運行するのは初めて。
 市では、公共交通の社会実験として沼津駅-沼津港間を往復する運質無料の「EVバス」を昨年10月に試験運行した実績に基づき、今回、プロジェクトに協力して実証実験を行うことになった。
 自動運転バスは、電動自動車の製造と販売を行うシンクトゥギャザー(本社・群馬県桐生市)が「ゆっくりと楽しく移動できる次世代モビリティ」として開発した10輪駆動の電動バス「eCOM110(イーコムテン)」がべース。
 群馬大次世代モビリティ社会実装研究センターが開発した自動運転システムを搭載し、衛星測位システムのGPSとレーザーセンサーで地図と照らし合わせて信号を検知し、遠隔監視する管制システムを採用。ハンドルやアクセル、ブレーキ操作が自動で行われる。
 運転操作は基本的にシステムが行うが、緊急時には運転手が手動運転に切り替える「自動運転レべル3」で実施し、東海パスと伊豆箱根バスの運転手が運行補助者として乗車し最高速度19㌔で走行する。
 さらに、今回の実験には、県内を拠点に自動車用照明や航空機の部品を製造するメーカーの小糸製作所が参加。大手町北から通横町まで5つの交差点の信号機で、自動運転バスが近づくと青信号に切り替わる「優先信号制御」の実験を国内で初めて行う。
 優先信号制御は、自動運転パスから位置情報が自動的に交通管制センターに送られ、交通管制センターが対象の信号機を制御することでバスがスムーズに走行できるよう支援するもので、実験ではバスの定時性、速達性向上を検証し周囲の交通への影響も調査する。
 出発式では、頼重秀一市長が「次世代モビリティを公共交通に活用できることを実証し将来を見据えたまちづくりに生かしたい。地域における拠点も大事だが、拠点をつなぐ交通ネットワークが重要」だとあいさつ。
 群馬大次世代モビリティ社会実装研究センターの小木津武樹副センター長が、2004年から自動運転の研究に携わり、16年から同センターで次世代移動手段としての研究を始め、沼津での実験が全国で38例目になることを話し、「路線バスとして導入し、地域公共交通として受け入れられるか実証するためにも多くの人に乗ってもらいたい」と話した。
 また、小糸製作所の有馬健司副社長は「安心、安全、快適性の向上に向けて関係各機関と協力して実験を行うことで、スマート社会の実現に貢献し、推進できるよう、努力を続けたい」とした。
 伊豆箱根バスの新宅広樹代表取締役は「実証実験に携われて意義深い。人材不足の解消、将来の生活や観光の仕方の発展にもつながれば」と期待し、県の宮尾総一郎交通基盤部長は「低速で公道を走る自動運転バスが地域の人に受け入れてもらえるかを実験し、県警の協力で信号制御を行う。ワンチームで取り組みたい」と話した。
 自動運転パスは運転手や運行補助者を除く乗車定員14人。窓ガラスがなく開放的で、風を感じながら景色を楽しむことができるが、雨避けの装備もあるので、荒天でなければ運行できる。乗車無料。
 運行時刻は、平日が沼津駅を午前920分から午後420分まで、沼津港を午前950分から午後450分まで、いずれも1時間間隔で出発。休日は沼津駅を午前9時から午後450分、沼津港を935分から午後525分まで、概ね1時間ごとに出発する。
 乗車予約が必要で、しずおか自動運転soWCASEプロジェクトの予約サイト(https://www.buscatch,jp/dtod/showcase2019shizuoka.phq?cuid)で受け付けている。
 問い合わせは県地域交通課(電話0542213186)または、市まちづくり政策課(電話934-4759)
【沼朝令和2123日(木)号】

