2022年7月15日金曜日

「私の体験した沼津空襲」 浜悠人

 



「私の体験した沼津空襲」 浜悠人

 ウクライナでの戦争を思うにつけ、私の戦時体験が思い出される。我が国は昭和十六年十二月八日の開戦以来、赫々(かくかく)たる戦果を上げていたが、徐々に敗け戦となり、昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムにアメリカ軍が進攻し島に急きょ飛行場を建設した。

 ここを飛び立った大型戦略爆撃機B29(超空の要塞)は全長30㍍、全幅43㍍、航続距離9000㌔、操縦室は冷暖房完備の気密室で防御も強靭な装甲板で覆われていた。高度800010000㍍の上空を時速640㌔で飛行し、爆弾倉には9トンの爆弾、焼夷弾を搭載し、毎晩、日本の各都市を襲った。対する日本の戦闘機は高々度での飛行性能に劣り、迎撃するのは困難であった。

 ところで、昭和十九年十一月五日昼、B29一機が高度10000㍍の上空を怪物が異様な煙を吐くがごとく白い飛行機雲を引いて去って行った。実は、これが本土の基地や軍需工場への初の偵察飛行であった。

 翌二十年に入り沼津はB29一機による爆撃を数度受けた。一月九日の大手町、上本通、四月十一日の通横町、吉田町、四月二十三日の下香貫技研、宮脇町。この時のことが「十七歳の少女、菊地ひで等七名空襲の犠牲となりてこの地に散華す」と記念碑に刻まれている。

 五月十七日の三枚橋、平町。この日、私達旧制沼中の二年生は空襲警報で下校、丁度私は三園橋を渡っていた。爆撃音で橋の上に伏せたら上流100㍍の所に水煙が立上っていた。

 七月十六日、この夜も毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く続き発令された。防空壕に退避していたらB29は沼津上空を過ぎ、平塚方面に向かったとラジオは報じた。これは陽動作戦であると後になって知った。

 警報も解除となり私は自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、「空襲、空襲」の叫び声、急いで飛び起き窓を開けると、南の香貫方面の空は照明弾で真昼のような明るさだった。家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め土をかぶせていくから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。

 香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下して、時折、ヒューという異様な音が混じり肝が冷やされた。

 私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げた。その頃、田圃(たんぼ)越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化しているのが見えた。この夜(状況は次のように発表されている。

 B29百三十機が駿河湾を北上、沼津を空襲。死者二百七十四人、焼失家屋九千三百四十一戸。 沼津は文字通り焼け野原と化した。この夜、須田病院の一家六人が犠牲となり、現在、聖隷病院傍らに戦災犠牲者記念碑が建っている。

 八月三日の昼日なか、焼け跡に立って東の箱根山に目をやるとエンジンを止めたグラマン艦載機が私の方に近付いていた。側の掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込むと、一瞬遅れてダダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを弾がかす}めた。

 その後、沼津駅の方向を見ると黒煙が 立ち上り、駅構内に[あったガソリンタンクが機銃掃射で爆発炎上した。この時の被害は死者三、重軽傷三。

 ところで、先頃、アメリカ公文書館が保存していたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラのカラー映像を見る機会を得た。当時、グラマン機の翼には戦果を記録するためガンカメラが取り付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。

 前述の八月三日、私を襲ったグラマン機と並行して線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填(そうてん)の他の一機がいたことが画面から分かった。その機は焼け跡の藤倉電線の二本の煙突を掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には干本松原も映っていた。

 私は命拾いした八一月三日の昼時に襲って来たグラマン機が機上から克朗に写していたのに唖然とした。戦後七十余年を経、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観て興奮し、一晩眠れなかった。

 最後に、私は戦時中の耐え難い体験を幾度でも書き、いつまでも平和は守っていかねば、と訴え続けていきたいと思っている。

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和4715日(金)号 寄稿文】


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