2024年4月23日火曜日

井上靖の文学碑を訪ねて 浜悠人 【沼朝令和6年4月23日(火)寄稿文】

 



井上靖の文学碑を訪ねて 浜悠人

 三島駅から大社へ行く途中、桜川に沿って「水辺の文学碑」がある。その中に井上靖の「三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幟旗が何本かはためいていた。『少年』(昭和二十九年発表)より」なる碑が見出される。

 また、沼津駅に降りると、駅前の白き彫像の下には「若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない」なる碑があり、その原書は沼津朝日新聞社に飾られている。

 香貫の市民文化センターは靖の母校旧制沼津中学校があった香陵の地に当たり、センター内には「ふるさと」と題す随筆がある。

 「"ふるさと"という言葉は好きだ。古里、故里、故郷そして故薗、郷関-故園は軽やかで颯々と風が渡り郷関は重く憂愁の薄暮が垂れこめているが、どちらもいい」

 御成橋の袂には「井上靖(明治四十年~平成三年)は天城山麓の湯ヶ島で幼少期を過した。大正十一年から、旧制沼津中学で学び、友人たちとの出会いによって文学に目覚めた。井上文学の礎は、ここ沼津で築かれたのである」と記され、『夏草冬涛』の一節「御成橋の上から見る眺めも、いかにも都会の川といった感じで、橋付近の両岸は人家や倉庫で埋められている」と紹介されている。

 靖は沼中時代、下河原の妙覚寺に下宿したことがあり、境内には親友達の碑文に混じり、「思うどち遊び惚けぬそのかみの香貫、我入道みなとまち夏は夏草冬は冬涛」がある。

 香陵の地を去り、愛鷹へ移った東高には「潮が満ちて来るように人は己が生涯を何ものかで満たすべきだ」なる碑がある。

 最後に訪ねた千本松原にある文学碑は芸術的で、中央にトルソー(注・頭部や手足がない胴だけの像)が建ち、台座には靖の代表作品、百余編の題名が刻まれ、正面には「千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた少年の日私は毎日それを一つずつ食べて育った」とあり、更に文学碑の解説文の中に「私が小説を害くようになったのは沼津の町のお陰であり、その頃一緒に遊び惚けていた何人かの友達のお陰である。人生というものがどんなものか、生とは死とは、文学とはーそうしたことに関する最初の関心を、私はこの町とこの町の友達から教わったのである」と述べ、井上文学の原点が沼津中学時代にあったと述懐している。

 こうして巡って見て来ると、靖が、いかに沼津を愛していたか、そして沼津が靖をいかに尊敬していたかが分かった。

 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和6年4月23日(火)寄稿文】




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