2020年1月9日木曜日

妙海寺で八日堂


檀信徒ら滅除札に思い込め
 妙海寺で八日堂滅除式

 日蓮宗妙海寺(笹津海道住職)は「八日堂滅除式」を7旦夜、「日蓮聖人筆御本尊公開」を8日、下河原町の同寺で行った。
 滅除式は、沼津に立ち寄った日蓮聖人が8日間かけて祈祷し、高波を鎮めた伝承に基づき、1231日午前6時から8日午前6時までの丸8日間かけて行う祈祷の一環。
 檀信徒をはじめ家族連れや高校生らが多数訪れて本堂を埋め、心から消し去りたい嫌なこと、治したい病などを書いた滅除札を手に本堂で導師の笹津住職と式衆の僧侶による加持祈祷を受けた。
 笹津住職が「大難を小難に、小難を無難に変じ、転じて・・・」と、厄除けや七難退散、所札をはさんで合掌する参拝者の背中を式衆が法具で払った=写真。
 最後に導師らに続いて参拝者も境内に出て滅除札を火に入れて焚き上げ、甘酒の振る舞いもあった。
 8日には、八日堂の祈祷満願となる午前6時から日蓮聖人直筆の御本尊を公開し、2003年に聖人の指紋が発見されたことにちなんだ「おゆびあとまんじゅう」などを販売した。
【沼朝令和2年1月9日(木)号】

2019年12月30日月曜日

サクラエビ明治期の売買証明 桜を想起愛称が公称に


サクラエビ明治期の売買証明
 舟運で甲州へ色も珍重
 明治時代に山梨県笛吹市で商店を営んだ民家から、当時、駿河湾産サクラエビを販売したことを記した「勘定書」が残っていたことが、関係者への取材で分かった。同県立博物館が所蔵し、書式などから明治20年代までに作成されたとみられる。静岡県で1895(明治28)年に漁が始まってから、瞬く間に県外に普及していったことがうかがえる。
 勘定書は市街地の一角で薬や雑貨を扱う「薬種問屋」を営んでいた飯田家で見つかった。料金後払いの客のために作った購入録とされ、117日の項目には「酒六合(12)、カヅノ子(37厘、櫻海老(3)」などを売ったと明記。貨幣の種類や書式、使用している紙の種類などから同博物館は「作成時期は遅くとも明治20年代」と分析する。勘定書によると、サクラエビは酒1合より高値だった。一方でカズノコよりも安価だったことから、海産物として人気だったとみられる。この時売ったのは廉価だった素干しのサクラエビと推測される。

 小畑茂雄学芸員(44)は「海産物へのニーズは静岡県の人が想像する以上。サクラエビは目新しく、色もめでたさを想起する。好まれた可能性は高い」と語る。
 海に面していない山梨県の人々にとって「駿州の魚」は一大ブランドとして定着していたようだ。駿河湾で取れたサクラエビは日持ちするよう素干しに加工され、富士市を発着点とした富士川舟運(全長71キロ)などで届けられていたとみられる。毎年、砂糖に匹敵する量の海産物が持ち込まれていた。元船頭への聞き取りの記録には「サクラエビは水揚げしてすぐ同市の岩淵河岸から舟に積み、船頭の賃金をぐんとはずんで2日で運ばせた」とあり、生の状態でも運んでいた。山梨県で鮮魚は特に珍重され、市場では仲買人が買いあさる様子が「虎のけんかのよう」と例えられた。
 舟運と陸路の要衝として栄えた富士川町の鰍沢河岸跡では2005年にマグロの全身の骨が見つかり、沼津市からとみられるイルカや深海魚など2㍍級の大型魚を陸路で運んだことも分かっている。一方、丸ごと食べてしまう小さなサクラエビは骨が残らず、追跡は難しい。飯田家の一枚の勘定書は流通の証拠として存在感を放つ。

 1903年に中央線が甲府駅まで開通し、28年には富士身延鉄道が富土市と甲府市を結んだ。鉄道にとつて代わられた舟運は約300年の幕を閉じた。山梨県教委は「県歴史の道調査報告書 富士川水運」(91)で、この変遷を「南に向いていた甲州の顔は、東に向くようになった」言い表している。(「サクラエビ異変」取材班)
 1894(明治27)年のある夜、偶然大量に網にかかった。翌年から由比、蒲原で漁が本格化して、100年を待たずに静岡を代表する特産に。今や全国区で、海の宝石と称される駿河湾産サクラエビ。「ルビー」はいかに人々をとりこにし、広がっていったか。航跡を探る。
【静新令和元年(2019)1230日一面】




