2023年7月6日木曜日

ぬまづ100年いまむかし  

 


ぬまづ100年いまむかし

①御成橋と井上靖

 「文豪」育んだ街の象徴



 沼津市の中心市街地を悠々と流れる狩野川。幾多の橋の中でも、県東部初の鉄橋として1912(明治45)年に架けられ、市民に愛されているのが御成橋だ。沼津御用邸に〃御成りになる"皇族方が渡ることから、その名が付けられた。

 沼津市名誉市民で作家の井上靖(0791)も御成橋を愛した}人。市制が施行したちょうど100年前の23(大正12)年、井上は現在市民文化センターや香陵アリーナのある場所に建っていた旧制沼津中(現沼津東高)に通っていた。

 学校から徒歩数分の御成橋周辺は当時、船着き場や料理店、書店などがある繁華街。井上は白伝的小説一夏草冬濤(なつぐさふゆなみ)」に御成橋を何度も登場させ、友人たちと遊んだ沼津のにぎわいの象徴として描写している。井上靖文学館(長泉町)学芸員の徳山加陽さん(37)は「旧制中学時代の友人は作家としての井上に大きな影響

を与えた。御成橋やその周辺は彼の原点の地」と語る。

 37(昭和把)年に架け替えられた現在の橋の鉄骨には、太平洋戦争中の空襲で被弾した跡が残る。御成橋は沼津の歴史の生き証人でもある。

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 192371日、静岡市、浜松市に次ぐ県内3番目の市として誕生した沼津市。市制施行100周年を迎え、今昔の写真とともにまちの変遷や課題を取り上げる。

【令和571日(土)朝刊】

ぬまづ100年いまむかし

  沼津御用邸

皇室との縁市民の誇り 


 1889(明治22)年、東海道線が沼津駅まで開通し、東京との行き来が便利になるへと、温暖で避寒に適した沼津の海岸沿いは軍や政財界の要人の別荘地としてにぎわいを見せる。皇室も93(明治26)年、大正天皇(当時皇太子)のご静養先として、松林に囲まれた地に沼津御用邸を造営した。1969(昭和44)年に廃止されるまで、多くの皇族が過ごされた。

 70年、沼津市が沼津御用邸記念公園として整備。現在は空襲で焼失した本邸の跡に市歴史民俗資料餌が建ち、西付属邸と東付属邸が当時の姿を残す。隣接地には学習院の游泳場があり、沼津と皇室とのつながりは今も続く。

 昭和天皇は幼少の頃、夏や冬に長期間滞在する際の「学問所」として造営された東付属邸で勉学に励んだ。3日、昭和天皇が学んだ東付属邸の「第一御学間所」と呼ばれる部屋で、将棋の藤井聡太棋聖と佐々杢人地七段が対局する棋聖戦第3局が指される。

 同公園の轟敏男所長(43)は「棋聖戦で注目される中、御用邸は市民の誇りなのだと再認識した。歴史に恥じぬよう守っていきたい」と次世代へ継ぐ使命感を胸に抱く。

【静新令和5年7月2日(日)朝刊】


 ぬまづ100年いまむかし

 ③沼津仲見世商店街

 若い力にぎわい後押し


 県東部の「商都」沼津市を代表する商店街、沼津仲見世商店街。戦前は駅前通りの裏通り的な存在だった。戦後、空襲で焼け野原になった街に青空市場が出現すると、徐々に商店街として形成されていき、1953(昭和25年に「仲見世通り」と名付けられた。

 56(昭和31年には沼津の夏の風物詩となっている七夕まつりがスタート。61(昭和36)年にはアーケードが完成し、高度経済成長期には商店街やその周辺に十字屋、丸井などの大型店が出店。にぎわいは最盛期を迎えた。

 バブル経済の崩壊や郊外型店舗の出店で、90年代から2000年代初頭にかけて大型店は相次いで撤退。再開発の起爆剤となるはずのJR沼津駅高架化は足踏みを続けた。その後は徐々に店舗や人通りも減少したが、高架工事が始まったのに呼応し、マルサン書店の旧仲見世店(旧士重周辺で再開発の動きが始まっている。

 仲見世商店街が高校への通学路だった望月大樹さん(45)は昨年から今年にかけ、商店街に飲食店と韓国食品店を出店した。「再開発には時間がかかる。それまで中高生から.親世代が集い続ける商店街にするため、小さな店が頑張りたい」とにぎわい復活へ意気込む。

