2019年12月29日日曜日

まちのお菓子屋さん「大黒屋」 煎り豆製造から始めて100年の歴史刻む(沼朝記事)


まちのお菓子屋さん「大黒屋」
 アーケード名店街にある「大黒屋」が今年で創業100年を迎えた。地域の人や子どもから「まちのお菓子屋さん」として親しまれている。
 100年という長い歴史には様々な変遷があった。

 創業は大正8年。初代の海野清さんが煎り豆製造を始めたのが、その起こり。
 20歳の頃、台湾に渡った清さんは、現地の人が煎り豆をしているのに興味を覚え、その技術を習得。日本に戻ると、天秤棒を担いで売り歩くようになった。
 現在の場所に店舗を構えたのは昭和8年。ここで煎り豆と共に菓子も扱うようになった。
 20年の沼津大空襲で市街地が全焼。仮店舗を構え、額縁と、アイスクリームの製造販売を開始。喫茶を営みアイスを出していたという。しかし、統制により店舗営業ができなくなると、パチンコの景品となる菓子の製造販売を行ったこともある。
 22年に統制が解除になり、煎り豆の製造と一般菓子の取次販売も再開。
 その頃、店で煎って販売していた豆を、雑貨店などの小売店から分けてほしいと請われ、小分けにして配達するようになったのが、卸売りの始まり。やがて一般菓子の取り次ぎもするようになった。
 24年、2代目の清次さん(故人)が代表取締役に就任。ちょうどその頃、柳下家から、清次さんのもとに佳子さんが嫁いで来る。奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)を卒業後、母校の沼津高等女学校(現西高)の教諭を務めていたが、結婚後は清次さんと共に力を合わせて大黒屋を支え、発展を牽引した。
 仕入れは、佳子さんが味をみて、認めた味の菓子だけを仕入れた。砂糖か人工甘味料かは味で分かったし、煎餅も、どんな米を使って作られたかで味は違う。売り込みに来る業者は、味見をする佳子さんの顔をじっと見ていたという。
 卸した先の店では「大黒屋さんのお菓子はよく売れる」と評判となり、事業は大きくなった。
 28年には、アーケード名店街の一員として新装開店。斬新な造りの商店街には、全国各地から見学に訪れる人も多く、大黒屋も最盛期を迎える。
 映画館や遊技場が立ち並び、にぎわう街の中に、煎った豆の香りが流れ、多くのお客を呼んだ。
 節分の時期になると店は連日、お客でいっぱいになった。煎り上がった豆が店頭の木箱に入れられると、それを升で計って売った。寒い季節、温かな豆の中に、お客が手を入れていることもあったという。
 当時、住み込みの従業員は男女10人以上いて、中学を卒業後、すぐに来た子もいれば、高校を出てから来た子もいた。佳子さんは、この子達の親代わりとなり、同じ食卓を囲んで、同じものを食べ、稽古ごとをさせ、慰安旅行にも連れて行った。
 その後、商売はさらに大きくなり、42年には卸売流通業を本格始動。玉江町に広大な土地を得て社屋を造った。清次さんは病を乗り越えながら、佳子さんと販路を切り開き、駅や自衛隊、企業、そして小売店や大型店舗にも菓子を納入するようになり、事業は順調に拡大。
 平成になり、長男の伸男さんが代表取締役に就任。大手菓子問屋と業務提携を結ぶなど事業形態を変革。大規模スーパーの進出などで流通の様相が変わり、取引の価格も規模も大きくなった時期だった。しかし、変化の波は予想以上に大きく、玉江町の大黒屋卸部は解体。
 小売部は、伸男さんが代表となってすぐに独立させ、妻の美保子さんに切り盛りを任せて継続。そして今日まで変わらぬ場所で営業を続けている。
 創業者の清さんが亡くなる前に、涙を流しながら「あとは頼んだぞ」と佳子さんに言ったという。その時から佳子さんは覚悟を決めて、100年を見据えながら大黒屋の看板を守ってきた。
 社会構造の変革を乗り越えての「大黒屋の100年」。

 現在は、まちのお菓子屋さんとして、地域の人、とりわけ子ども達に愛されている。昔ながらの懐かしい菓子や、10円、20円の駄菓子も並び、今も昔と変わることなく、子どもの心をときめかせる。
 最近では、伸男さんの息子、伸悟さんが今川焼の製造販売を始めた。豆を煎って売った大黒屋の原点に立ち返り、新たな商店街を考えるヒントになれば、との思いがあるようだ。
 店内には椅子とテーブルが置かれ、訪れたた人が座ってゆっくり話をしていくこともあり、子ども達のちょっとした社交場にもなっている。時には中学生が伸男さんと美保子さんに話を聴いてもらいに来ることもある。
 ラブライバーにも親しまれ、休日になれば県外から訪れる人も多い。どんなお客も自然体で迎えるのが、大黒屋だ。
 伸男さんは地域の役員などを歴任し奉仕を続けている。母親の佳子さんも、最も多忙な時期から民生委員や市民福祉相談員をはじめ、数々の責任ある役を預かってきた。
 大黒屋に住み込みで働いていた人達は、年に1回開かれていた「思い出会」で佳子さんのもとに集まり、心楽しい思い出を語らっていた。
 事業をつないでいく要となるのは、やはり人と人とのつながりなのだろう。そう思わせるものが、ここにはある。
【沼朝2019(令和1)1229(日曜日)号】

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