 桜を想起愛称が公称に
 「さくらえび」「桜海老」「櫻蝦」。ー独特な薄紅色や、めでたさを想起させる「言い得て妙」なこの名。これがなかったら、全国に魅力が認知されるのはもっと遅かったかもしれない。いつ、誰が、命名したのか。

 「あなたのひいおじいちゃんが付けた」。静岡市清水区由比今宿のサクラエビ加工業「望仙」店主の望月由喜男さん(72)は、母みつえさん=故人=に聞いて育った。1887(明治20)年に創業した曽租父仙吉さんが甲府に行商に出向いた折、「えびっかー(えびっかす)」と叫びながら歩くと、地元の人に「こんなきれいなエビをその呼び方ではかわいそうだ」と言われた。「じゃあサクラエビと呼ぼう」と思い付いたのが最初という。
 由喜男さんが逸話を聞かされたのは約60年前。漁を控えた夕方になると、屈強な漁師たちが街中にあふれた時代だった。「皆が狙う宝物の名前を自分のひいおじいさんが付けたのだと思うと、誇らしかった」。由喜男さんは回想する。
 大正初期に静岡県が刊行した「県之産業」には「干したエビの色がすこぶる美しく、桜花を想像させる」として97(明治30)年に「甲府の共進会で命名された」とあり、仙吉さん命名説と符合する。ただ、従前からサクラエビはわずかに取れ、由比と蒲原ではその名で呼ばれていたようだ。

 かねてから甲信地万に積極的に商品を売り込み、現地の需要を熟知していた仙吉さん。漁の本格化を機に「特別なエビ」と位置付け、商機を見いだした可能性もある。由喜男さんは「ひいおじいさんは、局地的な愛称を甲府で公称にした、という方が正しいのかも」とみる。
 命名の3年前の12月、仙吉さんと同じ由比今宿の漁師望月平七さんと渡辺忠兵衛さんがアジ漁に出た際、当時の3年分の水揚げ畳に匹敵するサクラエビの群れを当てた。2人は浮きを忘れたとされ、普段より深く沈んだ網が、日没後、プランクトンを狙つて海底から海面へと浮上してきた大集団を偶然包んだ。仙吉さんは孫だったみつえさんに「あまりに大量で扱いに困った」と明かしたという。


 95(明治28)年に由比、翌年に蒲原でサクラエビ漁が本格化。「2時間で100日分の収入」とされ、陸路や富士市の岩淵河岸に発着する帆掛け船に大量に積み込み、富士川舟運で2日で山梨県に届けられた。
 偶然の発見から125年。未曽有の不漁という逆風にさらされる今、その名が「後世にずっと残されること」を由喜男さんは願ってやまない。
 (「サクラエビ異変」取材班)
【静新令和元年(2019)1231(火曜日)

2019年12月29日日曜日

まちのお菓子屋さん「大黒屋」 煎り豆製造から始めて100年の歴史刻む(沼朝記事)


まちのお菓子屋さん「大黒屋」
 アーケード名店街にある「大黒屋」が今年で創業100年を迎えた。地域の人や子どもから「まちのお菓子屋さん」として親しまれている。
 100年という長い歴史には様々な変遷があった。