【静新令和5年7月3日(月)朝刊】

ぬまづ100年いまむかし

 ④門池

 「竜伝説」残る憩いの場



 東名高速道沼津インターチェンジを利用する車が行き交う沼津市岡一色の国道246号から東に200㍍ほど入ると、敷地約68万平万㍍の門池公園が目に入る。池の外周13㌔の遊歩道は、釣り客や散歩に訪れる市民の憩いの場になっている。

 門池は江戸時代初期、黄瀬川の水を引き込んだ農業用水のため池としてつくられたとされる。地域には、竜が門池に落とした虹色の玉が千年後に光ったーという伝説「門池の竜」が伝わり、当時ののどかな田園地帯の風景をしのばせる。

 2007(平成19)年には池の北側で国際技能五輪が開催され、世界から若手技術者が集った。会場は県立沼津技術専門校となった後、21(令和3)年から県立工科短期天沼津キャンパスとして生まれ変わり、次代の技術者育成の場になっている。

 門池周辺は高度経済成長期に住宅地として開発が進んだ。当時、住まいを求めた世代が高齢化する中、コミュニティーの維持を図ろうと地域の団体が芋焼酎づくりや公園でのバーベキュー事業に取り組む。門池地区連合自治会の福田和男会長(69)は「門池を'取り囲む地域のつながりを深めたい」と意気込む。

【静新令和5(2023)74(火曜日)


ぬまづ100年いまむかし

 ⑤沼津港

 豊富な魚種が人を呼ぶ



 全国でも有数の水揚げ量を誇る沼津港。新型コロナウイルス禍前は年間160万人を超える来訪客を集め、近年は観光地としての側面も強い。102929の両日には沼津市制100周年記念事業として、海の幸を使ったグルメが集う「Sea(シー)級グルメ全国大会」が開かれる。

 かつて狩野川にかかる永代橋付近にあった沼津港が移転したのは、1937(昭和12)年。船の大型化に伴い、70(昭和45)年には外港が完成した。アジやカツオをはじめ、駿河湾の深海魚など豊富な魚種が集うのが特徴だ。

 港に変化が訪れたのは、2007(平成19年の新魚市場完成と、かつてアジの競り場だった場所に09(平成21)年に建設された商業施設「沼津みなと新鮮館」の開業。さらに11(平成23)年には沼津港深海水族館が開館し、観光地化が加速した。

 ぬまつみなと商店街協同組合の後藤義男理事長(75)は「沼津港は多彩な魚種が集まるからこそ、水揚げ港、消費市場、観光地と多様な顔を持つようになった」と見る、一方で観光地としての沼津港は観光客の滞在時間の短さが課題だ。「駐車場や交通アクセスの向上が必要。飽きられないようにしなければ」と気を引き締める。

【静新令和5(2023)75(水曜日)


 

ぬまづ100年いまむかし

⑥完 伊豆三津シーパラダイス



 老舗変化「学ぶ」施設に 沼津市中心部から南に車で30分ほど、駿河湾に面した港町の内浦地区。作家太宰治添「斜陽」を執筆した安田屋旅館の斜め向かいに、全国で2番目に歴史の長い水族館「伊豆・三津シーパラダイス」がある。

 1930(昭和5)年、地元有志が「中之島水族館」の名称で、漁師の網干し場の前の入り江を仕切り、イルカなどを展示したのが始まり。41(昭和16)年からは駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)が運営し、54(昭和29)年には名称を「三津天然水族館」に、77(昭和52)年には全面改装して現名称になった。

 ミンククジラやラッコを日本で初めて飼育し、1980年代にはチンパンジーがイルカに乗るショーも。時代の変化で「見る」水族館から「学ぶ」水族館へと役割が変わり、飼育員の作業を体験できる施設も加わった。近年は安田屋旅館とともに人気アニメ「ラブライブ!サンシャイン!」の"聖地"として新たな客層も開拓する。

 通算で25年余り勤務する職員の志村博さん(59)は「水族館も変化を求められる時代。飼育研究の場としての側面も持ちながら、来場者に楽しんでもらえる施設であり続けたい」と誓う。

 (東部総局・尾藤旭、田中秀樹が担当しました)

【静新令和5(2023)76(木曜日)

 

 


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