2010年2月20日土曜日

「肥大化し続けた改革幻想」 芹沢一也

論考 2010「肥大化し続けた改革幻想」 芹沢一也
 ショーより政策論議 政党政治見つめ直せ
 政権交代が実現した暁には、政官業癒着などの腐敗を生みだし、機能不全を起こしていた自民党政治は刷新されるはずだ。つての期待はいま、「政治とカネ」の問題に政権が揺れるなか、大きく失望へと変わってしまった。
 しかし、たとえ政権が倒れようとも、議会制民主主義は終わらない。また、グローバル化と民営化の波にさらされ、国家に期待される役割は少なくなったといえ、私たちの社会生活の根幹を支えるために、金融・財政政策や再分配政策、セーフティーネットの整備など、国家にしかできないこともなくならない。
 そして、国家をハンドリングするためのもっとも重要な回路は、今後も国家と社会(国民の要望)とを媒介する政党でありつづける。
 ▽至上命令
 それゆえ、私たちは政党政治に失望するわけにはいかない。とはいえ、政治に対する私たちのスタンスについては、ここで冷静に見つめなおす必要がある。政権交代をひとつの「終わり」としなくてはならないからだ。
 何の終わりか?「改革」幻想の終わりである。
 そもそもなぜ、先の総選挙で政権交代などという、政策的内容のまったくないメッセージが争点となりえたのか?それは先立つ20年間に改革幻想が肥大化し続け、それを引き受けることのできる最後のよりどころが政権交代だったからである。
 はじまりは1988年のリクルート事件。この汚職事件の発覚によって、政治改革の時代が幕を開けた。改革の中心におかれたのは、カネのかからない政策本位の選挙の実現、すなわち選挙制度改革(小選挙区制の導入)である。
 さらにこの時期は、冷戦崩壊を受けて55年体制が動揺していた。そうしたなか、古い自民党政治を保守しようとする勢力が守旧派、政治改革を断行しようとするのが改革派と、政治勢力がふたつのレッテルに色分けされた。以来、改革派のポジションを占めること(のみ)が、至上命令と化していく。
 ▽危機意識
 ところが、94年に選挙制度改革が実現しても、期待したような政治は実現しない。しかも、さらなる悪事情が重なった。90年代後半は、バブル崩壊後の一時的なものだとされていた不況が長期化するなかで、経済も根本的な問題を抱えているという危機意識がまん延したのだ。
 いまや日本というシステムそのものが、トータルな改革を必要としているのではないか?そこに現れたのが小泉純一郎だ。「自民党をぶっ壊す!」と守旧派を抵抗勢力に仕立て上げた小泉は、90年代初頭以来の改革のロジックに忠実にしたがっていた。そして、政治腐敗と経済の停滞に倦(う)む国風を前にして、「構造改革なくして景気回復なし」と叫び、2000年代前半を改革への熱狂に巻き込んだのだ。
 ▽民主党の演出
 ところが、00年代後半になり格差や貧困が問題化すると、今度は小泉政治が葬り去られるべき敵に仕立て上げられる。改革のフラッグは民主党の手に渡った。
 政治改革(脱官僚)を本当に望むならば「政権交代」しかなく、またそれは弱者を切り捨てた小泉政治を是正するものだと「国民の生活が第一」とうたわれた。そして、両者を同時に達成するための手段が、「税金のムダつかい」を徹底的に見直すこと(「コンクリートから人へ」)だとされたのだ。事業仕分けがクライマックスとして演出されたのは、こうした理由からである。
 民主党もまた、徹頭徹尾、改革のロジックのもとにある。それゆえ、私たちは事業仕分けのようなショーは与えられても、いまだ政策を媒介にした政治とのかかわりをもてないでいる。
 おそらく、1990年代半ば以降の不幸とは、何よりも重要な不況からの脱出の模索が、先行していた改革論議にのみ込まれてしまったことだ。だが、経済政策がリードすべき不況の克服は、政治改革とはまったく別次元の事柄なのだ。
 プラグマティズム(実用主義)のもとにあるべき政策論議を、改革というヒロイズムに、そしてそれがもたらす陶酔に委ねてしまってはならない。わたしたちは、ここ20年間続いてきた改革依存症から、そろそろ解放されねばならない。(社会学者)
(静新平成22年2月20日「文化・芸術」)

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