 創業は大正8年。初代の海野清さんが煎り豆製造を始めたのが、その起こり。
 20歳の頃、台湾に渡った清さんは、現地の人が煎り豆をしているのに興味を覚え、その技術を習得。日本に戻ると、天秤棒を担いで売り歩くようになった。
 現在の場所に店舗を構えたのは昭和8年。ここで煎り豆と共に菓子も扱うようになった。
 20年の沼津大空襲で市街地が全焼。仮店舗を構え、額縁と、アイスクリームの製造販売を開始。喫茶を営みアイスを出していたという。しかし、統制により店舗営業ができなくなると、パチンコの景品となる菓子の製造販売を行ったこともある。
 22年に統制が解除になり、煎り豆の製造と一般菓子の取次販売も再開。
 その頃、店で煎って販売していた豆を、雑貨店などの小売店から分けてほしいと請われ、小分けにして配達するようになったのが、卸売りの始まり。やがて一般菓子の取り次ぎもするようになった。
 24年、2代目の清次さん(故人)が代表取締役に就任。ちょうどその頃、柳下家から、清次さんのもとに佳子さんが嫁いで来る。奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)を卒業後、母校の沼津高等女学校(現西高)の教諭を務めていたが、結婚後は清次さんと共に力を合わせて大黒屋を支え、発展を牽引した。
 仕入れは、佳子さんが味をみて、認めた味の菓子だけを仕入れた。砂糖か人工甘味料かは味で分かったし、煎餅も、どんな米を使って作られたかで味は違う。売り込みに来る業者は、味見をする佳子さんの顔をじっと見ていたという。
 卸した先の店では「大黒屋さんのお菓子はよく売れる」と評判となり、事業は大きくなった。
 28年には、アーケード名店街の一員として新装開店。斬新な造りの商店街には、全国各地から見学に訪れる人も多く、大黒屋も最盛期を迎える。
 映画館や遊技場が立ち並び、にぎわう街の中に、煎った豆の香りが流れ、多くのお客を呼んだ。
 節分の時期になると店は連日、お客でいっぱいになった。煎り上がった豆が店頭の木箱に入れられると、それを升で計って売った。寒い季節、温かな豆の中に、お客が手を入れていることもあったという。
 当時、住み込みの従業員は男女10人以上いて、中学を卒業後、すぐに来た子もいれば、高校を出てから来た子もいた。佳子さんは、この子達の親代わりとなり、同じ食卓を囲んで、同じものを食べ、稽古ごとをさせ、慰安旅行にも連れて行った。
 その後、商売はさらに大きくなり、42年には卸売流通業を本格始動。玉江町に広大な土地を得て社屋を造った。清次さんは病を乗り越えながら、佳子さんと販路を切り開き、駅や自衛隊、企業、そして小売店や大型店舗にも菓子を納入するようになり、事業は順調に拡大。
 平成になり、長男の伸男さんが代表取締役に就任。大手菓子問屋と業務提携を結ぶなど事業形態を変革。大規模スーパーの進出などで流通の様相が変わり、取引の価格も規模も大きくなった時期だった。しかし、変化の波は予想以上に大きく、玉江町の大黒屋卸部は解体。
 小売部は、伸男さんが代表となってすぐに独立させ、妻の美保子さんに切り盛りを任せて継続。そして今日まで変わらぬ場所で営業を続けている。
 創業者の清さんが亡くなる前に、涙を流しながら「あとは頼んだぞ」と佳子さんに言ったという。その時から佳子さんは覚悟を決めて、100年を見据えながら大黒屋の看板を守ってきた。
 社会構造の変革を乗り越えての「大黒屋の100年」。

 現在は、まちのお菓子屋さんとして、地域の人、とりわけ子ども達に愛されている。昔ながらの懐かしい菓子や、10円、20円の駄菓子も並び、今も昔と変わることなく、子どもの心をときめかせる。
 最近では、伸男さんの息子、伸悟さんが今川焼の製造販売を始めた。豆を煎って売った大黒屋の原点に立ち返り、新たな商店街を考えるヒントになれば、との思いがあるようだ。
 店内には椅子とテーブルが置かれ、訪れたた人が座ってゆっくり話をしていくこともあり、子ども達のちょっとした社交場にもなっている。時には中学生が伸男さんと美保子さんに話を聴いてもらいに来ることもある。
 ラブライバーにも親しまれ、休日になれば県外から訪れる人も多い。どんなお客も自然体で迎えるのが、大黒屋だ。
 伸男さんは地域の役員などを歴任し奉仕を続けている。母親の佳子さんも、最も多忙な時期から民生委員や市民福祉相談員をはじめ、数々の責任ある役を預かってきた。
 大黒屋に住み込みで働いていた人達は、年に1回開かれていた「思い出会」で佳子さんのもとに集まり、心楽しい思い出を語らっていた。
 事業をつないでいく要となるのは、やはり人と人とのつながりなのだろう。そう思わせるものが、ここにはある。
【沼朝2019(令和1)1229(日曜日)号】